第1章9





どんよりと雲に覆われた空。朝からずっと。

コレじゃ、いつ降り出してもおかしくない。

 

 

 

「あ、咲ちゃん、ここにいたんだ」

「先輩…」

 

 学校の中庭。芝生が生えてて、ベンチと、水は止まってるけれど大きな噴水がある。晴れた日のお昼は、生徒たちの絶好のランチスポット。

 私はベンチの1つに座り、キャンバスにスケッチをしてた。

 放課後の今は、私と先輩以外に人影はない。

 

「紫陽花?」

「はい」

「綺麗だね…。そっか、もう梅雨の時期か」

 

 キャンバスには、寄り添うように鮮やかに咲いた紫陽花。この間、杏奈とここでお弁当を食べてるときに、見つけた。

 

「この時期ならではのものが、描きたくて」

「咲ちゃんらしいね。でもここは屋外だし、暗くなる前に美術室に戻ってきたほうがいいよ」

 色々と物騒だから…って、お父さんみたいなことを言う先輩に、笑ってしまった。

 こういうやり取り、すごくほっとする。

 私のこと、先回りして包み込んでくれる言葉、行動。

 私がどんなにバカで、失敗ばかりで、どうしようもない女の子でも、先輩はきっと、優しく微笑んでくれる。

 

 

「あ、絵の具…足りない」

 買い足すのが面倒で、騙し騙し使ってたのが、とうとう底を尽きてしまった。

「黒…?確か美術室に新しいのがあったよ。俺、もう行くから一緒に取りに来る?」

「はい」

 

 先輩の後について、ベンチを立った。

キャンバスは…すぐ戻ってくるし、そのままで良いよね。

 念のため、布を被せとこう。

 

 渡り廊下を歩いていると、廊下で筋トレをしてる運動部の声が聞こえてきた。

 梅雨の時期は、コンディションが悪くて校庭が使えないから。

 

 

 

 

 

 

 あ、降ってきちゃった…!

 

 美術室にはめずらしく美術部顧問の先生がいた。絵の具を借りてすぐ中庭に戻るつもりだったのに、世間話を始めちゃって…気がついたらもう外は暗い。

 

 ポツポツと降り出した雨は、あっという間に土砂降りになった。

急いで階段を駆け降り、中庭を見渡すと、

 

うそ…キャンバスが……ない…!?

 

つい15分くらい前に絵を描いていた場所、そこには芝生の緑が広がるばかり。

 

 

私は慌てて雨の中に飛び出した。

 

 

 

 

 

 

「椎名さん、こっち!」

 

 え…?今、呼ばれた?

 先ほどのベンチのすぐ後ろの、大きな窓。そこに見知った姿があった。駆け寄って、人の出入りができるその窓から部屋に入る。

保健室だった。

 

「本降りになる前にここに非難させたから、大丈夫だと思うよ」

 ジャージの桐谷くんは、壁にもたれて立ってる。

 

 保健の先生のものらしき事務机の上には、布を被ったキャンバスと、イーゼル、画材類があった。少し湿ってるけど、長い間雨に打たれた形跡はない。はー…って、安堵の息を吐く。

 

「ありがとう…。もう、濡れちゃったかと思ってた」

 安心したら腰が抜けた。へなへなって、その場に座り込んでしまう。

 自分の作品をダメにしてしまうのって、つらい。桐谷くんには本当に感謝だ。

 

 

ふと、低くなった視界に彼の足首が映った。

 

「桐谷くん…!足…」

 

 捲り上げられたジャージから覗く、ゴツゴツした足首。その一部が赤くなって、ひどく…腫れてる。

 そっか……だから保健室に…。

 

「すぐ冷やさないとっ…!」

「待って、その前に、着替えて」

 

 低い声で制止されて、やっと気がついた。

 慌てて、床に置いてたカバンを胸元に引き寄せる。

 

 やだ……。恥ずかしい。

桐谷くんが私の方、一度も見なかった理由。

 

 髪や、着ていた制服からは水滴が滴ってた。絵のことに夢中で気がつかなかったけど、シャツが肌に張り付いて気持ち悪い。

 きっと、下着…透けてる…。

 

 

「…着替え、持ってる?」

 

「……うん……今日体育あったから、ジャージがある」

 

 顔が上げられない。たぶん今、真っ赤。身体中の熱が顔に集まったみたい。

心臓も、壊れそうなくらいバクバク鳴ってる。

 

「じゃ、外出てるわ」

「動いちゃだめ…!……怪我してるのに…。そこのベッドにカーテンついてるから…ヘーキ…」

 声が震える。ぎゅ…ってカバンを抱える手に力が入った。

 桐谷くんはこっちを見ないまま、片足跳びで移動し、患者用の丸椅子に座った。クルってそれを回転させ、ベッドと反対方向を向く。

 

「俺、終わるまでこっち向いてるから」

 

 低く、掠れた声。

 

ドンクサイ女…って、呆れられてる…?

後ろ向きの広い背中からは、何の感情も読み取れない。

 

私の鼓動、速いのは、恥ずかしいからだけじゃ…ない。

 

 ごめんねって小さく呟いて、急いでベッドに向かった。カーテンを閉め、シャツのボタンを外す。二人きりの保健室は静まり返ってて、どうしても衣擦れの音が誇張されてしまう。

 

 暴れる心臓をなんとか沈めるために、そっと深呼吸をした。

 

 

 

 

 

 

「痛いと思うけど…少しだけ我慢してね」

 

 鍛えられ、無駄な脂肪が全く付いてない引き締まった足。痛々しく腫れた足首にそっと触れ、シップをのせた。

 

 

 

 

「さっきそこで話してたヤツ、誰?」

「……え?」

 テーピングを終えた手を、止めた。

「室内練の休憩のとき、向こうの廊下の窓から見えた。一緒にベンチに座ってた男」

 先輩のこと…?

 

「…同じ部の、2年生だよ。噂で聞いたことないかなぁ…女の子から王子って呼ばれてて、この高校じゃ有名人なの」

「へぇ……」

「美術のセンスも抜群でね、2年生のこの時期に、もう有名な美大からスカウト受けてるくらい」

「ふーん」

「この間のコンクールでも最優秀作品に――」

 

 

って、いけない…私、喋りすぎ…。

先輩のこととなると、つい饒舌になっちゃう。

 

 

 

「好きなの?」

「え…」

「その“先輩”のこと」

 

 

 ザァーって。窓の外は、バケツをひっくり返したみたいな、雨。

 桐谷くんの、骨ばってて、でも綺麗な形の手が、私の腕をつかんだ。

 

 

「な…に、ど…したの?」

「…」

 

 やっぱり。桐谷くんの考えてること、全然分からない…。

 どうしてこんな質問をするのか。

どうして怪我をしてる足を引きずってまで、絵を助けてくれたのか。

 

 

 どうしてあのとき、“温かい絵”って、言ったのか――

 

 

 

 

 キレイな顔がゆっくりと近づいてくる。意志の強そうな瞳は、髪と同じ漆黒。

まつげ、長い…。

 

 薄く、形の良い唇が開いた。

 

 

「椎名さん…って、もしかして――」

 

 

 

「誰かいるの!?」

 ガラって、背後で扉が開く音。続けて、保健の先生の少し高めのアルトが部屋に響いた。

 先生は、こんな時間に何してるの?って不審そうな顔。

「部活で足を捻ってしまって、偶然居合わせたクラスメイトの彼女に、テーピングをしてもらってたんです」

 桐谷くんの口から、スラスラと言葉が紡がれる。

「そうだったの、保健医がいなくてごめんね」

 にこやかに微笑む先生は、桐谷くんの足に仕上げのサポーターを付けた。

「もう遅いから、あなたたち早く帰りなさい」

 って、笑顔の先生に、私たちはさっさと保健室を追い出された。

 

 

 

 

 結局、桐谷くんの言わんとしていたことは、聞けないまま――。





 面白かったらぽちっと
↓とても励みになります
web拍手 by FC2

inserted by FC2 system