「じゃね、また夜に会いましょ」
先生にウインクして、響子さんは部屋を出て行った。
すごく、喉が渇いてた。身体中に汗をかいてる。でも不快ではなくて、むしろ青空の下で適度な運動をした後みたいな、爽快感。
「石原、おめでとう。プロの画家の個展に出させてもらえることなど、そうそうないぞ」先生は静かに言った「名誉なことだ。将来この世界でやっていきたいと思うのであれば、相当な強みになる」
「…先生…どうしよう……まだ、信じられない……」
ごくって、唾を飲み込んだ。力いっぱい、ほっぺをつねってみる。痛い。夢じゃ…ない!
大翔くんに、報告したい……!
何度も何度も頭を下げ、お礼を言った。
「わしは何もしとらん。如月にお前の絵を推したわけでもない。お前が精魂込めて描いた絵が、みる者の心を動かした。それだけのことだ」
先生の、しわしわの口元に微笑みが浮かんでる。
失礼しました!って、今にも飛び上がらんばかりの勢いで出て行こうとする私に、先生は言った。
「石原……気をつけてな」
*
「大翔くんッッ!!!」
「うわっ!香奈ちゃん!どーだった?じーさんに褒められた?」
血相変えて駆け寄る私に、大翔くん、ビックリ顔。
素振りをしてたバットを置いて、Tシャツの袖で汗を拭ってる。
「あのね!…あのねっ…如月響子が!トモダチで!それで、世界中からっ…絵が個展に」
「待って、ちょっと落ち着いて。ハイお茶」
もー!はやく伝えたいのに、焦ってコトバが出てこないよ!
大翔くんは、必死の形相の私に吹き出して。
水筒のお茶をコップに注いで手渡してくれた。
「あのね、如月響子、知ってるでしょ?たまにテレビに出てる」
「うん、あの、絵が上手くてキレ−な人だろ?……もしかして会ったのか!?」
「そうなの!先生が…友達だったみたいで」
「すげー!サインとかもらった?」
「あっ!」
忘れてたぁ!会えたら絶対に…ってずっと思ってたのに!
「ち…違う、そうじゃなくて。えっと…私の絵、個展に出させてもらえることになったの!」
「個展?」
「すごい画家さんが、自分の絵を飾るんだよ、美術館みたいに。ろーまっていう国で、来月開かれるんだって!そこにね…私の絵も…飾ってもらえるの!」
「ろーま?……ローマって…イタリア!?」
地理にウトい私は、“ローマ”がどこにあるのか全く分からなかった。反対に、大翔くんはそういうの、詳しかったから、そこは国じゃなくて、国の中にある地域の名前だって教えてくれた。すごく遠いところだということも。
「やったなー!有名な人だから、個展もテレビに出るかも!」
「うん…!それにね、個展には有名な画家さんたちが来るんだって!私もチケット、もらえたから…行ったら会えるかもしれない…。きっと…響子さんのすごい絵も、たくさん見られる!」
舞い上がる私と一緒に、大翔くんは、スゲー!って、やったな!って、自分のことみたいに喜んでくれた。
だから、このときは想像もしてなかった。
まさか…あんなことになるなんて。
*
全校集会で表彰された私は、たちまち学校の英雄になった。
みんなが知っている有名人“如月響子”に、絵が選ばれた。その事実だけで、両親、クラスのみんなはおろか、他学年の子たちや、近所のおばさんまで、すごいすごいのオンパレード。
素直に嬉しかった。
クラスの中でも地味で、目立たない私。
発言も、行動も、いつもみんなに合わせてて。
でも一つだけ、プロの画家になるってことだけは、1年生の頃からハッキリ主張してた。
絵が得意なことが、私の唯一の自信。
自分の作品が評価されて、人気者になって、嬉しくないわけがない。
それに……
「香奈ちゃん、如月響子の個展に絵を出すって、すごいな」
「直くん…!…や、ホント、運が良かったって言うか…」
「それでも、実力がなきゃ選ばれないよ。俺、香奈ちゃんのコト、見直した」
「……!……ありがと…」
江波直(えなみなお)くんは、美術クラブで、1つ上の6年生。
私が絵を描くきっかけになった人。
1年生のとき図工室で、当時2年生だった彼の描いた絵をみて、感動して。
私もこんなのが描きたいって、美術クラブに入った。
「ナオくんの絵、すごいじょうずだね!」
って、興奮気味に言ったら、
「…ホント!?……ありがとう…」
少し恥ずかしそうに、でも嬉しそうに。
はにかんで笑った、彼。
その笑顔に、やられた。
けれど、学年が上がるにつれて、大好きな直くんに、どう接していいのか分からなくなった。
なんとなく、恥ずかしくて。いつも遠くから見つめるだけ。
昔は仲良くできたのに。
初恋は実らないってホントなんだなって、悲しかった。
その彼が、話しかけてくれた。
しかも、私のこと、見直した…って。
緊張で大した会話はできなかったし、話しかけられたのもそれ1回きりだったけど…
そのコトバだけで十分だった。
だけど、現実ってそううまいことばかりじゃない。
絶好調の私にも、1つだけ気がかりがあった。
大翔くんが…おかしい。
初めて会った日から今まで、少なくとも週に1回は、私が絵を描いてるところに遊びに来てたのに。
それがパッタリなくなったんだ。
「最近来ないね、どうしたの?」
って尋ねても、
「別に何も」
って、はぐらかされるだけ。
私が何か気に障ることをしたから、避けられてる?
でも、心当たりがない。
「私、大翔くんに何かした?だったら言って」
「全然、何も。気にすんな」
眉間にシワを寄せて、明らかに迷惑そう…。やっぱり怒ってるんじゃないの?
教室でも目を合わせてくれないし、問いただせば「なんでもない」の一点張りで、すぐにフイって背を向けてどこかに行ってしまう。
これじゃラチが明かない。
一番に気を許せる、友達だったのに。
このまま、お互い関わらなくなって、終わっちゃうのかな…。ううん、そんなのイヤだ。
大翔くんのことだから、無意味に私を避けたりはしない。絶対に理由があるはず。
それをつきとめないと。
そう思ってた矢先のことだった。
『じゃあ、大翔は美由なんだ?』
聞いてしまったのは、偶然だった。