03





 沈黙がたちこめる。
 パークに絶え間なく流れる陽気なBGM。それが、ひどく滑稽なものに思えた。


「なーんてね」

「……はあ?」
 ニヤリと悪戯に笑った彼に、私はまたも間抜けな声を出してしまった。
「ごめん、冗談。真奈さんがあんまり辛そうだから、和ませようと思って」
 しおらしく眉尻を下げ上目づかいで謝られれば、怒る気も失せてしまった。

「何なのよまったく…」
 はしゃいでみたり、気持ちを分かってくれたり、真剣になったり、可愛らしく振舞ったり。
 不思議な子。

「奏斗くんて、高校生よね?」
「俺?そうだよ」
「いくつなの?」
「十七。高校二年」

 ってことは、六つも年下ってこと!?私なんて、おばさんもいいところじゃない。
 こんな見目麗しい子が、私みたいな何の変哲もない女に興味を持つなんて、ありえない。
 一瞬でもその可能性を考えた自分が恥ずかしい。

「今更だけど、奏斗くんは学校に連絡しなくていいの?」
「大丈夫だよ、俺がサボるのなんて日常茶飯事だし」
「親御さんに連絡されちゃうかもよ?」
「一人暮らしだし、親もわざわざアパートまで叱りに来ないよ」

 淡々とそう言った彼からは、一人で生活する寂しさは全く感じられなくて。
 むしろ、楽しんでいるように見えた。
 私なんて、社会人になっても親元離れて暮らすの、つらく感じる時もあるのに。

「じゃあ私、サボりの片棒担いじゃったんだね」
 冗談混じりにそう呟くと、キレイな口元がく…と面白そうに笑んだ。

「最後まで共犯でいてね?裏切って告げ口なんて…ゼッタイしないで」
「あはは…大丈夫だよー。そんな正義感溢れる人間じゃないから」

 そうかなあ?と小首を傾げた彼に、そうだよ、と応える。
 どちらからともなく、アトラクションに向かって歩き出した。

 今の私たちは、周りからはどういう風に見えているんだろう、と少し考えて、すぐに止めた。
 どうせ今日限りの関係だ、そんなこと気にしてどうなるものでもない。



 煌びやかな夜のパレードを堪能した後、私たちは朝と逆方向の電車に乗った。
 会社帰りのサラリーマン、大学生のカップル、塾帰りの中学生。夢の世界から一歩外に出ると、そこには嫌というほど現実が広がっていた。

「今日はありがと」
「こちらこそ、痴漢を撃退してくれてありがとう」

 朝、彼に助けられたことが随分と昔の出来事のように思える。
 奏斗くんは、律儀にも私のアパートの近くまで付き添ってくれて。
 そのことにも重ねてお礼を言った。

「それじゃあ、ね」
 もう会うこともないだろうけど。
 心の中でそう付け足して、少年に背を向けようとした。
 しかし、その動きは彼の手によって阻まれた。

 一瞬のことだった。

 気が付いたら、唇が合わさっていた。

 触れるだけのキスの後、目の前にはあの無邪気な笑顔があって。

「今日のことは、俺と真奈さんだけの秘密ね」

 それだけ言い残し、少年の背中は次第に遠ざかっていく。
 私は、しばらくその場から動けなかった。





 アパートの鍵を開けると、予想通り中は真っ暗だった。
 恋人はまだ仕事中らしい。静まり返った部屋に独りでいたくなくて、たいして見もしないテレビのスイッチを入れる。

 二歳上の恋人、瀬島遼介(リョウスケ)とは、大学時代から付き合っている。私の初めての彼氏。
 サークルで知り合い、彼の人間性に惹かれて、勇気を出して私から告白した。

 大学二年の秋、付き合って半年を過ぎた頃。当時一人暮らしをしていたアパートを引き払い、彼のところに転がり込んだ。
 世間で言うところの、同棲。そうするよう私に勧めたのは彼で、そして二人ともが社会人となった今でもそれは続いている。


 あの頃は良かったなあ…。
 過去の自分をうらやむような感情が顔を出す。いつものこと。

 冷蔵庫の中にあるもので適当に夕食を済ませ、テレビの中で馬鹿笑いしている人たちを眺めていると、玄関で鍵を開ける音がした。次いで、リビングに近づいて来る聞き慣れた足音。

「お帰りぃ」
 入ってきた彼に向かって、わざと陽気な声を出す。
「ただいま…」
「お疲れ様」
「マジ、疲れた…」

 私のから元気も虚しく、遼介は疲れた顔をそのままに、さっさと着替え始めた。
 ソファに座っている私の方を見もしない。
 学生の頃なら、家に帰って私がいたら…真っ先に抱きしめて、キスしてくれたのに。


「今日部長がまた急に追加の仕事頼んできてさー…最悪だよ。明日徹夜決定…」
「そうなんだ、大変だね」
「俺に頼んどいて本人はさっさと帰ってくし、ホントありえねー」

 遼介の会社はブラックだ。今日のように日付が変わる前に帰ってこれればまだ良い方で、普段は朝早くから深夜2時、3時まで仕事が当たり前。休日なんて滅多にない。

「何か食うもんある?」
「あ、今から作るね」
「頼む」

 学生時代、食事は遼介が作ってくれていた。何でもソツなくこなす彼は、料理のセンスも良くて、私は食器を洗う係だった。
 今、遼介は家事を一切しない。彼の時間は、仕事をこなすことと、友人や元サークル仲間と遊ぶことだけに使われる。

 食事を終えると、遼介は溜め息を吐きつつさっさと寝室に行ってしまった。

 彼の使った食器をシンクに放置したまま、私は風呂に入る。シャワーの蛇口を全開にして、頬を伝った涙を洗い流した。

 ここ数ヶ月、恋人らしいことをしてない。
 毎日飽きるほどしても足りなかったキスも、今は日に一回するかしないか。
 昔はこんなんじゃなかった。
 絶対結婚しようねって言ってくれてたのに。

 いつからこんな、淡白な関係になっちゃったんだろう。

 私は、どうしてこんなになっても…別れようって一言が、言えないんだろう。


 今日、他の男の人にキスされちゃった。
 そう言ったら、彼はどんな顔をするだろうか。

 怒る?冗談だろって笑う?
 それとも……そんなことに興味すら、持たないかもしれない。
 以前は笑って聞いてくれていた私の話にも、今は空返事しか返ってこないんだから。

 キスをされた唇をそっとなぞってみる。
 好きでもない人に触れられたのに、不思議と嫌悪感はなかった。
 恋人にすら触れてもらえない唇なんて、守る価値もないもんね…。

 考えたらまた視界がぼやけた。


 今日一日のことは、きっとすべて夢だったんだ。
 奏斗と名乗る不思議な美少年に助けられ、そのままテーマパークで遊んで、別れ際にキス。

 まるでおとぎばなしだ。


 シャワーを浴びているのに、私の唇はひんやりして、熱を失っていた。





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