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「じゃ、私そろそろ帰るね」

 食事を終えた木内さんが立ち上がった。その拍子に、彼女が使っていた木の椅子がカタンと小さく鳴る。

「あ、じゃあ私も…」
「中堀さんはもう少しゆっくりしてけばいいよ。拓海さんと知り合いなんでしょ?ごめんね、もうちょっといるつもりだったんだけど、急用が入っちゃって」

 申し訳なさそうに眉を下げて微笑まれたら、それ以上何も言えなくなった。

「じゃ、また明日会社で。ご馳走さま」

 最後の言葉は叔父さんに向けられたものだろう。木内さんはさりげない動作で伝票を取ると、遠慮する私を制して二人分の勘定を支払い、出て行った。
 また今度中堀さんのオススメのお店で奢ってくれればいいから、という台詞を残して。

 叔父さんと二人きりになったとたん、急に沈黙がよそよそしくなった。
 無意味に携帯をいじるフリをする。こういう時、もっと社交的だったら気の利いた世間話もできたかもしれないのに。
 とっくに空になっていた私のお皿を下げた叔父さんは、再びこちらに背を向け、洗い物を始めた。


「遠いとこまで通ってるんだね」
「え?」
「仕事。真奈ちゃんの家、ここからかなり西の方だろ?」

 こちらを見ずに話す彼に不意をつかれた私は、驚いて顔を上げる。
 シンクに向かい、手際よく手を動かす広い背中が目に入った。後ろで纏められた襟足が小さな尻尾みたいでチャーミングだ。

「この間、奏斗と同じ電車に乗ってったから、何となく家も近いんじゃないかと思って」
「あ、そうです。最寄駅が同じなんです、奏斗くんと」
「真奈ちゃん、実家?」
「いえ、アパートで…」
「そりゃまた、随分会社から離れたとこを選んだんだな」
「あー…まあ。気に入っちゃって…」

 私は内心、またか、と溜め息を漏らした。
 同じようなことを言われたのは初めてではない。住んでいる場所を言うと、皆が決まって不思議そうにする。どうしてそんなに遠い場所を選んだのか、と。
 本当は嘘なんてつかずに、同棲しているからです、と胸を張って言ってしまいたかった。しかし、籍も入れていない男女が一つ屋根の下で居住しているという事実を、はいそうですかとすんなり受け入れてくれるほど世の中はフランクではない。


「あの、どうして"きいちゃん"なんですか?」

 沈黙が辛くなり、先ほどから疑問に思っていたことを訊いてみる。確か、彼女の名前に"き"は付かなかったはずだ。

「"木内"の"き"で、きいちゃん」
「へえ、苗字からきてたんですね」
「真奈ちゃんもあだ名の方がよかった?」
「いや、そういうわけじゃ…」

 会って二回目で名前にちゃん付け。どうも、この人の感覚にはついていけない。
 馴れ馴れしいとか引かれるとか、そういう考えがないのだろう。そういえば奏斗くんも、出逢ったときからそうだったな、と思い出す。
 私のことを"真奈さん"と呼び、"才木くん"と返した私に名前で呼べと言った。
 大きな瞳と色素の薄いくせっ毛も手伝い、懐っこい犬のようだと思ったのを覚えている。もっとも、彼のの世界に踏み込んでいくにつれ、そんな可愛らしい第一印象など、いともあっけなく崩れ去ってしまったが。


「それはそうとさ、その"叔父さん"っての、やめてくれないかな」
 片付けを終えた長身がこちらを向く。
「自分の中ではまだオジサンなんて歳じゃないと思いたいんだけど」
「あ、そういうことですか…!ごめんなさい!」

 呼び方のことを言われているのだと分かるまでに、少し時間がかかった。理解したとたん、何とも言えない申し訳なさに襲われた。

「叔父さんっていうのはそういう意味じゃなくて、あの、"奏斗くんの"叔父さんっていうニュアンスだったんですけど…ごめんなさい…」

 しゅんとうな垂れる私を、叔父さんは優しい目で見下ろした。彼は声を出さずに笑い、「俺のことも良ければ名前で呼んでほしいんだけど」と言った。思っていたよりずっと自然な、柔らかい声で。

 コト、と控えめな音がした。目の前にオレンジ色のジェラートののった皿が置かれている。驚いて顔を上げると、切れ長の目と視線がぶつかる。サービスだよ、と薄い唇が微笑む。


「奏斗のこと、よろしくな」
「え?」
「いや、アイツ、真奈ちゃんにえらく惚れこんでるみたいだから」
「…!…そんなこと…」

 ない、とは言い切れない。私は唇を噛んで下を向いた。

「アイツが家族以外を部屋に入れるなんてなぁ。恋人は今までにも何人かいたみたいだけど、多分真奈ちゃんが初めてだよ」
「……」
「奏斗のこと嫌いじゃないなら、前向きに考えてやって」

 穏やかなトーンでそう言いつつ、紺色のエプロンを外す節ばった手。

「でも…」
「でも?」
「奏斗くんは高校生ですよ?叔父さ…拓海さんは身内としてそれでいいんですか?六つも年上の、素性も知れない女との交際を勧めるなんて…」

 社会的にはあまりないケースだと思う。私と遼介の同棲じゃないけれど、世間体を気にするなら決して勧めはしない選択。
 自分で言ったことなのに、"六つも年上"という事実がズシンと背中に圧し掛かる。私が大学生の時、彼はまだ小学生だ。少し、いやかなり犯罪の匂いがする。考えれば考えるほど、常識外れな気がしてならない。
 私は難しい顔をしていたのだろう、キッチンの椅子に腰掛けてこちらを向いていた拓海さんが、プ、と小さく吹き出した。

「俺じゃなくて真奈ちゃんの気持ちが問題なんだよ」
「私の気持ち…」
「まだ若いんだからさ、年上とか年下とか気にしなくていいと思うけどな。そんなこと考えて自分を偽ったって寂しいだけだろ」

 拓海さんのその言葉は、ストンと胸に落ちてきた。世間的にはどうとか、奏斗くんのためにとか、余計なものの一切付加されていない、率直な意見を言ってくれているような気がして。


「難しく考えなくてもさ、自分が誰を必要としてるかって、結局自分が一番よく分かってるもんだよ」
「自分が一番…ですか」
「そ。痴漢から助けられたのが、奏斗との出会いだって言ってたよな?その日っきりでアイツとの関係が終わらなかったのは、偶然じゃないんじゃない?」

 奏斗くんと頻繁に会うようになったのはどうしてだったっけ、と思い返してみる。
 確かに最初は、その場限りの関係だった。正義感の強い少年だな、と第三者的な目で彼を見ていた。
 だが、何の因果か、私は少年と再会した。
 ここまでは、偶然。
 奏斗くんからDVDを観ようと誘われたのもたぶん、偶然だったのだろう。
 けれど、それに賛成したのは紛れもなく私の意思だ。

 思えばこのときから、私はすでに彼に惹かれ始めていたのかもしれない。
 それがまだ恋と呼べるものではなかったにしても。


 拓海さんにジェラートのお礼を言い、部屋を出た。
 階段を降り、靴を履き、木内さん曰く"裏口"のドアを開け、外に足を踏み出す。すっかり日の落ちた庭では、煉瓦の道やアーチがオレンジ色の照明にほんのりと照らし出されていた。

 お洒落で可愛らしい風景。
 けれど、今はなぜだか、それが酷く現実離れした、よそよそしいものに思えてならなかった。






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