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 アパートに戻ったのは、何度もかかってくる遼介からの電話に後押しされたからではなかった。
 私は、「真奈さんがそうしたいなら、いつまででもいて構わない」という奏斗くんの言葉に、とことん甘えてしまうつもりだった。
 まさか、待ち伏せされているなんて思ってもみなかったのだ。

 散々な週末が明けて月曜日。仕事帰りにとりあえずの身の回りのものを持ち出そうとアパートに帰った。定時退社して着いたのは夜七時ごろ。遼介は日々残業に追われているから、この時間にはいないだろう。そう高を括っていたのが、そもそもいけなかった。


「…何…してんの」

 遼介は、部屋にも入らず玄関脇の壁にもたれ、携帯をいじっていた。
 マフラーにニット帽。防寒はしっかりしているけれど、当然ながら吐く息は白い。

「待ってた。部屋の明かりつけてたら、オマエ引き返すかもしれないし」
「だからって……今十二月だよ?」
「一緒に住むのやめるにしても、さすがにこの家にあるもの全部捨てることはないだろ。だったら今日あたり帰って来ると思って」

 "一緒に住むのやめる"と言い切られ、少なからずショックを受けている自分に気がつき愕然とする。この期に及んで、別れないでくれと縋られることを期待していたなんて。

「彼女と、いつから?」
「初めて会ったのは六月。うちの会社にインターンで来てた。最初は全然意識してなかったんだけど、話したらすげー気が合って、素直ないい子だったんだ。オマエもいるし諦めようと思ったんだけど…無理だった。本当、ゴメン」

 早口で言い切った遼介は、私から一度も目を逸らさなかった。
 このまま口を挟まなければ、頼んでもいないのに彼女との馴れ初めを事細かに説明されそうだったので、私はもういいよ、と短く吐き捨てた。

「浮気したの、何か理由があったんでしょ?」

 恋愛関係にだらしない人ではない。それは四年の付き合いで十分すぎるほど知っている。

「付き合うのはオマエと話をつけてからって、俺が頼んでた。だけどあの日は…酒の勢いからか志乃が妙に積極的で、俺も拒否できなくて。…って、今となってはこんなこと言い訳でしかないけどな」
「私に気つかわないでよ。好きなんでしょ?あの子のこと」

 腫れ物にさわるような扱いは逆に辛くさせると気付いたのか、遼介は伏せていた眼を上げ、真っ直ぐに私を見据えた。


「好きだよ。めちゃくちゃ、好き」


 やっぱり、ね。
 もっと早く、気付けていれば良かったのに。

「……そ。じゃあもう、バイバイだね」
「…待って」
「なに」
「俺は、楽しかったよ。オマエと一緒にいて」

 完全に不意打ちだった。じわりと瞼が熱くなり慌てて俯く。
 別れたくない、と喉まで出かかった言葉を何とか押しとどめ、かわりに訊ねた。

「…私のこと、本気で好きだった?」

 痛いくらい唇をかみしめて、無理やり口角を上げようとする私の顔は、多分すごく滑稽だったと思う。
 それでも、別れ際の恋人にみっともない顔を晒してでも、これだけは訊いておきたかった。


「…好きだったよ。真奈のこと、大好きだった」


 遼介は悲しげな微笑を浮かべて言った。
 私が泣き顔を見られたくないと思っていることに気付いたのだろう。あえて部屋には戻らず、足早にアパートの階段を降りていく。
 荷造りをしながら大泣きするであろう私に配慮してくれたのだ。最後まで気の遣える恋人だなあ、と他人事のように思う。


 志乃への言葉とは違い、私に向けられたのは完全に過去形の台詞だ。
 それでも、最後にはちゃんと名前を呼んでくれた。

 それだけで、もう十分だ。







 ドアフォンを鳴らすと、バタバタという騒々しい足音とともに間髪入れず家主が飛び出してきた。

「はー…良かったー」

 心細げな顔が、私を見るなりふにゃりと崩れる。

「帰ってこなかったらどうしようかと思った」
「心配しなくても他に行くあてないよ」
「いや、真奈さんのことだから、まだ気持ちに整理がついてないからとかで、俺のこと避ける可能性もあるし」

 ギクリとした。ブーツのチャックを下ろしていた手が止まる。
 実のところ、ここに来るかどうか散々迷った。優実の家は彼氏が頻繁に出入りしているので、世話になれるのはニ、三日が限度だし、新しい部屋が見つかるまでネットカフェに寝泊りはさすがに辛い。
 だから、これはやむをえない選択なんだ、と言い聞かせる。


「ねえ、ここに来たからには、弱ってる隙につけこまれていいってこと?」

 その辺のアイドル顔負けの可愛らしすぎるスマイル。一瞬ためらって、私は小さく首を縦に振った。
 恋人と別れてなお、自分の足で奏斗くんのところを選んだ。
 やむをえないというのは嘘で、本当はただ会いたかった。

 私よりもずっと大きな手が優しく頭を撫でてくる。
 奏斗くんは、昨日から私に何もしてこない。そっと抱き締めたり、手をつないだり、頭や背中を撫でたり、髪を梳いたりするだけ。ペットか何かにでもなった気分だ。

 キャリーバッグを置くなり、服の裾がつん、と引っぱられた。
 ソファに座った奏斗くんが上目遣いで見つめてくる。ほんとにもう、男にしておくにはもったいないくらい可愛い。
 結局私はされるがまま、彼の膝の上に乗せられてしまった。


「私、嫌な女だよね」
「どうして?」
「独りになりたくないから、奏斗くんの気持ち利用してるんだよ。好きって言ってくれてるのに甘えてさ。遼介に全く未練がないかって訊かれたら、たぶんそうじゃないのに」
「利用されていいって俺言わなかったっけ?」
「でも……自分で言うのも変だけどさ、こんなの……っん…!」

 最後まで言わせてもらえないまま唇を塞がれた。
 あっという間に反転した身体が、柔らかなソファに沈みこむ。
 苦しくなって口を開けると、そこから舌を入れられた。息もできないくらい荒々しいキスは、どこか掴みどころのない普段の奏斗くんからは想像もできない。

「…あ…ぅ……ふ…」

 除々に思考に霞がかかり、罪悪感が薄れていく。
 くたりと力が抜けた身体をソファに埋めたまま、私は奏斗くんを見上げた。
 彼の形の良い唇が、ゆっくりと弧を描いた。

「本当、びっくりするくらい真っ直ぐだな」

 ぞくりと竦みあがってしまうほど、低く掠れた声。
 笑顔なのに、どこか棘があるように思えるのは気のせいだろうか。

「浮気されて別れたのに、気持ちがまだ執着してるの、バレバレ」
「…そんなの…当然じゃない。長い間ずっと二人でいたのに、簡単に忘れろっていうほうが無理だよ」
「そういうんじゃない。何で怒らないのかってことだよ。彼氏の気持ちが離れたの、自分だけのせいだって思ってるだろ。自分が繋ぎとめておけなかったのが悪い、もっと魅力的になるよう努力してれば、ってさ」
「……っ」

 痛い指摘は的を射すぎていて、返す言葉が見つからない。
 あの日居酒屋で、遼介と志乃のラブシーンを目の当たりにしたときは確かにショックだった。けれどどこかで、いつかこんな日が来るのではないかと予感もしていた。
 大勢でわいわいやっているときの遼介は、私と二人でいるときよりも何倍も輝いていて、楽しそうだったから。
 悔しいけれど、仕方ない。遼介は悪くない。むしろ、はぐらかさずにちゃんと別れを告げに来る潔さは、彼らしくて見直した。

「普通浮気されたらさ、不誠実だとか節操がないとかめちゃくちゃにけなすもんじゃない?真奈さんは自分ばっかり責めすぎ。別れても、真奈さんの一番はまだアイツなんだよ」

 私の顔の両側に腕をついたまま、奏斗くんは唇をとがらせた。
 そんなことない、と言い返すより先に、でも、と彼が被せる。


「そのポジション、絶対俺が奪ってやるから。覚悟しとけよ」


 ああもう。ずるい。
 大人のように要領よく立ち回るかと思えば、突然感情を剥き出しする。こっちの内面はお見通し。本当に、いいように振り回されっぱなしだ。
 悔しいので、一番のポジションがすでに半分以上奪われ始めていることは当分秘密にしておくことにした。


 私はこのときすでに、魅力的だけれど、どこか危険な匂いのするこの子に、完全に堕ちてしまっていたのだ。







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