14
木内さんの後に続き、会社の裏の路地を歩く。壁の錆びついた廃屋や、ツタの絡まる家を横目に歩を進めると、道幅がしだいに細くなってきた。
彼女の足取りには迷いがない。おそらく何度も通ったことがある道なのだろう。
「もうすぐだよ。ここを上った先」
こんな辺鄙なところに飲食店などあるのだろうかと、私が不審に思い始めた頃、それまでずっと黙っていた木内さんが振り向いて言った。
道幅はすでに人一人がやっと通れるくらいにまで狭まっている。行き止まりの路地の左側、草が茂る路肩に、ひっそりと小さな階段があるのが見えた。
森林公園なんかでよく見かけるようなその階段は、両側に木の手すりが付いている。
「変なルートだけど、ここからしか行けないんだ」
そう言って、木内さんは友達に秘密を打ち明ける小学生のように笑った。
「こんなところに階段があるなんて、全然知らなかった」
「普通の人は通らない道だもん、当然だよ」
悪戯っぽいその顔に、意外だなと思う。幼い頃の彼女はきっと、おままごとよりも探検や秘密基地づくりに夢中になっていたに違いない。
階段は思っていたよりずっと長かった。風に翻るスカートをものともせずに、軽やかな足取りで進む木内さん。その後を、息も絶え絶えに追う私。
距離が開かないよう必死で足を動かしていると、不意に彼女が立ち止まった。下を向いていた私は、危うく華奢な背中にぶつかりそうになり、すんでのところで踏みとどまる。
「中堀さん、後ろ、見てみて」
「え……?う…わあ」
振りかえった私は、思わず息をのんだ。
いつの間か随分高いところまで来ていたようだ。オレンジから藍へとグラデーションを作る空の下に、ちらほら明かりの灯り始めた街が広がっている。
「いいでしょ。ここお気に入りなんだ」
「うん…すごい。なんか、ドラマみたい」
冷たいからっ風が頬を刺す。けれど、少しも気にならなかった。
私の勤めている会社は、繁華街を少し離れた丘の上にある。駅から遠いその立地を、今までずっと疎ましく思っていた。朝は早い時間に家を出なければならないし、帰るのだって遅くなる。
けれど少し視点を変えれば、こんなにきれいな景色があったのだ。
放心している私に、木内さんがクスリと笑う。
「でも、これで終わりじゃないんだー」
「え、まだ何かあるの?」
「ふふふ、すぐに分かるよ」
楽しげに口角を上げた木内さんは、再び階段を上り始める。幸い今度は息が切れるまでに頂上に辿り着くことができた。
そして、それを見た私は、今度こそ目を丸くして立ちすくんだ。
「わあ…可愛い…」
足元には煉瓦の小道。"WELCOME"と書かれた木の看板。頭上に、星型の葉っぱをした植物が絡まるアーチ。道の先にはこれまた煉瓦づくりの一軒屋が建っている。まるで西洋の絵本にでも出てきそうな光景がそこにあった。
「中堀さんの持ち物見てたらさ、何となくこういう雰囲気のとこ、好きそうだなって思ったの。気に入ってもらえた?」
振り返って微笑む木内さんに、私はこくこくと首を縦に振る。
「隠れ家みたいなお店だね。木内さん、常連なの?」
「まあね。もう五年になるかなー。あんまり人に教えたくないから、いつもは一人で来るんだけど」
暗に、"あなたは特別"と言われた気がして嬉しくなった。
低めのヒールをコツコツと鳴らし、木内さんはのんびりと歩く。
「実はね、ここ、店の裏なの」
「え…!これが裏!?」
「そ。って言っても、表なんてないんだけどね」
「…?」
私は首を捻った。それなら、木内さんが今開けようとしている木製のドアは裏口ということになるんだろうか。表の入り口がないのに?
ドアを開けたそこは、小さな玄関になっていた。目の前に階段がある。飲食店という雰囲気ではない。素材が木であることを除けば、メゾネットのアパートのようだ。
パンプスを脱ぐ木内さんに倣い、私も履き物を脱ぐ。
オレンジ色の間接照明に照らされた階段は、一段上がるごとにキシ、と小さく鳴った。
「ここ、店長一人でやってる店なんだけどね。その人がまたイケメンなんだよー」
惚れちゃわないようにね、と木内さんが小声で耳打ちしてくる。
そして、次の瞬間、こんばんはー!と明るい声を上げた。
「いらっしゃい。その声はきいちゃん?」
「当たりー。さすがだね」
「久しぶりだなあ。最近忙しいの?」
「まあまあね。あ!そうそう今日は嬉しいお知らせー!新しい子、連れてきたよ」
そう言って、木内さんは階段の上がりしなで硬直していた私の手を引く。
「職場友達の中堀さん!うんと美味しいの作ってあげてね」
木内さんのその声を合図に、奥のキッチンに向かっていた長身の背中が、ゆっくりと振り返る。
少し長めの襟足を後ろで一つに結わえ、紺色のエプロンをつけたその人は、木内さんの言ったとおり整った顔立ちをしていた。
切れ長の目に、スッと通った鼻筋。薄い唇。
「う、そ…。奏斗くんの…叔父さん……?」
「ああ、どこかで見たことがあると思ったら、この間の子」
「え!?二人、知り合いだったの?」
目を見開いて硬直する私たちの間で、木内さんだけが忙しなく視線を行き来させる。
叔父さんは、駅で出会ったときと、随分雰囲気が変わっていた。
以前はスーツで、髪もきちんとセットしていたが、今は着古して伸びきったニットに、洗いざらしのジーンズというラフな格好。髪もボサボサだ。
変わっていないのは、中世の貴族を思わせるような落ち着いた空気感だけ。
「ぐ…偶然ですね」
「本当だな。まさか奏斗の知り合いがきいちゃんの仕事仲間だったなんて」
「奏斗くんて、拓海さんの甥っ子だったっけ。中堀さん、どうして知ってるの?」
「あ、うん。前にたまたま……痴漢にあってたのを助けてくれたの。それだけだよ」
木内さんの問いかけに、私は不自然に震える声で答えた。
誘ってくれた彼女には悪いけれど、今すぐここから逃げ出してしまいたい気分だった。
目の前の女が未成年の甥をたぶらかす浮気娘だと知ったら、叔父さんはどう思うだろう。そう考えると、作り笑顔も引きつってしまう。
深く突っこまれませんように、と私は心中でひたすら祈った。それが通じたのか、木内さんは「世界って狭いんだねー」と感慨深げに言っただけで、さっさとメニューに手を伸ばしてくれた。私も熱心にそれを眺めるフリをする。
木内さんは煮込みハンバーグ定食を、私はデミグラスソースのオムライスを頼んだ後、再び雑談が始まった。合間にさりげなく店内を観察すると、外観から想像していたよりも、中はずっとシンプルだということに気付く。
木の椅子と、机が数組置いてあるほかにインテリアらしきものはない。部屋の隅に観葉植物が一つ置かれているだけだ。
私たちが入ってきた入り口側の壁には、大きめの窓が二つ。反対側に窓はない。むき出しの木の壁が広がるばかりだ。
「ねえ、あっち側はどうなってるの?」
窓のない方を指差して木内さんに訊ねると、
「普通に住宅街だよ」
という簡素な答えが返ってきた。
「ここに来るにはあの階段を上ってくるしかないんだ?」
「そういうことになるね」
「ふーん、良いお店なのに、ちょっと勿体ない」
町外れの丘の上のさらに上。しかも入り口はあそこ一つ。一般客にはさぞかし分かりづらいことだろう。
イケメン店長の経営する、異国の民家のような可愛い庭のあるお店。少し工夫すれば、すぐに人気が出そうなのに。
「それじゃ駄目よ」
ポツリ、と呟いたのは木内さんだった。
それが、店が繁盛することに対して向けられた言葉だと理解するのに、少しの時間がかかった。
彼女は私の方を見ずに続ける。
「ここは、お得意様だけのためにあるお店なんだから」
「お得意様…だけ?」
「そう。私とか、中堀さんとか。他にも何人かいる、この店の"お得意様"」
意味深な笑みを浮かべた木内さんに、私は焦った。
木内さんは常連かもしれないが、私は二度とここに来るつもりはない。奏斗くんとはもう関わらないと決めたのだ。彼の身内が経営するお店になんて、来ないほうがいいし、来たくもない。
しかし、私が反論するより早く、木内さんは「できたみたいだよ」と、嬉しそうに頬をほころばせた。叔父さんの手によって、大きな木のお皿が目の前に置かれる。
触れればトロリと蕩けてしまいそうな半熟卵と、濃厚そうな香りを放つソース。思わず、こくん、と喉が鳴った。
とろとろのそれを一口頬張れば、ほっこりと安心する味が広がった。
「口に合った?」
「はい。すごく美味しいです」
カウンター越しに訊ねてくる叔父さんに、私は素直な感想を述べた。
何だか、懐かしい味。
家庭的で、手作り感に溢れていて、食べる人のことを考えて作りましたって感じの。
「あ…そっか。奏斗くんが作ってくれるご飯と同じなんだ…」
気がつけば、そんなことを口走っていた。
私の独り言を聞いていた叔父さんは、驚いたように目を丸くし、少しだけ表情を緩める。
「奏斗に料理を教えたのは俺だからな」
「叔父さんが…?」
「そ。しかし驚いたな。アイツが誰かに手料理を振舞うなんて」
「え…?」
叔父さんは、布巾でカウンターの周りを拭きながら、くつくつと面白そうに笑った。
「いや、アイツ、嫌いなんだよ。人の目があるところでモノを食うの。メシに誘ってもついてきた試しがない。まあ…それだけ真奈ちゃんには気をゆるしてるってことかな」
「……」
何と言って良いのか分からず、私は目の前の男性から目を逸らした。
奏斗くんとは、何度も一緒に夕飯を食べた。身内とですら嫌がる時間を、私と一緒に過ごしてくれていたのだ。
たったそれだけのことなのに、条件反射のように鼓動が加速した。いい年をして、中学生の片想いみたいだ。
オムライスをひとすくい、口に入れる。
――恋しい。
奏斗くんの作ったご飯が食べたい、と思った。