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ホームの自販機の陰にさりげなく身を隠し、二人の様子を伺った。
柔和な笑みを浮かべた男の人が奏斗くんにあれこれ話しかけているけれど、彼はそこまでこの状況を歓迎していないみたいで。
視線はあさっての方向を向き、会話を聞き流しているように見える。
いつもの、私の話にあどけない笑みを返してくれる奏斗くんとはまるで別人だった。
奏斗くんより頭半分ほど背が高いその人は、素人目にも良いものだと分かるスーツを着て、きれいに髪をセットしている。歳は三十代前半といったところだろうか。
ただ立って会話しているだけなのに穏やかな気品が滲み出ていて、どことなく中世の貴族を思わせる雰囲気だった。
「……は…どう?」
「別に、………ない…。そんなに心配…」
二人の話の内容を聞き取ろうと私は耳をそばだてた。しかし周囲の雑音が邪魔をして途切れ途切れにしか聞こえない。
奏斗くんとあの人は、一体どういう関係なんだろう。
友達でないことは確かだけど…。兄…にしては歳が離れすぎてるし、いとことか…?
一人であれこれ想像を膨らませる。と、不意に強い視線を感じた。
嫌な予感がして顔をあげれば案の定。さっきまで私に覗き見られていた本人が目を丸くしてこちらを見ていた。
「真奈さん…なんでこんな時間にこんなとこにいるの?仕事は?」
「え…?あ…その……今日は有給休暇で…」
心なしか早口で話す彼にしどろもどろになって返事をする。
覗きがばれてしまった気まずさで、心臓は今にも飛び出しそうなくらい早鐘を打っていた。
「やっぱり奏斗の知り合いか。さっきからこっちを気にしていたからそうじゃないかと思ったんだ」
先ほどから柔和な表情を崩さない男の人は、とっくに私の存在に気が付いていたようだ。
外見にピッタリの落ち着いたバリトンの声が鼓膜をくすぐる。
せめて一言謝ろうと視線を上げた私は、しかし、高い位置にある男の人の顔が視界に入った瞬間、硬直した。
切れ長の目と、綺麗に通った鼻筋。薄い唇。
どちらかと言えば可愛らしいタイプの奏斗くんとは対極だけど、この人もかなり整った顔立ちをしている。
私の態度に気を悪くすることもなく、男の人はニコリと笑って言った。
「初めまして。奏斗がお世話になっています。叔父の拓海です。あなたは?」
「あ、中堀真奈です。……奏斗くんは…えーっと…何と言いますか…恩人みたいなもので…だから、お世話になっているのはどっちかというと私の方で…」
少しだけ躊躇ってから、痴漢にあっているところを助けてもらったんです、と言ってみた。
正直、もうそれだけの関係でもないのだけれど、家に入り浸っていることはとりあえず黙っておくことにする。
叔父さんは大袈裟に目を開き、さらに笑みを深めた。
「へえ、奏斗が?…意外だな」
「え…?」
「普段はそんなヒーローみたいなことするヤツじゃないんだけど」
叔父さんがチラリと奏斗くんの方を流し見る。
と、それまで我関せずだった少年が口を開いた。
「……もういいだろ。帰れよ」
「はいはい。その代わり、お前もサボらないで学校行くこと」
「分かってる」
からかい混じりに説教をされたのがお気に召さなかったのか、奏斗くんが唇を尖らせた。
普段は滅多に見られない、歳相応の姿だ。
奏斗をお願いします、と丁寧に会釈をして去っていく叔父さんに慌てて頭を下げ返し、上背のある後姿を見送る頃には、あたりは夕焼け色に染まっていた。
「カッコイイ人だねえ、叔父さん」
「そう?」
「そうだよー奏斗くんの家系って皆あんななの?」
「さあ」
「………なんか、怒ってる?」
取り付く島もない返事に私が抗議の声をあげようとしたとき、突然体がグラリと傾いた。
瞬きをする間の出来事。
身体が…すっぽりと奏斗くんの腕の中に収まっているのはどういうわけだろう…。
「ちょ…!なに?」
奏斗くんの腕は、しっかりと私の腰に回されている。
ドッドッドッドと
心臓が暴れまわる音がやけに大きく聞こえ、駅のざわめきが遠くなる。
まるで体中が心臓になってしまったみたいだった。
精一杯もがいても私を拘束する力は弱まるどころかさらに強くなって、いよいよどうして良いのか分からなくなる。
夕方の帰宅ラッシュが始まるこの時間、駅の人口密度はしだいに増していた。
ただでさえ人目を惹く奏斗くんが、駅のホームで女性を抱き締めるなんて、恋愛ドラマのワンシーンみたいなことをしているのだ。注目が集まらないわけがない。
通り過ぎる人が皆振り返って私たちを眺めていく。
「ねえ、奏斗くん…っ」
「……」
「やだ、離して…!ここ駅だよ!?」
「駅じゃなかったらいいの?」
「……っ」
ニコ…って、ああなんて綺麗な微笑み。
…じゃなくて。
天使のような笑顔が、鼠を袋小路に追い込んだ猫のように意地悪く見えるのは、絶対に気のせいではない。
――駅じゃなかったらいいの?
その言葉は、彼の部屋で優しく抱き締められる自分を想像するには十分で。
これ以上上がったら本気で119番ものの心拍数がさらに跳ね上がる。顔は、身体中の血液が集まったみたいに熱い。
「これだけ人がいたら知り合いに見られてても不思議じゃないよね。例えば…真奈さんの彼氏、とか」
「……!」
「そんな顔してもダーメ。立ち聞きした罰」
「か…会話なんてほとんど…」
「聞こえなかった?でもそれは、偶々未遂だっただけだろ」
今にも額がくっついてしまいそうなほどに近い距離。
キスされる―――!
本気でそう思った。
ぎゅ、ときつく目を瞑る。
以前、不意打ちでされた時とは違う。
彼の伏せられた長い睫にクラクラして、抵抗しなきゃと思うのになぜか身体を動かせない。
私の周りに強力に張り巡らせた防壁。
そこにわざと作っておいた綻びを、奏斗くんはいとも簡単に見つけ出し、するりと中に入ってくる。
その言葉が、行動が、私の急所を的確に突いてくる。
そんなことされたら期待してしまって。
自分から、綻びを広げてみたくなるじゃない…。
ふっ…と口元に息が掛かった。
おそるおそる目を開けると、奏斗くんが至近距離で声を殺して笑っていた。
さっきまでの張り詰めた空気はどこにもない。
「…奏斗くん?」
「……ふ、ははっ…ごめん。真奈さんってさ、あんまり男に免疫ない?もしかして付き合うの、今の彼氏が初めてだったりして」
「は…?」
「身体ガッチガチ。そんなんじゃ何もできないよ。まあ十分恥ずかしがってたし、お仕置きにはなったけど」
「……な…な…!」
六つも年下の男の子に手玉に取られてしまったことへの情けなさや不甲斐なさ、ほんの少しの怒り、色々な感情がない混ぜになった複雑な気分で、私は少年を見上げた。
彼の表情に先ほどの棘々しさはもうない。
駅の時計を見やり、あと五分で電車くるな、なんてのん気に呟く横顔が恨めしい。
「今日も家来る?」
「…止めとこうかなっ!さっきみたいなことされたら困るし」
今度は私がぶすくれて拗ねる番だった。
腕が外れた隙に素早く距離をとる。
けれど。
「えー…せっかく真奈さんの好きなドリアの材料揃えたのに」
「……」
「デザートに駅前のケーキ屋さんでモンブランも買ったんだけどな」
「………やっぱ、行く…」
大人しく従った私の頭を、ご褒美と言わんばかりに奏斗くんが優しく撫でる。
いいように手なづけられているような気がして釈然としないけれど、甘やかされる心地良さを覚えてしまったら、もう反抗なんてできなかった。
三番線に電車が参ります、白線の内側にお下がりください。とお馴染みのアナウンスが響く。
遠くから電車の走る音が近づいてくる。
頃合を見計らったかのように、隣でいつもより少し低い声が聞こえた。
「真奈さん」
「ん?」
「彼氏がいるのに別の男に抱き締められてあんな顔しちゃ駄目だよ」
「…え……?」
ゆるりと口角を持ち上げ、呟いた奏斗くんは何を考えていたのか。
その言葉は、ホームに滑り込んできた電車の音で聞こえなかったフリをした。