付き合っている人がいる。それだけで、しばしば訊かれるのが『どこまでいった?』。
そりゃ、そういうことに興味がないといえば嘘になる。
本気で好きだからこそ、自分のものだという確かな実感が欲しい。
絶対に誰にも渡したくないから。
だけど、俺は――
*
文化祭が終われば、次に控えているのは期末テスト。
県内では3本の指に入るくらいの大学進学率を誇るこの高校は、テスト1週間前からは例外なく部活動が休みになる。
いつもは憂鬱でしかないこの期間だが、今回ばかりはそうでもなかった。
「桐谷くん、ここ分かる?」
隣から聞こえてくるのは、愛しい人の声。
周りでテスト勉強をする生徒を気遣ってか、ボリュームは最小限に抑えられている。
どれ?と少しだけ顔を寄せれば、フワリと柔らかい香りがした。
「この問題なんだけど…加法定理を使えばいいのかな?」
「そうだけど、公式自体が間違ってる」
「ええ…!?ずっとこれで解いてたのに…」
「ホントの公式はこれ」
机の上にあったテキストを渡すと、咲は難しい顔で開かれたページに視線を落とした。
真面目で品行方正、努力家だから成績もそれなりに良い咲。だが、少し抜けているのか、たまに致命的なミスをしていることがある。
俺は理系、彼女は文系科目が得意。こうして二人で勉強するのは効率的だった。
「あ…明日、休館なんだね」
帰り際、入り口の掲示板で見つけた図書館の開館案内。
そこには担当教諭不在のため休館、と書いてある。
「じゃ、家で勉強だな」
「んー…家だとテレビ見ちゃうんだよね…」
桐谷くんと一緒だとはかどるんだけどな、と残念そうに漏らす彼女にその提案をしたのは…単なる気まぐれ。少しでも勉強の手助けになればと思ってのことだった。
「俺んち来る?」
「え…」
「親共働きで、夜遅くまで帰ってこねえし」
「え…と…あの…」
目に見えて動揺する咲に、俺は吹き出しそうになるのをなんとか堪えた。
分かり易すぎる。
そういう意味で言ったわけではないのに。
隣で頬を赤らめて俯く彼女を見ていれば、自然と悪戯心が顔を出す。
「気になるんなら、麻生と西野さんも誘ってみる?」
「…ううん、大丈夫。ふ…二人で…」
「そ?じゃあ決まりな」
暗に二人きりを避けるようなニュアンスを出せば、やはり乗ってきた。
どこまでも思惑通りな彼女に、知らず口角が上がる。
明日はテスト勉強よりも別のことに頭を使うことになりそうだ。
*
「どしたー大翔、ご機嫌じゃん」
朝練がないため、いつもより少し早めに入った教室。
テスト前で勉強している生徒が多い中、この友人は随分と余裕だ。
「そうか?フツーだろ」
「いーや、雰囲気が違う。椎名さんと何かあった?」
「何もねえよ」
麻生は、そのおちゃらけた見た目からは想像もつかないが、たまに妙に鋭い。
「俺の機嫌より、テスト範囲気にした方がいいんじゃ…」
「あちゃー!それは禁句だって」
こいつに余裕があるのは頭が良いからではなく諦めているから。
最初はさすがに不憫に思ったが…。本人がこんな調子では、もう同情する気も起きない。
「あっ!大翔アレ」
中学の頃はそれなりに頭良かったんだぜ、と唇を尖らせていた麻生は、次の瞬間には別のことに気を取られている。
友人の視線の先、教室の入り口付近を見やれば、咲と西野さん、それに…アイツが立っていた。
「やっぱ西野さんと王子が付き合い始めたって噂、ホントなのかな?」
小さくひそめられた麻生の声は、脳に伝わることなく右耳から左耳へと素通りしていく。
嬉しそうに微笑む咲の髪を…アイツが優しく撫でたから。
またかよ…。
俺たちが付き合い始めてから、アイツが必要以上に咲に触れるのは、多分…いや確実に気のせいじゃない。
文化祭の時もそうだった。
目をかけていた後輩を横から掻っ攫われたのだ、恋愛感情はなかったとしても面白くないのだろうか。
歪んでいるであろう顔を元に戻す前に、アイツと視線が絡んだ。
整った穏やかな笑顔が、一瞬だけ勝ち誇ったようなそれに変わる。
言いようのない苛立ちが込み上げてくるが、それを悟られたら負け。気のないフリを装い、俺は視線を外した。
「ちょ…王子ってあんなキャラなのか?」
麻生はまんまと憤慨している。
オマエが動揺してどうすんだ、という突っこみはとりあえず飲み込んでおいた。
「さあな、何となく…楽しんでるような気もするけど」
「は?楽しんでるって、何を?」
意味が分からないと言う麻生を適当にかわしつつ、古文のテキストを取り出す。
見た目の印象ではもっと真っ白かと思っていたけれど、
案外計算高いヤツなのかもしれない…。
*
ミルクティの入ったマグカップをテーブルの上に置くと、咲がテキストから視線を上げた。
「もしかして、わざわざ買って来てくれた?」
「葉があったから、ストレートにミルク足しただけ。ちょっと休憩すれば?」
咲を部屋に通したのは、確か午後4時くらい。
雑談もそこそこに勉強に取り掛かった彼女は、相当緊張していたのだろう。
現在午後7時。3時間ぶっ通しではさすがに集中力も切れてくる。
まだ湯気の立つミルクティを一口飲み、緊張が解れたのか、咲の表情が少し緩んだ。
「美味しい…」
「良かった。もっと飲みたかったら下にあるし、言って」
「うん、ありがとう……あの、桐谷くん…」
「何?」
声を震わせる彼女は、きゅっと唇を結んでいる。
俺を呼んではみたものの、話し出すことを躊躇っている。そんな雰囲気。
カチ…カチ…と掛け時計の規則的な秒針の音だけが部屋に響く。
うろうろと視線を泳がせる様子見つめ、辛抱強く待ってみれば、やがて咲は口を開いた。
「あ…あの…私……先輩のことはもう何とも思ってないから…ね…?」
「は?」
「…今日先輩にそれとなく言われたの。『咲ちゃんがはっきり言葉にしないと、彼氏は不安になるかもしれないね』って…だから……私の思い上がりかもしれないけど…その…」
「……」
やってくれるじゃねえか、あの野郎。
憶測の域を出なかった考えが確信に変わった。奴は絶対に楽しんでる。
咲は真っ直ぐで純粋で…だからこそ分かり易い。
だが反面、第三者に入れ知恵されれば、厄介なことになりかねないのも事実で…。
「そーだな…咲とアイツを見てたら正直、妬ける」
「…!」
俺の一言で、とたんに透き通るように白い頬が赤く色づく。
内側で燻っていた支配欲が、ゆっくりと首をもたげるのを感じた。
テーブルを挟んで座っていた彼女の隣に移動すると、華奢な肩が縮こまって。
「怖い?」
できる限り優しい声音で訊ねれば、ブンブンと大袈裟に首が振られる。
「じゃあ…緊張してる?」
「…少し……」
咲はそう言うが、本当は少しどころじゃないだろう。
伏し目がちの瞼、長いまつげがわずかに震えている。
そっと艶やかな髪に触れれば、ピクリと素直な反応が返ってきた。
付き合い始めて2ヶ月と少し。こうして傍に寄るのは初めてのことではない。
今だ初々しい反応のままの彼女を可愛らしいと思う反面、じれったくもあった。
それでも、クセのないサラサラとした黒髪を梳いていると、気持ち良さそうに目が閉じられて。
そのまま小さな頭を肩に乗せられた。
フワリ。彼女独特の柔らかい香り。香水やコロンのようにキツいものではない、優しい匂い。
不意に腹の奥に熱い衝動が生まれ、鼓動が速まる。
黙ったままでいるのは…マズイ…。
「咲」
「…ん?」
「名前、呼んで?」
「…え…!…そんな急に…?」
「このままだと『桐谷くん』が定着しそうだから」
文化祭の日から、俺は名前で呼んでいる。だけど、咲はずっと苗字で。
突然の要求にしどろもどろの彼女だが、さっきの話の流れで断ることはできないだろう。
それを見越してのワガママ。
内心舌を出しつつ、表向きは笑みを浮かべて、俯く咲を見下ろした。
「……ろと…」
「聞こえない」
「………大翔…っ」
今にも泣き出しそうな顔で呟く愛しい人。堪らずその身体を引き寄せ、抱きしめた。
小さな彼女は、すっぽりと腕の中に収まってしまう。あまりにも…頼りない。
背中に回される細い腕はおそるおそるといった感じだ。
髪を一房掬い、そっと口付ける。
「咲」
耳元で囁き、柔らかい頬に軽くキスを落とす。
ピクリと反応する身体に小さく吹き出し、顔を覗き込んだ。
名前を口に出したのがよほど恥ずかしかったのか、こちらを見つめる彼女の瞳は濡れていて。
「今、密室で二人きりなんだけど。そんな顔する?」
「…っ!」
ニコリと笑ってそう言ってやれば、可哀相なくらいに狼狽する咲。
必死で身をよじり背を向けようとするけど、そんなの、許すわけない。
腰を抱く腕に少し力を込めれば、敵わないと諦めた彼女の体から力が抜ける。
「キス、したい?」
「え…」
「俺はしたい」
「ど…どうしていつもそんな恥ずかしこと……ヘーキで言うの…っ」
「恥ずかしくないから」
咲が恥ずかしがっているのが可愛いから、とは絶対に言わない。
腕の中が静かになり、再び、カチ…カチ…と秒針の音が空間を支配する。
拗ねたか…?
そっと顔を覗き込もうとすると、今にも消え入りそうな声が聞こえた。
「したい…」
「え?」
「キスしたい。…大翔と……。ずっと、私…文化祭の日から忘れられなくて…っ…ん」
切れ切れに紡がれる言葉を飲み込むように、桜貝のようなそれを塞いだ。
そんなの、俺だって。
忘れられなかった。大きな瞳を潤ませてねだる、ずっと好きだった人。触れた唇の柔らかさ。
それでも今まで我慢していたのは…咲の方から求めてほしかったから…?
それも、あるけれど。
恋人になったからと勝手な気持ちだけで行動して、怯えさせたくなかった。
男が苦手な彼女だから。
その原因を作ったのは……他でもない自分だから。
そっと彼女から離れれば、トロリと蕩ける瞳と視線がぶつかった。
薄く開かれた唇は、唾液で艶っぽく光っている。
頬が薄っすら上気しているのは、恥ずかしいからだけではないだろう。
また、そんな
表情…!
…ああもう、限界。
「もっと大人のキス…してみる?」
感情を押し殺した声で問いかけ、返事を聞く前に再び小さな唇に触れる。
さっきよりも強く。それでいて優しく。
息継ぎのタイミングで舌を入れると、腕の中の身体がビクリと強張った。
大丈夫だと言い聞かせるようにそっと、何度も髪を梳く。
柔らかい舌の感触がして、ミルクティの甘い味が口内に広がる。
「…んっ…はぁ…」
咲の口から、誘うような吐息が漏れる。
柔らかい身体がくたりと弛緩し、後ろのベッドに寄りかかって…。
ヤベ…そろそろ本格的に、止められない。
早くストップをかけろ、とわずかに残る理性が警鐘を鳴らし始めた。その時。
ガチャッ…!と微かに物音が聞こえた。これは…玄関のドアが開く音だ。
『大翔ー、誰か来てるの?』
階下から聞こえてきた母親の声。慌てて身体を離し、いつもどおりを装う。
構わなくていいと下に向かって返事を返せば、それ以上の追求は途絶えた。
途切れがちに鼻歌が聞こえてくる。多分、キッチンから。これから夕飯をの支度をするのだろう。
突然の第三者の声に驚き、硬直している咲に、
「続きはまた今度な」
ニヤリと笑ってそう言ってやれば、案の定、面白いくらいに照れている。
そんな反応をするから余計にからかいたくなるってこと、こいつは絶対に分かってない。
両手を頬に当て、必死に熱を冷まそうとする彼女を見て、思った。
今はまだ、このくらいまででいい。
ゆっくりでいいから、少しずつ二人の時間を重ねていければ。
面白かったらぽちっと
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