第3章7





 ジャーって、水道の水の流れる音がする。

 それに混じって切れ切れに聞こえる、話し声。

 

 

「…ん…り…無茶しないで…」

 

先輩の声だ。

 

「咲ちゃんも、心配してたよ?」

「…つい、調子に乗ってしまって…。気をつけます」

 

 個室はもちろん仕切られてるけど、曲がり角の奥にある手洗い場に続く道には扉がなくて。

 杏奈と先輩の声は筒抜けだった。

 

 よかった…杏奈、気分良くなったんだ。

 

 だけど、そのまま踏み出すつもりだった足が、

次の先輩の一言で、固まる。

 

「どうして…好きでもない人と付き合ってるの?」

 

 え……?

 

「…あなたに関係ないでしょ」

「あるよ」

 

 搾り出された低い声は、私が知ってる先輩のものじゃない。

 いつもの柔らかくて包みこむような声とは違う、余裕のない…掠れた声。

知らない男の人、みたいな…。

 

 

「ずっと…好きだった」

 

 

ぐら…って、足元が歪んだような気がした。

 思わず、壁に手をつく。

 

「嘘…でしょ…」

「…本気だよ」

「やめて…っ……聞きたくない!」

 

 今にも泣き出しそうな杏奈の声に、ビクリと身が竦んで。

 

 気がついたら、自分のカバンを持って、外にいた。

 ネオンの眩しい駅前の繁華街を足早に歩く。

 

 頭の中がぐちゃぐちゃで、何も考えられなかった。

 自分が今、どんな気持ちでいるのか、それすらも判然としない。

 

 ただ一つ、はっきりしているのは、先輩が…杏奈のことを好きだということだけ。

 

 

 

 

 結局一睡もできないまま、気がつけば外は明るくなってた。

 

 夏休みだからって、いつまで寝てるのー?って階下から呼ぶお母さんにテキトーに返事をする。

 ケータイには、杏奈からの着信と、メールが届いていた。

 昨夜、11時頃だ。

 

【今日はメーワクかけてごめんね。

 麻生くんから先に帰ったって聞いたけど、大丈夫??

 気をつけて帰ってよ!

 夏休み、いっぱいあそぼーね。 オヤスミ〜】

 

 いつも通りの文面に拍子抜けする。

 

 生まれて初めて失恋したというのに、不思議と涙は出なかった。

 何だか悲しいって感じじゃない。

それよりも、先輩が杏奈に言った言葉の方が…気にかかる。

 ベッドに転がっていたクッションをだきこみ、膝を抱えて座った。

 

―――どうして…好きでもない人と付き合ってるの?

 

 アレは本当なの?

 仮に…本当だとしたら、杏奈は遊びで男の人と交際してるってことになる。

 

…って……そんなわけ、ないか。

 杏奈はそんな子じゃない。

人の気持ちを、もてあそぶような子じゃない。

 ずっと彼女の近くにいた私が、誰よりもよく分かってる。

 分かってる…はずなのに……。

 

 杏奈は、否定しなかった。

 “関係ない”とは言った…けど。

普通は……違うって…何言ってるのってハッキリ否定するものじゃない…?

 

言いようのない胸騒ぎがした。

 いても立ってもいられなくて、震える指でケータイを操作し、昨夜の履歴から杏奈の番号を呼び出す。

 3回のコールの後、すぐに電話は繋がった。

 

『ハイ』

「杏奈?突然だけど、今日…会えないかな?」

 ケータイを持つ手に、じっとりと汗が滲んだ。

『今日は特に予定ないけど…どーしたの?咲から急な誘いってメズラシーじゃん』

「ちょっと…ね。ほらせっかく夏休みだし…」

 動揺からか、よく分からない理由が口をついて出た。

 顔が見えているわけでもないのに、変に愛想笑いを浮かべてしまう。

『ホントだ。今日から夏休みじゃん!早速買い物行こうよっ!新しい水着買わなきゃ〜』

 

 いつもとなんら変わらないノリと口調。

 でも、絶対に…ヘン。

 今はまだ、朝の7時。

 休日は例外なく昼前まで寝てる杏奈が、こんな時間に、すぐ電話に出るはずない…。 

 

 昼前に駅で待ち合わせることにして、通話を終えた。

 

 

 

 

「お、コレいいなー。ちょっと試着してくるね」

 

 最近新しくオープンした若者に人気のショップ。

 杏奈は早速気に入った水着を手に取った。

 私も店員さんの手前、適当に物色するフリをする。

 

 ランチに立ち寄ったフレンチレストランでも、電車の中でも、今いるショッピングモール内でも、杏奈の様子はいつもと変わらない。

 昨日の告白のこと、いつ打ち明けられても良いように、心の準備をしてきたのに。

 

 杏奈から話してくれると思い込んでた私は、少なからず動揺していた。

 

 

「咲は買わないのー?水着」

「私はいい…」

「えー!夏といえば海じゃん!もしかしてアンタ、今年も行かないつもり?」

 キレイな顔が、盛大に眉をしかめてる。

「だって…」

「もー去年も一昨年も、その前もその前の前も!出会った年からずーっと誘ってるのに、いい加減折れなさいよ〜」

 

 杏奈は異常に海が好き。

夏休みに入ると、そのとき付き合ってる彼氏、家族、友達、いろんな人と行ってるみたい。

 例年同様、今年もやっぱり誘われたかぁ…。

 でも、一緒に行きたいって言われて悪い気はしないんだ。

 

「そろそろ諦めてよー」

 わざと唇を尖らせてみるけど、杏奈には効果がない。

「いーえ諦めません!何回でも誘うからっ」

 いつ気が変わってもいいように、水着買っといてねって。

 完全にペースを持ってかれてる。

 

 このやり取りも、もう何度目か分からないくらい…いつも通りだ。

 

 もしかして…昨日のこと、このまま言わないでおくつもりなのかな…。

 杏奈は、私が先輩の告白を聞いていたこと…多分知らない。

 

 楽しそうに水着を手にとって、ミラーの前で合わせてる彼女を、チラリと見やる。

 

私が先輩のこと好きだから…?

 事実を話したら、私との仲が壊れるとでも思ってる?

 

 そう考えたら、晴れた空に暗雲が立ち込めるように、怒りとも悲しさともつかない感情が胸中に渦巻いた。

 杏奈に対してこんな気持ちになったの…初めて。

 

 

 結局その日は、私からも、もちろん杏奈からも何も切り出さないまま、別れてしまった。





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