01





 ピピピピ…ピピピピ…
 ケータイの規則的なアラーム音が聞こえ、緩く瞼を持ち上げる。
 毎朝聞いている何の変哲もない、持ち主の目を覚まさせるだけのためのそれ。
 枕の右側に置いてあった携帯を手探りで取り、ディスプレイに表示された時間を確認する。

「……!」

 悲鳴は声にならなかった。
 私の睡眠欲を見事に吹き飛ばしてくれたのは、ボリュームを最大に設定したアラームではない。
 嘘、そんなまさか。頭の中には今の現実から逃げようとする言葉ばかりが浮かんでいる。
 寝ぐせがついていなかったのが不幸中の幸い。15分で支度を終え、戸締りだけはきっちりと確認してからアパートを出た。

 ついていない。今の時間の電車は、それはもう物凄く混んでいる。
 入社したばかりの頃こそギリギリまで寝ていたくてこの時間に乗っていたが、すぐ断念して早めの電車に替えた。
 理由は乗車率。おそらく150%は超えているだろう。
 会社の最寄り駅に着く頃には、髪も服も悲惨な状態になっているのだ。

 通勤途中のサラリーマンやOLでごった返す駅内。同じ方向に歩く人たちの波に乗らなければ、真っ直ぐ歩くことすらままならない。
 ようやく電車に乗る頃には、一日の体力の半分ほどを使い果たしてしまっていた。
 だから嫌なのよ、この時間の駅に近づくのは…。
 眉間に寄った皺をそのままに、こもった空気が充満する車両に体を押し込む。
 四方八方から知らない人に圧迫され、眉間の皺がさらに深くなった気がした。

 目的の駅に着くまで、40分弱。
 ああ…もっと会社の近くに住んでいれば…。
 おしくら饅頭している人たちとなるべく目を合わせないようにしながら、ひたすら時間が過ぎ去るのを待った。


 異変に気付いたのは、車内アナウンスが2つ目の駅の名を告げた時だった。
 無理やり乗車しようとする人波に押され、私は周囲の人とピッタリ身体をくっつける状態になった。
 最初は気のせいだと思い、気にも留めなかった。
 こんな缶詰状態の場所では、意図せず他人に触れてしまうことはよくあることだ、と。

 だが、そんな私の思考をあざ笑うかのように、偶然のはずの接触は何度も続く。
 今度ははっきりと意図的だと分かるくらい、露骨にお尻を撫でられた。
 ひっ…と、思わず口から飛び出しそうになった声を、寸でのところで飲み込む。
 こんなところで注目されるのは恥ずかしい。ましてや痴漢されたなど、周囲から好奇の目で見られるに決まっている。
 何よりそういう経験自体が初めてで、冷静な判断などできなくなっていた。

 私が抵抗できないと踏んだのか、お尻をまさぐる手は次第にエスカレートして。
 とうとうスカートの中にまで侵入してきた。
 ぞ……と背中をうじ虫が這ったような、嫌悪感。

 嫌だ…っ!やめて…!
 そう思うのに、金縛りにあったみたいに体が動かない。
 もうダメだ、と涙が零れそうになった、その時。

「何してんだよ、おっさん」

 すぐ近くで低い声が聞こえ、お尻にあった手の感触が消えた。

「うっわー!この人痴漢してるんだけど!サイテー!」
 大きな声にとっさに振り向けば、制服を着た高校生らしき少年と目が合った。
 周囲の乗客の視線が集中する。私に痴漢した人物への軽蔑が含まれた、視線。

「違う、誤解だ…!俺は…やってないっ…!」
「言い訳は電車を降りてから、警察ですれば?」
「……っ」
 タイミングよく到着した駅で、サラリーマンと思しきスーツのおじさんは、少年の手を振り切りいち早く駆け出す。
「あっ!待て!」
 少年は追いかけようとしたが、犯人は瞬く間に人混みに紛れてしまった。


「ごめん、逃がしちゃった…」
 とっさに彼の後を追って電車を降りた私に、少年は心底申し訳なさそうに言った。
「そんな!止めてくれただけで十分だよ。ありがとう」

 もし助けてもらえなかったら、お尻を触られる程度では済まなかっただろう。
 まだ少し足が震えている。
 怖くて声も出なかった私を身を呈して助けてくれた。
 下手をすれば、とばっちりを受ける可能性もあったのに…。

 もう一度礼を言おうと少年の顔を見上げて。
 私は、フリーズした。
 彼の顔……。めちゃくちゃ整ってる。フランス人形みたいだ。

 二重瞼の大きな目、綺麗に通った鼻筋、小さな唇は桜色で。
 色素の薄い髪は少々くせ毛だが、フワフワと風に揺れ柔らかそうだ。
 某タレント事務所に入っていると言われても納得してしまいそうな美少年。
 幼い頃はよく女の子に間違われたんだろうな、などと失礼な想像をしてしまう。


「…さん、おねーさん、会社行かなくていいの?」
「……え?あっ!」
 
 ぼーっとしてる場合じゃなかった!仕事!
 慌てて腕時計を確認し、私はがっくりと肩を落とした。
 始業時間はとっくに過ぎている。

「と言うか、君も学校遅刻だよね。ごめんなさい、私のせいで…」
 痴漢など、見て見ぬフリをしていれば足止めを食うこともなかっただろうに。
 うな垂れた私を見て、彼はゆるりと口端を上げる。

「んー…俺はいいよ。それよりさ…」
 小さく端整な顔が近づき、覗き込まれた。
 朝の太陽の光を浴びて、大きな瞳が輝いている。

「今日一日、付き合ってくれない?」

 ………。
 …………。
 え?

 言葉の意味をすぐには理解できなかった。私はおそらく、キツネにつままれたような顔をしていたのだろう。
 目の前の美少年が、声を立てずに小さく笑った。

「これから会社行ったってどうせ遅刻でしょ?だったら潔く休んじゃおうよ。風邪でも引いたって言ってさ、ダメ?」
 ダメ?…って…。
「そ…そんなこと…」
「お願いっ!じゃあ、痴漢から助けたお返しに…っていうのは?」
「う…」

 それを言われると断りづらい。
 確かに、この子には感謝してもし足りないくらいだ。何かお礼がしたいと、今まさに思っていたところでもある。
 かと言って…仕事を休むのは……でもどうせ遅刻か……うーん…。

「へんなとこ連れてったり、危ないことに巻き込んだり、そういうことはしないから」

 捨てられた子犬のような目で見つめてくる少年。
 これだけ頼むということは、何かワケありなのだろうか。
 痴漢から助けてくれた人とはいえ、ホイホイついていっても良いのだろうか。
 頭の中には、たくさん疑問が沸いて出ていたけれど。
 気が付けば私は、分かった、と首を縦に振っていた。

 目の前の少年は、悪い人には到底見えなかったし。
 それに、何故だか彼にひきつけられた。
 容姿が綺麗だからとか、助けてくれたからとか、そういうことではない。もっと根本的な、底知れない何かが彼にはあった。


「おねーさん、名前は?」
「…中堀…真奈(マナ)
「真奈さん…ね、俺は才木奏斗(カナト)。奏でるの"奏"に北斗七星の"斗"だよ」

 宜しくね。
 初対面のクラスメイトに自己紹介でもする時のようにそう言って、彼は笑った。
 雲ひとつない青空のように澄んだ、屈託のない笑顔だった。





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