ミラーの前で、制服のリボンを整える。
まだ新品に近いからか、少しの間着ていなかっただけでなんとなく違和感を覚えた。
「いってきます」
「いってらっしゃい!晩ごはん、いらないんだっけ?」
「……うん」
落ち着かないながらも無理やり机に向かい、宿題の続きをした午前中。
お昼ごはんは大好きなオムライスだったのに、全然味わえなかった。
午後は学校で絵を描いて…夕方、桐谷くんと…会うことになってる。
「咲」
「ん?」
「何かあったの?」
玄関でローファーを履いていると、お母さんが見送りに出て来てくれた。
「大丈夫だよ。なんにも、ない」
いつになく真剣な顔で見つめられる。
なんにもない…わけじゃないから、ちょっとだけ罪悪感。
それを誤魔化したくて、足早に家を出た。
*
美術室の窓を全開にして、こもった空気を入れ替える。
冷房を入れるよりも、外からの空気を感じながら描くのが好き。
相変わらず日差しは強いけど、今日は風があるからそれほど暑くない。
『話したいことがあるの。できるだけ近いうちに…会えないかな?』
昨日、初めて桐谷くんに送ったメール。
電話だと、声が震えてしまいそうだったから。
『昼間は部活で無理。夕方からならいつでも空けられる』
返信はシンプルだった。
彼らしさに思わず笑えてしまう。
私からの文面をどう受け取ったのかは分からないけど、メールや電話で済ませられる内容じゃないってことは、伝わったみたい。
開け放した窓から、近ごろますます激しくなった蝉の声と、運動部の声が入ってくる。
夏の空気を胸いっぱい吸い込んで、筆を動かした。
*
桐谷くんから部活終了の連絡がきた頃には、もう外は薄暗くなっていた。
校門で待っていてくれた彼に手を振る。
「やっぱ熱心なんだね、野球部って」
「甲子園が近いから。3年の先輩の気合がすげーんだ」
「応援、行こうかな」
夏休み前にクラスの女の子たちが、行こうかどうしようかって相談してた。
「来ても暑いだけだと思うけどな」
そう言った桐谷くんは軽い口調だったけど、
私の気持ちは落ちてしまった。
なんとなく、“来なくていい”って言われてるみたいで…。
友達と食事するときはいつもファミレスに入る。
だけど今日は、桐谷くんの提案で駅の中にあるフレンチのお店を選んだ。
聞かれたくない話なんだろ?って、察して気を利かせてくれるあたり…抜け目がない。
確かに、値段が少し高めのこのお店なら、クラスメイトに遭遇することはないだろう。
気になる人と二人きりでディナー。
しかも、ちょっと背伸びしていつもは行かないオシャレなところで。
状況だけならすっごくドキドキして、楽しい場面のはずなのに…。
私の心臓は、違う意味で早鐘を打ってる。
これから私が言うことに対して、どんな反応をされるのか。
また、あの日のように冷たい目で見下ろされるかもしれない……。
そう考えると、怖くてたまらなかった。
でも…言わなければならない。
せっかくの美味しい料理を味わうことなく流し込んで。
震える身体を叱咤して切り出した。
「この間…ね、久しぶりに…直くんに会ったの」
アイスコーヒーを飲んでいた桐谷くんの動きが、一瞬…止まった気がした。
「大事な話があるからって、言われて…」
今度こそ、彼は完全に動きを止めた。
思いつめたような表情をして、無言で先を促す。
嫌だ…怖い……。言いたくない。
でも、言わなきゃ……!
「あの時…わたしの絵にイタズラしたの、桐谷くんじゃ…なかったんだね」
カシャンッ!
桐谷くんのフォークが固い床にぶつかり、金属音が響いた。
話し声が一瞬止んだ、店内。
シックな音楽だけが空間を占める中、何組かのお客さんがこっちを見てるのが分かる。
「あ…悪い…」
だけど興味本位の視線たちはすぐに散って、
彼がフォークを拾い上げる頃には、もとのざわめきが戻っていた。
桐谷くん…いつものポーカーフェイスじゃない。
冷静でもなくなってる。
やっぱり本当なんだ……。