どんよりと雲に覆われた空。朝からずっと。
コレじゃ、いつ降り出してもおかしくない。
「あ、咲ちゃん、ここにいたんだ」
「先輩…」
学校の中庭。芝生が生えてて、ベンチと、水は止まってるけれど大きな噴水がある。晴れた日のお昼は、生徒たちの絶好のランチスポット。
私はベンチの1つに座り、キャンバスにスケッチをしてた。
放課後の今は、私と先輩以外に人影はない。
「紫陽花?」
「はい」
「綺麗だね…。そっか、もう梅雨の時期か」
キャンバスには、寄り添うように鮮やかに咲いた紫陽花。この間、杏奈とここでお弁当を食べてるときに、見つけた。
「この時期ならではのものが、描きたくて」
「咲ちゃんらしいね。でもここは屋外だし、暗くなる前に美術室に戻ってきたほうがいいよ」
色々と物騒だから…って、お父さんみたいなことを言う先輩に、笑ってしまった。
こういうやり取り、すごくほっとする。
私のこと、先回りして包み込んでくれる言葉、行動。
私がどんなにバカで、失敗ばかりで、どうしようもない女の子でも、先輩はきっと、優しく微笑んでくれる。
「あ、絵の具…足りない」
買い足すのが面倒で、騙し騙し使ってたのが、とうとう底を尽きてしまった。
「黒…?確か美術室に新しいのがあったよ。俺、もう行くから一緒に取りに来る?」
「はい」
先輩の後について、ベンチを立った。
キャンバスは…すぐ戻ってくるし、そのままで良いよね。
念のため、布を被せとこう。
渡り廊下を歩いていると、廊下で筋トレをしてる運動部の声が聞こえてきた。
梅雨の時期は、コンディションが悪くて校庭が使えないから。
*
あ、降ってきちゃった…!
美術室にはめずらしく美術部顧問の先生がいた。絵の具を借りてすぐ中庭に戻るつもりだったのに、世間話を始めちゃって…気がついたらもう外は暗い。
ポツポツと降り出した雨は、あっという間に土砂降りになった。
急いで階段を駆け降り、中庭を見渡すと、
うそ…キャンバスが……ない…!?
つい15分くらい前に絵を描いていた場所、そこには芝生の緑が広がるばかり。
私は慌てて雨の中に飛び出した。
*
「椎名さん、こっち!」
え…?今、呼ばれた?
先ほどのベンチのすぐ後ろの、大きな窓。そこに見知った姿があった。駆け寄って、人の出入りができるその窓から部屋に入る。
保健室だった。
「本降りになる前にここに非難させたから、大丈夫だと思うよ」
ジャージの桐谷くんは、壁にもたれて立ってる。
保健の先生のものらしき事務机の上には、布を被ったキャンバスと、イーゼル、画材類があった。少し湿ってるけど、長い間雨に打たれた形跡はない。はー…って、安堵の息を吐く。
「ありがとう…。もう、濡れちゃったかと思ってた」
安心したら腰が抜けた。へなへなって、その場に座り込んでしまう。
自分の作品をダメにしてしまうのって、つらい。桐谷くんには本当に感謝だ。
ふと、低くなった視界に彼の足首が映った。
「桐谷くん…!足…」
捲り上げられたジャージから覗く、ゴツゴツした足首。その一部が赤くなって、ひどく…腫れてる。
そっか……だから保健室に…。
「すぐ冷やさないとっ…!」
「待って、その前に、着替えて」
低い声で制止されて、やっと気がついた。
慌てて、床に置いてたカバンを胸元に引き寄せる。
やだ……。恥ずかしい。
桐谷くんが私の方、一度も見なかった理由。
髪や、着ていた制服からは水滴が滴ってた。絵のことに夢中で気がつかなかったけど、シャツが肌に張り付いて気持ち悪い。
きっと、下着…透けてる…。
「…着替え、持ってる?」
「……うん……今日体育あったから、ジャージがある」
顔が上げられない。たぶん今、真っ赤。身体中の熱が顔に集まったみたい。
心臓も、壊れそうなくらいバクバク鳴ってる。
「じゃ、外出てるわ」
「動いちゃだめ…!……怪我してるのに…。そこのベッドにカーテンついてるから…ヘーキ…」
声が震える。ぎゅ…ってカバンを抱える手に力が入った。
桐谷くんはこっちを見ないまま、片足跳びで移動し、患者用の丸椅子に座った。クルってそれを回転させ、ベッドと反対方向を向く。
「俺、終わるまでこっち向いてるから」
低く、掠れた声。
ドンクサイ女…って、呆れられてる…?
後ろ向きの広い背中からは、何の感情も読み取れない。
私の鼓動、速いのは、恥ずかしいからだけじゃ…ない。
ごめんねって小さく呟いて、急いでベッドに向かった。カーテンを閉め、シャツのボタンを外す。二人きりの保健室は静まり返ってて、どうしても衣擦れの音が誇張されてしまう。
暴れる心臓をなんとか沈めるために、そっと深呼吸をした。
*
「痛いと思うけど…少しだけ我慢してね」
鍛えられ、無駄な脂肪が全く付いてない引き締まった足。痛々しく腫れた足首にそっと触れ、シップをのせた。
「さっきそこで話してたヤツ、誰?」
「……え?」
テーピングを終えた手を、止めた。
「室内練の休憩のとき、向こうの廊下の窓から見えた。一緒にベンチに座ってた男」
先輩のこと…?
「…同じ部の、2年生だよ。噂で聞いたことないかなぁ…女の子から王子って呼ばれてて、この高校じゃ有名人なの」
「へぇ……」
「美術のセンスも抜群でね、2年生のこの時期に、もう有名な美大からスカウト受けてるくらい」
「ふーん」
「この間のコンクールでも最優秀作品に――」
って、いけない…私、喋りすぎ…。
先輩のこととなると、つい饒舌になっちゃう。
「好きなの?」
「え…」
「その“先輩”のこと」
ザァーって。窓の外は、バケツをひっくり返したみたいな、雨。
桐谷くんの、骨ばってて、でも綺麗な形の手が、私の腕をつかんだ。
「な…に、ど…したの?」
「…」
やっぱり。桐谷くんの考えてること、全然分からない…。
どうしてこんな質問をするのか。
どうして怪我をしてる足を引きずってまで、絵を助けてくれたのか。
どうしてあのとき、“温かい絵”って、言ったのか――
キレイな顔がゆっくりと近づいてくる。意志の強そうな瞳は、髪と同じ漆黒。
まつげ、長い…。
薄く、形の良い唇が開いた。
「椎名さん…って、もしかして――」
「誰かいるの!?」
ガラって、背後で扉が開く音。続けて、保健の先生の少し高めのアルトが部屋に響いた。
先生は、こんな時間に何してるの?って不審そうな顔。
「部活で足を捻ってしまって、偶然居合わせたクラスメイトの彼女に、テーピングをしてもらってたんです」
桐谷くんの口から、スラスラと言葉が紡がれる。
「そうだったの、保健医がいなくてごめんね」
にこやかに微笑む先生は、桐谷くんの足に仕上げのサポーターを付けた。
「もう遅いから、あなたたち早く帰りなさい」
って、笑顔の先生に、私たちはさっさと保健室を追い出された。
結局、桐谷くんの言わんとしていたことは、聞けないまま――。