第5章5





 ミラーの前で、制服のリボンを整える。

 まだ新品に近いからか、少しの間着ていなかっただけでなんとなく違和感を覚えた。

 

「いってきます」

「いってらっしゃい!晩ごはん、いらないんだっけ?」

「……うん」

 

 落ち着かないながらも無理やり机に向かい、宿題の続きをした午前中。

 お昼ごはんは大好きなオムライスだったのに、全然味わえなかった。

 午後は学校で絵を描いて…夕方、桐谷くんと…会うことになってる。

 

「咲」

「ん?」

「何かあったの?」

 玄関でローファーを履いていると、お母さんが見送りに出て来てくれた。

「大丈夫だよ。なんにも、ない」

 いつになく真剣な顔で見つめられる。

なんにもない…わけじゃないから、ちょっとだけ罪悪感。

 それを誤魔化したくて、足早に家を出た。

 

 

 

 

 美術室の窓を全開にして、こもった空気を入れ替える。

 冷房を入れるよりも、外からの空気を感じながら描くのが好き。

 相変わらず日差しは強いけど、今日は風があるからそれほど暑くない。

 

『話したいことがあるの。できるだけ近いうちに…会えないかな?』

 

 昨日、初めて桐谷くんに送ったメール。

 電話だと、声が震えてしまいそうだったから。

 

『昼間は部活で無理。夕方からならいつでも空けられる』

 

 返信はシンプルだった。

 彼らしさに思わず笑えてしまう。

私からの文面をどう受け取ったのかは分からないけど、メールや電話で済ませられる内容じゃないってことは、伝わったみたい。

 

 開け放した窓から、近ごろますます激しくなった蝉の声と、運動部の声が入ってくる。

 夏の空気を胸いっぱい吸い込んで、筆を動かした。

 

 

 

 

桐谷くんから部活終了の連絡がきた頃には、もう外は薄暗くなっていた。

 校門で待っていてくれた彼に手を振る。

 

「やっぱ熱心なんだね、野球部って」

「甲子園が近いから。3年の先輩の気合がすげーんだ」

「応援、行こうかな」

 夏休み前にクラスの女の子たちが、行こうかどうしようかって相談してた。

「来ても暑いだけだと思うけどな」

 そう言った桐谷くんは軽い口調だったけど、

私の気持ちは落ちてしまった。

 なんとなく、“来なくていい”って言われてるみたいで…。

 

 

 

 友達と食事するときはいつもファミレスに入る。

 だけど今日は、桐谷くんの提案で駅の中にあるフレンチのお店を選んだ。

 聞かれたくない話なんだろ?って、察して気を利かせてくれるあたり…抜け目がない。

 確かに、値段が少し高めのこのお店なら、クラスメイトに遭遇することはないだろう。

 

 気になる人と二人きりでディナー。

 しかも、ちょっと背伸びしていつもは行かないオシャレなところで。

状況だけならすっごくドキドキして、楽しい場面のはずなのに…。

 

私の心臓は、違う意味で早鐘を打ってる。

 これから私が言うことに対して、どんな反応をされるのか。

 また、あの日のように冷たい目で見下ろされるかもしれない……。

 

 そう考えると、怖くてたまらなかった。

 でも…言わなければならない。

 

 

 せっかくの美味しい料理を味わうことなく流し込んで。

 震える身体を叱咤して切り出した。

 

 

「この間…ね、久しぶりに…直くんに会ったの」

 アイスコーヒーを飲んでいた桐谷くんの動きが、一瞬…止まった気がした。

 

「大事な話があるからって、言われて…」

 

 今度こそ、彼は完全に動きを止めた。

 思いつめたような表情をして、無言で先を促す。

 

 嫌だ…怖い……。言いたくない。

 でも、言わなきゃ……!

 

 

 

「あの時…わたしの絵にイタズラしたの、桐谷くんじゃ…なかったんだね」

 

 

 カシャンッ!

 桐谷くんのフォークが固い床にぶつかり、金属音が響いた。

 話し声が一瞬止んだ、店内。

シックな音楽だけが空間を占める中、何組かのお客さんがこっちを見てるのが分かる。

 

「あ…悪い…」

 だけど興味本位の視線たちはすぐに散って、

彼がフォークを拾い上げる頃には、もとのざわめきが戻っていた。

 

 桐谷くん…いつものポーカーフェイスじゃない。

 冷静でもなくなってる。

 

やっぱり本当なんだ……。





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