しとしとと降り続く雨の中、いつものルートでアパートへの道を歩く。
ふと顔を上げると、いつもは真っ暗な部屋の窓に明かりが灯っている。
遼介…帰ってきてるんだ…。
まだ8時前なのに、珍しい。
久しぶりに二人の時間を過ごせる。そう思ったら、自然と階段を上る足も速まった。
今日は、少し甘えてみようかな。
ウキウキしながら明かりの漏れるリビングのドアを開けると、ソファに座る遼介の姿が目に入った。
隣に、見知らぬ女性が座っている。
すらりと長い手足に、整った顔立ちのその人は、ピッタリと遼介に寄り添っていた。
「俺、この人のことが好きなんだ」
硬直する私に向かって、彼はおかえりの挨拶もなしに淡々と言い放った。
「だから悪いけど、お前は家出てってくれない?」
「え…!?」
ぐにゃり、と視界が歪む。
目を開けると、そこは寝室のベッドの上。
夢…だったのか。
騒ぐ心臓をなだめつつ、深い溜め息を吐いた。
ぐっしょりと汗で湿ったシャツが、肌に張り付いて気持ち悪い。
リアルな夢。一瞬、現実かと思ってしまった。
ダブルベッドの隣は空だった。昨夜、恋人は帰ってこなかったようだ。
大方急な業務でも入って、会社で夜を明かしたんだろう。
べたつく汗をシャワーで軽く流した。
最近、こういった類の悪夢にうなされることが多い。浮気をされるだとか、別れを告げられるだとか。
仕事に行く気はとっくに失せていたけれど、そんなことも言っていられない。
朝食は摂らずに、身支度を整えてすぐに家を出た。
*
全国チェーンのレンタルビデオ屋でDVDを物色する。
結局、鬱々とした気分から抜け出せないまま仕事を終えた。
帰り際、最近入ってきたばかりのパートさんに食事に誘われたが、丁重にお断りした。こういう日はさっさと部屋に引き篭もって現実逃避をするに限る。
コメディと書かれた棚に収まっている商品を取ろうと、手を伸ばすと。
「あれ、真奈さん?」
低めのアルトで名前を呼ばれて、私は振り返った。
隣に、ビックリ顔の美少年が立っている。
「こんにちは、偶然だね。この間はどうも」
彼はとろけるような笑顔を惜しげもなく披露し、ペコリと頭を下げた。
もし私が彼と同年代の女子なら、一瞬で堕ちてしまいそうなスマイル。
「…こちらこそ、その節はお世話になって」
思いのほか礼儀正しい態度を向けられて、つい格式ばった挨拶を返してしまう。
気まずい…。
あれっきりだと思ってたのに…。まさか再会しちゃうなんて。
気付かれる前に店を出ていれば、話さずに済んだのにな。
ついてない日って、とことん嫌なことばかり起きてしまうものなんだ。
「あ、それ!俺も同じの借りようと思ってた」
「え?」
私が手にしていたDVDに目をやった奏斗くんは、映画見損ねちゃって、と悔しそうな顔をしている。
「それならこれ、どうぞ」
私はその四角い箱を彼に差し出した。
「え…真奈さんは?」
「私は他のでいいよ。これ、あと1枚しかないみたいだし」
上段にずらりと並べられた箱は、すべて空だった。ランキング1と書かれたポップが貼ってある。
最新作のこの作品は人気があるのだろう。
「でも…なんか申し訳ない…」
物憂げに睫を伏せる彼は、明らかに遠慮している。
別にそこまで観たいわけじゃないし、構わないんだけど。
早く受け取ってくれないかな、と私が痺れを切らしかけた時。
「そうだ、一緒に観ようよ!」
ぱっと顔を上げた奏斗くんはキラキラと効果音が聞こえてきそうなくらい輝いていて。
さも名案だ、と言わんばかりにとんでもないことを提案してきた。
思わず一歩後ずさってしまったのは、致し方ないことだと思う。
「ど、どうしてそうなるの?」
「だって、そうすればどっちかが諦めなくてもいいし、値段も半分じゃん」
「だからって…」
困った。最近の高校生は、一度テーマパークで遊んだだけで、それまで縁もゆかりもなかった他人を友達だと思ってしまうんだろうか。
「…俺とは、嫌?」
若干引き気味の私につぶらな瞳が向けられる。
華奢で、身長もそれほど高くはない彼のその姿は、小動物を思わせた。
ああもう…そんな目で見つめないでよ…!
「そんなこと言ったって、場所はどうするの?うちは散らかってるから駄目だし、かと言って奏斗くんの家に行くのもおかしいでしょ」
「どうして?俺んちじゃ駄目?」
「駄目…って……」
彼と話していると調子が狂う。
この間、不意打ちでキスをしてきたのはどこのどいつだ、と言ってやりたい。
唇を奪われたことを気にしているわけじゃないけれど、そんな男の家に独りで上がりこむほど、私はバカでも子どもでもない。
「…もしかして、俺が何かするかもって…不安?」
悪戯っぽく口の端をもち上げ目を細める彼に、どくりと心臓が鳴る。
まただ。駅で誘われた時と同じ。
彼の雰囲気が、変わった。
子どもみたいに屈託のない空気が、大人の男の人みたいに…。
「あの時は、ごめん。今度は絶対何もしないって、約束するから。…信用できない?」
「……」
じっと見つめてくる瞳から、目が逸らせない。
吸い込まれてしまいそうな、綺麗な瞳。
「…分かったわよ」
操られているみたいに、口が勝手に肯定の意を唱えた。
信用したのかと問われれば、そうではない。だけど…。
もっと知ってみたい。不思議な雰囲気を持つ彼のことを。
その思考が純粋な好奇心からくるものなのか、はたまた別の感情からくるものなのかは、定かではないけれど。
*
「こんな…豪華なとこに住んでるんだ」
連れてこられたのは、私の住むアパートの近所だった。
たぶん、歩いて十分もかからない。
見上げた建物はアパートではなくマンションと言った方が相応しい。近代的なデザインの外観に、十以上はあるであろうフロア数。
そういえば遼介と引越し先を探しに来たとき、こんなところに住めればいいのにねって、このマンションを見て冗談を言っていたような気がする。
「親が金持ちなんだ」
サラリと呟いた少年からは、何の感情も読み取れない。
エレベーターで十五階まで上り、奏斗くんが慣れた動作で部屋のロックを解除する様子を、私は複雑な気持ちで眺めた。
「どうぞ」
「お邪魔します…」
いくつもある扉の一つを開けて、通されたそこはリビングのようだった。
南側に大きな窓のある二十畳ほどの空間にはカウンターキッチンが備えられている。
対面には大きなソファとテレビ、ガラステーブルが置かれていた。
「高校生の一人暮らしとは思えない」
「そう?」
「だってこの部屋…どう見たって家族向けでしょ」
廊下にあった扉の数からして3LDKといったところだろうか。
いずれにせよ一人で使うにはあまりにも広すぎる。
「そこに座って、適当にくつろいでて」
奏斗くんがソファを目で示す。
素直に従ったら、フワリと体が沈んだ。うちにあるのとは違って、かなりお高い代物のようだ。
初めて訪れた他人の部屋でくつろげるはずもなく、そわそわと辺りを見回していると、キッチンからトン、トン、と包丁を使う音が聞こえてきた。
「嘘…料理、できるの!?」
「少しだけ。そんな凝ったものは作らないけど」
「生活感なかったから、てっきり外食ばかりなのかと…」
「まさか。そんなことしてたら体に悪いじゃん」
あはは、と声を上げて笑う彼は子どもでも大人でもなく、ちゃんと年相応に見えた。
手際よく材料を鍋に入れる様子が、昔の遼介と重なって見えて、少しだけ悲しくなる。
私が哀愁に浸っていると、キッチンの方から食欲をそそる香りが漂ってきた。
ぐるる…と腹の虫が鳴く。
「どーぞ」
目の前に置かれた器には、湯気を立てる親子丼。
手の込んだものじゃなく、意外に庶民的な食べ物ですこしほっとした。
「いいの?」
「もちろん、一緒に食べたくて作ったんだし」
奏斗くんの手には、彼の分の器が乗っている。
はい、手え合わせてー、と満面の笑みで言われ、ついそれに従った。
小学校の給食の時間のように二人で声を合わせ、いただきます!と挨拶をし、出来たての親子丼を口に運んだ。
「…美味しい…」
「ホント!?」
「うん…奏斗くん、上手だね」
空腹だったこともあり手が止まらない。口の中でじんわりと広がる和風の味に頬が緩む。
ふと視線を感じて隣を見れば、彼は料理に手を付けず、嬉しそうにこちらを眺めていた。
「何?」
「ん、美味しそうに食べてもらえるの、嬉しくて」
「……」
「えっ…俺何か変なこと言った!?」
うろたえる彼を見て、やっと自分が泣いていることに気付いた。
慌てて目元を手で拭うが、後から後から溢れてくる涙は止まらない。
――真奈が美味そうに食べるの見てると、嬉しくなる
学生の時、よく遼介が言っていたこと。
私が作るより美味しいんだから遼介が作ってよ、と頼むと、普通は逆だろって口を尖らせて。
でも、なんだかんだでご飯を作ってくれてた。
私が、美味しいと褒めたら、俺が作ると不味くならないからなって、冗談めかして…二人で笑っていたっけ。
自分以外の誰かが作ってくれた食事なんて…何ヶ月ぶりだろう。
そう思うと余計に切なさが胸を突き上げて。
隣にいる奏斗くんのことも忘れ、私は声を殺して泣いた。
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