09





 木の引き戸を押し開けて店の中に入ると、らっしゃい!と威勢の良い掛け声が飛んできた。
 昼の十二時から一時という、平日最も混みあう時間帯を外したからか、サラリーマンらしき男性数人の他に、客はいない。

 優実は…まだ来てないか。

 待ち合わせは一時半。まだあと五分ほどある。
 サービス業の彼女は休みが不定期で、今週は火水が休みらしい。
 それに合わせて火曜に有給をとったのは、親しい人に会って沈んだ気分を持ち直したかったからだ。


 水を持ってきた店員に注文を待ってもらうよう告げ、何となく店内を見渡す。
 昼でも少し薄暗く、いかにも必要最小限のものだけ揃えましたと言いたげな、殺風景な内装。
 だけど私は、このラーメン屋が結構気に入ってる。

 お洒落な輸入雑貨で完璧にコーディネートされたイタリアンより、よっぽど性に合う気がして。
 ああいうお店って、気合い入れてめかしこんで行かないと浮いちゃうんだよね。


「よ!ごめんごめん、電車一本乗り過ごしちゃった」

 明るい声に我に返ると、優実がこちらに向かってくるところだった。
 スキニーのデニムパンツがスタイルの良さを際立たせている。

「どしたの?真奈から誘うのって珍しいじゃん」
「優実ぃー…グチ、聞いて。もう寂しすぎてさー」

 気遣ってくれた友人に、私は注文もそこそこに週末のささくれようを語った。
 もちろん、重い空気にならないよう冗談めかして。
 優実はいつものように時折相槌をはさみつつ、真剣に耳を傾けてくれている。


「それ、ちょっとへこむね」
 一通り私の話を聞き終えたあと、優実はポツリと言った。

「でしょ?もう私に対しての気持ちがないんだなって、分かっちゃうんだよねえ」

 ずぞぞーっと豪快にラーメンを啜り、半ばやけくそ気味に失笑をこぼす。
 遼介とのことをずっと応援してくれていた優実にこういうことを言うのはちょっとばかり気が引けて、今まで自重してきた。
 けれどそれも限界。
 誰かの助けを借りないと、思考が負のスパイラルにはまってしまう。


「真奈ぁ…」
「ごめん、暗くさせちゃったね。気にしないで。頑張ればそのうち遼介も分かってくれるかもだし」

 努めて笑顔をつくってみたけれど、優実の表情は晴れなかった。

「でもー…今の話聞いてる限りだと…」
「ん、何?」

 言いにくそうに口ごもった優実に、私は次の言葉を促した。
 優実はしばらく視線を泳がせる。

「…私だったら浮気かもって疑う」
「う…わき…?」
「うん…遼介さん良い先輩だし、こんなこと言いたくないけどさぁ…ちょっと怪しくない?」


 周りの目をはばかるようにして声を潜めた優実につられ、私もつい前かがみになる。
 じわり、と額に嫌な汗が浮かんだ。

 気ぃ悪くしたらごめんね、と前置きして友人は続ける。

「朝帰りが多くなって、休日ですら恋人に構わなくて……しかもここ数ヶ月ご無沙汰なんでしょ?めちゃくちゃ怪しいじゃん!」
「う……」

 そう言われれば、そうかも。
 私からはさり気なくくっついたり、甘えたりしようとしてる……けど、遼介の態度が素っ気なすぎて心折れちゃうんだよね。

「いやー…でも、遼介に限ってそんなこと、あるわけないよー」
「もーだからぁ、そういうのが危ないのっ!彼氏のこと信頼するのは良いけど、真奈のは盲目。後で泣きを見そうで心配だよ…」
「……」



 優実の気遣いは素直に嬉しい。
 だけど、遼介は本当に浮気なんてする人じゃない。
 誰に対しても平等に接して、人の気持ちを一番に考える。嫌がることは絶対に強要しない。
 そのくせ、"良い人"になるのが照れくさいから、冗談で人を茶化したりして。

 私は彼のそういうところが好きで告白した。


「優実の考えすぎだよ」
「んー…ならいいんだけどさ」
「でももし浮気されたら、ほんとに立ち直れないかも。自分でも遼介に依存してるの分かってるし……そういうのやめないとって思ってるんだけどね」
「ああ、真奈はリードされたい人だもんね。付き合うなら絶対年上でしょ」
「そこは拘らないけど、やっぱ頼れる人じゃなきゃ無理かな」

 きゃいきゃいと女子トークで盛り上がっていると、学生時代を思い出す。
 優実とは、よくお互いのアパートで恋愛の話をして夜を明かしたものだ。
 "付き合う"ということを知らなかったあの頃は、好きな人と両想いにさえなれば毎日ハッピーだと信じ込んでいたっけ。



 ラーメンを食べ終えた後は喫茶店に場所を移し、日が傾くまで話し込んだ。
 上司の愚痴や仕事のこと、最近人気の若手俳優のこと、優実の彼のこと。いくら話しても話題は尽きなくて、別れるころには身も心も随分と軽くなっていた。

 学校帰りの学生たちがたむろし始めた駅で、優実に手を振り別れた。
 制服のスカートを短くしてお喋りに夢中になっている女子高生たちが、脇をすり抜けていく。

 いいなあ。私もあんな頃、あったな。
 高校生だったころ、放課後の開放感を満喫していたときは、まさか社会人になってあの頃に戻りたいと思うなんて、考えもしなかった。

 感傷に浸りつつ、ふと向かいのホームを見やる。

 と、そこに見慣れた美少年の姿があった。


 わ…こんなところで偶然…!


 彼と外で会うのはこれで三度目だ。
 マンションの方向に向かう電車を待っているらしい奏斗くんは、北風が寒いのか、マフラーに顔を埋め、制服のポケットに手を突っこんでる。
 肩をちぢこまらせているのがちょっと可愛い。

 知らず、クスリと笑みが漏れた。

 私に見られているなんて知りもしない奏斗くんは、左手だけをポケットから出し、慣れた動作でipodを操作し始めた。
 相変わらずどこかのアイドルのような容姿の彼の横で、同じく電車待ちをしている女子学生がチラチラと隣を気にしている。
 その瞳は、見るからに恋する乙女のそれで。

 なぜか、ちり、と胸の奥が焦げ付くように痛んだ。


 自分の存在に気付いてほしい。でも、もうちょっとこのまま観察していたい。

 不思議な心境だった。


 手を振ったら気付かないかな。
 今日も奏斗くんのところ、行こうと思ってたし…急げば一緒に電車に乗れるかもしれない。

 そう思って階段の方へ向かおうとしたとき、知らない男の人が彼に話しかけるのが目に入った。
 思わず足を止め、じっと見つめる。
 背が高くて、遠目にもちょっとカッコ良さげな雰囲気の人。
 もちろん私が知っているはずもない。

 誰だろう…。
 そういえば私…毎日のように部屋に入り浸ってるくせに、奏斗くんのこと何も知らないんだよね。
 どこの高校に通っているのか。どんな曲を聴くのか。

 好きな女の子はいるのか…。


 気がつくと私の足は、奏斗くんのいるホームへと向かっていた。
 寒さ対策にとカバンに入れていたファーの帽子を目深に被って。







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