虫の声が響く道を桐谷くんと肩を並べて歩く。
いくら夏で日が長いとはいえ外はもう真っ暗だった。
いつもは電車で移動する距離。
たった2駅でも、徒歩ではそれなりに時間がかかる。
「俺、見たんだ。あの事件の現場」
店を出てしばらく歩き、繁華街から離れて、辺りが静かになった頃。
桐谷くんはゆっくりと、話してくれた。
「その日、早めに登校したのは…偶然だった。何となくスッキリしたくて、野球の自主練でもしようって思いついて。
図工室、離れにあっただろ?誰かが独りで絵を眺めてるのが、グラウンドから見えたんだ。」
おそらく、私が学校に着く少し前の出来事なんだろう。
無意識にコクリと唾を飲み込んだ。
「……それで、見に行ったの?」
「雰囲気が怪しかったからな。急いで駆け込んだけど、絵はすでに手遅れだった。
そこに居たのがアイツじゃなかったら、放っておいたと思うよ。けど…」
桐谷くんは、一瞬考える素振りを見せた後で、言った。
「香奈ちゃんが大好きな、江波直…だったから」
「……え…?」
直くんを好きだってこと、桐谷くんに言ったことは…なかったはず。
「し…知ってたの!?」
「分かるよ。廊下ですれ違うたびに目で追ってんだから」
「……」
「それに、よく話に出てきたしな。直くんはすごい!天才だって。
いっつも二言目には直くんでさー。どんな鈍感でも気付くって」
ニヤリとイジワルな笑みで流し見られた。
そ…んな分かりやすかったんだ…私…!
恥ずかしすぎる…っ!
「好きな人に…しかも、絵に関して尊敬してたヤツに、自分の作品を汚された。
そんなこと、本人に知らせるわけにはいかない。
あの時の俺はそう考えたんだ」
知ったらきっと泣いてしまう。傷ついてしまう。
香奈ちゃんの想いの大きさは、分かってたから。
呟くような桐谷くんの言葉は、すぐに闇に紛れて消えた。
「呆然としてる江波を図工室から連れ出して、問い詰めた。
そしたら自分がやったことが信じられないって言うから…提案したんだ。
俺がやったことにすれば…?って」
「そ…んな…」
それじゃあ…桐谷くんが罪を被ったのは…。
全部、私のため……?
「先生にも俺が名乗り出てやるよって言ったら、喜んで食いついてきた。その代わり――」
―――今後一切、香奈ちゃんに関わるな。
「誰にも傷つけさせたくなかった。
大事な人が…一生俺に笑いかけてくれなくなったとしても」
自嘲気味に言った彼に、掛ける言葉が見つからない。
「その時は名案だと思ってたんだ。
ちょうど避けてた時期で、しかも前日に酷いことを言ってしまったばかりだったし…。
俺が今、絵をメチャクチャにしたとしても…疑われない。
情けないけど…たぶんアイツがやるより俺がやった方が香奈ちゃんの傷は浅い。
あとは演技さえうまくできれば…って」
「……」
「でも結局、取り返しつかないくらい傷つけてしまった。
ホント格好悪いよな…」
「格好悪いのは私だよっ…」
突然声を上げた私に、隣の気配が戸惑ったようにこっちを見る。
あの時、私を見下ろす彼の冷たい目に迷いはなかった。
本気で悪者になろうとしてたんだ。
それにアッサリ騙されて、疑心暗鬼になって……。
「桐谷くんは…自分を犠牲にしてまで私を守ろうとしてくれてた…。
なのに私は…たった一言で、ずっと支えてくれてた友達を…疑って…」
彼との楽しかった思い出は全て偽りだったんだと、決め付けた。
「……泣くなよ…」
「っ…ごめ…」
参ったな…って、私を見下ろす桐谷くんの表情は、どこまでも優しい。
慌てて目元をハンカチで押さえる。
当時、私の中で直くんはすごく大きな存在だった。
恋愛感情もそうだけど、それ以上に絵に関する憧れの方が強かった。
目標だったのは、誰もが知っている如月響子よりも、初めて絵で感動をくれた直くんで。
あんな風になりたいって、ずっと背中を追いかけてた。
当時の私が、真実を突きつけられていたら…
もう一生…絵は描けなかったと思う。
だって……
私は感動をもらったのに、私の絵は…直くんに絶望しかもたらさなかった…
私の絵は……憎まれていた。
その重さに、あの頃の私が耐えられるはずがない。
それを全部解っていた11歳の少年に…救われたんだ。
直くんが私に話さなければ、ずっと悪者のままでいる覚悟をしていたに違いない。
桐谷くんは…すごくカッコイイ。
なのに、こうして打ち明けられるまで、彼の気持ちを知ろうともしなかった私は…。
なんて…情けない。
「今まで、…ごめんなさい。…本当に…ありがとう……」
喉から絞り出した思いは、届くだろうか。
私のぐしゃぐしゃになった顔を見て、桐谷くんは小さく笑って。
「その言葉だけで、もう十分」
切れ長の目が、夜空を仰いだ。
「俺さ、初めて会ったときから香奈ちゃんに惹かれてた」