ジャーって、水道の水の流れる音がする。
それに混じって切れ切れに聞こえる、話し声。
「…ん…り…無茶しないで…」
先輩の声だ。
「咲ちゃんも、心配してたよ?」
「…つい、調子に乗ってしまって…。気をつけます」
個室はもちろん仕切られてるけど、曲がり角の奥にある手洗い場に続く道には扉がなくて。
杏奈と先輩の声は筒抜けだった。
よかった…杏奈、気分良くなったんだ。
だけど、そのまま踏み出すつもりだった足が、
次の先輩の一言で、固まる。
「どうして…好きでもない人と付き合ってるの?」
え……?
「…あなたに関係ないでしょ」
「あるよ」
搾り出された低い声は、私が知ってる先輩のものじゃない。
いつもの柔らかくて包みこむような声とは違う、余裕のない…掠れた声。
知らない男の人、みたいな…。
「ずっと…好きだった」
ぐら…って、足元が歪んだような気がした。
思わず、壁に手をつく。
「嘘…でしょ…」
「…本気だよ」
「やめて…っ……聞きたくない!」
今にも泣き出しそうな杏奈の声に、ビクリと身が竦んで。
気がついたら、自分のカバンを持って、外にいた。
ネオンの眩しい駅前の繁華街を足早に歩く。
頭の中がぐちゃぐちゃで、何も考えられなかった。
自分が今、どんな気持ちでいるのか、それすらも判然としない。
ただ一つ、はっきりしているのは、先輩が…杏奈のことを好きだということだけ。
*
結局一睡もできないまま、気がつけば外は明るくなってた。
夏休みだからって、いつまで寝てるのー?って階下から呼ぶお母さんにテキトーに返事をする。
ケータイには、杏奈からの着信と、メールが届いていた。
昨夜、11時頃だ。
【今日はメーワクかけてごめんね。
麻生くんから先に帰ったって聞いたけど、大丈夫??
気をつけて帰ってよ!
夏休み、いっぱいあそぼーね。 オヤスミ〜】
いつも通りの文面に拍子抜けする。
生まれて初めて失恋したというのに、不思議と涙は出なかった。
何だか悲しいって感じじゃない。
それよりも、先輩が杏奈に言った言葉の方が…気にかかる。
ベッドに転がっていたクッションをだきこみ、膝を抱えて座った。
―――どうして…好きでもない人と付き合ってるの?
アレは本当なの?
仮に…本当だとしたら、杏奈は遊びで男の人と交際してるってことになる。
…って……そんなわけ、ないか。
杏奈はそんな子じゃない。
人の気持ちを、もてあそぶような子じゃない。
ずっと彼女の近くにいた私が、誰よりもよく分かってる。
分かってる…はずなのに……。
杏奈は、否定しなかった。
“関係ない”とは言った…けど。
普通は……違うって…何言ってるのってハッキリ否定するものじゃない…?
言いようのない胸騒ぎがした。
いても立ってもいられなくて、震える指でケータイを操作し、昨夜の履歴から杏奈の番号を呼び出す。
3回のコールの後、すぐに電話は繋がった。
『ハイ』
「杏奈?突然だけど、今日…会えないかな?」
ケータイを持つ手に、じっとりと汗が滲んだ。
『今日は特に予定ないけど…どーしたの?咲から急な誘いってメズラシーじゃん』
「ちょっと…ね。ほらせっかく夏休みだし…」
動揺からか、よく分からない理由が口をついて出た。
顔が見えているわけでもないのに、変に愛想笑いを浮かべてしまう。
『ホントだ。今日から夏休みじゃん!早速買い物行こうよっ!新しい水着買わなきゃ〜』
いつもとなんら変わらないノリと口調。
でも、絶対に…ヘン。
今はまだ、朝の7時。
休日は例外なく昼前まで寝てる杏奈が、こんな時間に、すぐ電話に出るはずない…。
昼前に駅で待ち合わせることにして、通話を終えた。
*
「お、コレいいなー。ちょっと試着してくるね」
最近新しくオープンした若者に人気のショップ。
杏奈は早速気に入った水着を手に取った。
私も店員さんの手前、適当に物色するフリをする。
ランチに立ち寄ったフレンチレストランでも、電車の中でも、今いるショッピングモール内でも、杏奈の様子はいつもと変わらない。
昨日の告白のこと、いつ打ち明けられても良いように、心の準備をしてきたのに。
杏奈から話してくれると思い込んでた私は、少なからず動揺していた。
「咲は買わないのー?水着」
「私はいい…」
「えー!夏といえば海じゃん!もしかしてアンタ、今年も行かないつもり?」
キレイな顔が、盛大に眉をしかめてる。
「だって…」
「もー去年も一昨年も、その前もその前の前も!出会った年からずーっと誘ってるのに、いい加減折れなさいよ〜」
杏奈は異常に海が好き。
夏休みに入ると、そのとき付き合ってる彼氏、家族、友達、いろんな人と行ってるみたい。
例年同様、今年もやっぱり誘われたかぁ…。
でも、一緒に行きたいって言われて悪い気はしないんだ。
「そろそろ諦めてよー」
わざと唇を尖らせてみるけど、杏奈には効果がない。
「いーえ諦めません!何回でも誘うからっ」
いつ気が変わってもいいように、水着買っといてねって。
完全にペースを持ってかれてる。
このやり取りも、もう何度目か分からないくらい…いつも通りだ。
もしかして…昨日のこと、このまま言わないでおくつもりなのかな…。
杏奈は、私が先輩の告白を聞いていたこと…多分知らない。
楽しそうに水着を手にとって、ミラーの前で合わせてる彼女を、チラリと見やる。
私が先輩のこと好きだから…?
事実を話したら、私との仲が壊れるとでも思ってる?
そう考えたら、晴れた空に暗雲が立ち込めるように、怒りとも悲しさともつかない感情が胸中に渦巻いた。
杏奈に対してこんな気持ちになったの…初めて。
結局その日は、私からも、もちろん杏奈からも何も切り出さないまま、別れてしまった。