19
電車で二駅分の距離を手をつないで歩いた。
防寒と呼べるものはコートしか身につけていない奏斗くんに、私は右の手袋を貸してあげる。奏斗くんの手は、私の手を簡単に包み込めるくらい大きかった。
子どもなのに、とはもう思わなかった。
「電車だとあっという間だけど、歩くと意外に遠いんだな」
真っ黒な空からみぞれに代わって牡丹雪が落ちてくる。ふわふわと舞う白い塊は、コンクリートの地面に吸い込まれるように消えていく。
「積もるまではいかないかな」
白い息を吐き空を見上げた奏斗くんは残念そうだった。
「積もってほしいの?」
「だって、きれいじゃん。朝起きたら窓の外が真っ白になってんの、ちょっと感動しない?」
「ええー面倒なだけだよ。寒いし靴に染みてくるし電車は遅れるしさ」
「ちぇ、夢ないなー」
端整な横顔が唇を尖らせる。
私も彼くらいの頃は雪が降るたびにはしゃいでいたな、と、たった数年前なのに随分と昔のことのように思った。
効率優先主義でしか物事を考えられなくなったのは、いつからだっただろうか。
居酒屋の灯りがポツポツと消え始め、街路から人が消えていく。
奏斗くんは私にたくさん質問をした。小学校の運動会の話、恥をかいたエピソード、実家の父と母のこと。今まで全く興味がなさそうにしていたことをたくさん。
お陰で、駅二つ分の道のりは、あっという間だった。
久しぶりの豪華なエントランスを横切り、促されるままにエレベーターに乗る。
靴も脱がずに玄関に立ち尽くしていると、はい、とバスタオルが渡された。
「お風呂沸いてるから。先に入って」
「でも、奏斗くんは…」
「俺は平気。着替えて待ってるよ。あ、一緒に入りたかった?」
「え!や、そ…そういうことじゃ…」
しどろもどろになった私に、奏斗くんは盛大に吹き出した。
いつもなら歯が立たないなりに少しは言い返している。しかし気持ちがどん底まで落ちている今日は、そんな余力さえなかった。
「ボロボロのくせに気い遣わなくていいから。温まったら少しは落ち着くよ」
言われてみれば、体はすっかり冷え切っている。ここは素直に好意に甘えることにした。
熱いシャワーを浴びお湯につかると、ささくれていた気持ちが少しだけほぐれる。
しかし、アルコールが抜けたせいか、ついさっき突きつけられた現実が、胸をえぐるようにフラッシュバックした。
遼介の一番近くにいるのは、私じゃなかった。
たぶん、もうずっと前から。
「真奈さん、着がえここに置いとくね」
不意打ちで脱衣所から聞こえた声に、私は飛び上がった。反射でありがとう、と答えてから、涙声を悟られなかったかと息を殺す。
頬っぺたまでお湯に沈み、外の気配を窺った。
と、何の前触れもなく浴室のドアが開いた。
「きゃ…!なに!?」
「頼むから…!」
奏斗くんは、取り乱す私を鎮痛な面持ちで見据えていた。
「ひとりで泣くなよ…。何のために俺がいるの?」
堪えていた熱い塊が喉元にせり上がり、一気に弾けた。
そんな風に辛そうな顔をしないでほしかった。いつも通り悪戯をけしかけて、あの憎たらしいけれど可愛らしい顔で笑ってくれればいいのに。
「やだなあ…もお……なんで、奏斗くんのほうが…っ泣きそうなの」
振られたのは私なのに。
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、笑顔が零れる。辛いときに優しさに触れると、ことさら泣けてくるのはどうしてなんだろう。
「ふっ…へんなカオ」
「誰の、せいよっ」
「へえ、俺のせいだって言うなら出てってくれてもいいんだけど」
ここにきて、魔性の笑顔復活である。
「朝まで愚痴に付き合ってあげようと思ってたのに、残念だなあ…」
しゅん、としおれる仕草はかなりのリアリティだ。それはもう舞台役者並みなのだからタチが悪い。演技だと分かっていても騙される。いや、騙されてもいいと思わされる。
私が出てからシャワーを浴びた奏斗くんは、ホットミルクを作ってくれた。ほどよい温度のそれをゆっくりと飲み干し、二人でベッドに入る。
別々に寝るという選択肢はにべもなく却下された。
寝具が一組しかなく、本格的な冬に突入した今、ソファで眠った方は確実に風邪を引くというのが理由の一つ。
「うさぎより寂しがりのくせに何言ってんの。真奈さんがひとりで眠れるわけないじゃん」
当然のように二つ目の理由を挙げた奏斗くんからは、私への呆れや同情といったものは一切感じられなかった。
「すげー柔らかい髪」
「…私のこと、子どもみたいに思ってない?」
よしよしと頭を撫でる掌に抗議すると、彼はふっと小さく吹き出した。
「年じゃ絶対敵わないんだから、こんなときくらい上でいさせてよ」
「…失礼ね。どうせ奏斗くんから見たらおばさんだもん」
「そういうことじゃなくてさ」
年の差を意識した言葉には、気付かない振りをした。適当にはぐらかさないと、踏み越えてはいけない線を越えてしまいそうだった。
奏斗くんは、何も聞かなかったし、言わなかった。
そのほうがかえって弱音を吐きやすいということを、分かっているのかもしれない。
白み始めた空が窓から覗くころ。
泣きながら話すことに疲れ、私が眠りの底に落ちるまで、彼はずっと起きていた。
起きて、長い腕で私の背中を包んでくれていた。
まどろみの中で、彼と出会った日の夢を見た。
雲ひとつない青空の下。いつもは電車で通り過ぎるだけの、駅のホーム。
痴漢から庇ってくれた不思議な少年の瞳に、目を奪われる。
あの日のように、深い双眸がこちらを見つめ返す。
『俺は才木奏斗』
澄んだ笑顔で名乗った彼に、私はずっと不思議に思っていたことを訊ねてみた。
『どうして、いつも助けてくれるの?』
知りたかった。少年は私の感情の機微をすべて分かっているみたいだった。傍にいてほしい時には必ず現れ、上手に傷を癒してくれる。今回だって。
『どうして…私のいる場所、分かったの?』
少年は何も答えなかった。
代わりに、笑った。
けれど、その笑顔は先ほどとは違う、暗く悲しい微笑みだった。
あ、と思ったときには、彼の姿は青い空に溶けて消えた。
手を伸ばす暇もなかった。
人のいない駅のホーム。私はその場でうずくまり、声を殺して泣いた。