第1章5





 もう23色入れた方が良いかな…。描きかけのキャンバスを見ながら考える。今のままでは深みが足りない。

 カラカラ…と控えめにドアが開く音。ゆっくりと足を踏み入れる気配がしたけど、視線はキャンバスに向けたまま。絵を描いてるときは、特別なことがない限り、他のことに意識を向けない。私の、昔からの癖。

 

 

「お久しぶりです、先輩」

やっと作業がひと段落したので、馴染みのその人に挨拶をする。

「久しぶり、咲ちゃん。元気にしてた?」

「はい、おかげさまで。先輩は美術館、どうでした?」

「勉強になったよ。想像していたよりずっと広くて、じっくり見てたら5日あっても足りないくらいだった」

ニコって、色白の顔が微笑む。

 

 

 佐藤敦也(さとうあつや)。美術部の先輩。2年生。穏やかな雰囲気、涼しげな物腰、繊細かつキレイな顔立ちで、いるだけで存在感がある。

校内の女子から「王子」って呼ばれてるのにも、ああこの人ならって納得しちゃう。

絵のセンスもすごくて、色んな美術コンクールで賞を取ってる、私の尊敬する人。

先輩は昨日までの5日間、パリの美術館に絵画の勉強をしに行ってた。

 

 

「独りで描いてるとなんだか気が抜けちゃって。いつも先輩と二人だったから」

「嬉しいこと言ってくれるね」

美術部員は少なくて、しかもほとんどが籍を置いてるだけの幽霊部員だから、まともに活動してるのは私と先輩くらいなんだ。

 

「そうだ、先輩、もしかして美術室の掃除してくれました?」

「ああ…こっちを発つ前に少しだけ」

ちょうど描いていた絵が仕上がったから、色々片付けるついでにね、って。先輩はなんでもない風に言った。

「いつもありがとうございます」

「その辺に置いてあった画材を片付けただけだよ。俺のものが多かったし、そろそろ片付けないと先生がうるさいから」

 

気を使わせないようにって、先輩の言葉からは、いつも配慮が感じられる。私はつい、それに甘えてしまう。

 

 

 少しの会話の後、室内はまた静かになった。先輩も、絵を描いているときは周りを気にせず没頭するから。

お互いにそれを分かってて、どちらかが描いているときは話しかけない。いつのまにか、それが暗黙の了解。

 

 

 

 

「もう暗いし、今日は家まで送ってくよ」

 帰りが遅くなると、先輩は決まってこう言う。

「そんなに距離があるわけじゃないし、一人で大丈夫です」

始めのうちこそ、そう言って断ろうとしたんだけど

「一人で帰して、もし咲ちゃんに何かあったら後悔するのは俺だし」

微笑んでこう返されちゃったら、何も言えない。今じゃすっかり先輩の好意に甘えてしまってる。

 

 

 

 

「先輩は、プロを目指すんですか?」

なんとなく、尋ねてみた。描くことが好きでも、職業にして生計を立てていける人って一握りだから。

 

「俺は…もっと絵のことを知りたい」

「…」

「俺にとって、絵は魅力的で、その楽しさとか厳しさの底が知れない。まだまだ表面をなぞった程度だと思う。だからもっと、先のことまで考えるには、経験して、知ることから始めないと。

将来的にどうやって絵と関わっていくのか、それから決めるのでも遅くないと思うんだ。」

ただ、描くことをやめるっていう選択は、俺には無理だと思うけどね。って。

笑顔で、でもハッキリと、先輩は言った。

 

 

「咲ちゃんは?」

「え…」

 

「初めて君が描く姿を見たとき、この子は違うと思った」

 

 

「……」

「ポリシーを持ってるって言えばいいのかな、とにかく揺るがない何かがあると思った」

 

そんな風に、見てもらえてたなんて。

 

「……感動してもらいたいんです。私の絵で」

 

「学校に行って、授業を受けて、友達とお喋りして、絵を描いて、家に帰って、そういう変わりばえしない毎日でも、ああ、いいなーって思う瞬間がある。そういうのを、描くことで伝えたいんです。」

恥ずかしくなって、少し俯いた。でも、先輩になら打ち明けても良い。ううん、先輩に聞いてほしい。

「小学校低学年のとき、そういう絵に出会ったんです。それまでは絵にそんなに興味はなくて、でもその絵をみて私、感動しちゃって。それからなんです、描きたいって思ったの」

先輩は黙ってたけど、真剣に聴いてくれてるって、気配で分かった。

 

「大物になりそうだなあ、咲ちゃん…」

「そんなことないです」

少し目を伏せて、かぶりを振った。

 

「実は私、小学校高学年のとき、如月響子の個展に絵を出させてもらえることになってたんです」

「如月響子……って、大物画家じゃないか…」

 

 如月響子は、海外を中心に活動してる画家で、美術の世界では知らない者はいないってくらい有名な人。独特の作風にはたくさんのファンがいて、毎年海外で個展を開いてる。

おまけに、容姿も抜群にキレイだから、テレビに出演することも多い。

 

「嬉しかったです、すごく。憧れの人ですし…。

出会えたことも、私が描いた絵をみてもらえたことも、偶然でした。私の絵は気に入られて、個展に出す気はないかって聞かれたんです」

「小学生で…か……絵の道を目指していたのなら、夢のような話だね」

「本当に、夢みたいでした。舞い上がって、学校でも大々的に表彰されて。…でも、その夢は長くは続かなかったんです」

「……どうして…?」

 

「………絵を、ダメにしてしまったんです。直前になって……私のせいで…」

「……」

将来を考えれば、またとないチャンス。絶対にモノにしなければならなかった。それなのに…。

 

「ごめんなさい。暗くなっちゃいましたね」

 重い空気を取り払いたくて、笑顔で努めて明るい声を出した。

 

「次は掴めるよ」

「え…?」

「一度プロに認められたんだ、咲ちゃんには素質があるってことだよ。一度は失敗した。けど、それを克服して描き続けていれば、君の中の光るモノが外に表れてくるはずだ」

「先輩…」

「一度は逃して悔しい思いをした経験がある。だからこそ、次のチャンスが巡ってくれば、必ず掴める」

 そうでしょ?って。

そう言って先輩は柔らかく微笑んだ。

 

「……はい…」

 

 ダメ…。我慢しなきゃ。でも止まらない。

 慌てて頬にハンカチを当てた。

 

先輩は小さい子にするみたいに、よしよしって一度だけ私の頭を撫でてくれた。

それからは、お互い何も言わずに月明かりの街路を歩いた。

 

 

心地良い、沈黙だった。





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