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「俺の顔、何かついてる?」

 目の前に座る美少年は手を止め、小さく首をかしげた。

「え、あ、いや…なんでもない!ごめん、ぼーっとしてて」
「ふーん…ぼーっと?」
「そ、そう。どうぞ予習続けて。明日授業で当たるんでしょ?」
「うん、ヒマだったらテレビつけていいよ」

 普段は音楽を聞きながら勉強するらしい奏斗くんである。殺風景な部屋のすみにポツンと置かれたオーディオから、流行りのJPOPが流れている。大人びていても好きな曲は今時の高校生だ。

「ありがと、でも大丈夫だよ」
「そう?もう少しで終わるから、そしたら一緒に夕飯作ろっか」

 問題を解いていたときの真剣な表情から一転、いつもの極上スマイルに、私の頬も自然と緩んだ。
 奏斗くんは、サボり癖があるだけで成績は悪くないらしい。上級問題と書かれたページでも、手を止めることなくスラスラと解答を記入していく。
 容姿端麗成績優秀。もし高校時代、同じクラスに彼のような人がいたら、絶対にお近づきにはなれないだろう。



 ――どんなことがあっても?

 私が最後に拓海さんと会った日から一ヶ月近くが過ぎていた。
 奏斗くんとの毎日は相変わらず楽しくて幸せで、だけど、拓海さんの言葉は未だに胸の奥に引っかかっている。


「…奈さん、真奈さん?」
「は、はいっ!」
「終わったよ?ごめん、退屈だったっしょ」
「ぜ、全然!じゃあ、ご飯!作ろっか」

 慌てて立ち上がろうとした私の腕が、ぐん、と引かれた。
 バランスを崩しローテーブルに乗り出すような格好になる。奏斗くんの手が、頭の後ろにまわる。
 身構える間もなかった。ちゅ、と触れるだけのキス。

「ごちそうさま」

 ペロ、と唇を舐める仕草に、ドキリと心臓がはねる。

「…な、な、びっくりした…!」

 奏斗くんはくつくつと可笑しそうに肩を揺らした。

「可愛い反応。キスなんてもう何回もしてるのに」
「か…奏斗くんが、いきなりだから。驚いて当然でしょ!」
「ふーん。じゃ、今度は断ってからにするから、もっとすごいのしていい?」
「……それも…困るけど……」

 お願いだから、そんな無邪気な顔で意地悪を言わないでほしい。でないと顔が、さながら瞬間湯沸かし器のようになってしまう。

 耐え切れずに目を伏せると、奏斗くんの大きな瞳が、獲物を捕える肉食獣のようにスッと細まった。頬に、彼のひやりとした掌が触れる。


「今」
「…え?」
「したい」

「え!?ちょ…待っ…!」

 静止の声はそのまま呑み込まれた。

「…ん…っ…ちゅ…ん……ふ……」

 がぶりと噛み付くように唇が合わさる。
 とくとくと身体の中心から熱いモノが溢れてくるみたい。力が抜ける。
 崩れそうになった私を、テーブルに片膝をついた奏斗くんが支えてくれる。
 生理的な涙が、一筋頬を伝った。


「困るって言ったくせに…そんな顔するなよ」
「そんな…て……ど…んな……ん」

 聞き返した声は、再び奏斗くんの唇に呑み込まれた。







 日を追うごとに、あの日の言葉が気になりはじめ、私はぼんやりと考え事をすることが増えた。拓海さんにからかわれているだけだと、無理やり自分を納得させるには、奏斗くんには謎が多すぎた。

 思いかえせば、出会い方から非日常だった。痴漢から助け出してくれたヒーローと恋に落ちるなんて、まるで少女マンガの王道だ。そんなことが現実に起こるなんて。

 パソコンのキーを叩く手が止まる。
 付き合い始めてからも、相変わらず奏斗くんは自分のことを話さなかった。
 もちろん、知られたくない過去なら誰にでもある。そんなことまで言ってほしいとは思わない。けれど、普段の学校生活のことまではぐらかされてしまうのでは、全く信用されていないみたいだ。

 私は一つ息を吐き、デスクを立った。
 こんな状態では仕事に身が入らない。頭を冷やさなければ。

 職場の自販機で缶コーヒーを買い、一気に半分ほどを飲み干す。
 と、ぽん、と横から肩を叩かれた。

「どうしたの?ここんとこ、ずっとぼーっとしてるみたい」
「…木内さん…」
「課のみんなも何人か気付いて心配してたよ?」

 拓海さんの店で食事をして以来、彼女とはたまにランチやディナーを共にしている。

「実は、ね」

 相手が高校生であることは伏せ、簡単に経緯を説明する。黙って聞いてくれていた木内さんは、私がすべてを話し終えると、なんだそんなこと、と言ってからりと笑った。

「一度彼を尾行してみればいいんじゃない?」
「…え?尾行…?」
「そ。平日一日だけ有給取ってさ、彼を見張るのよ。で、次の日それとなーく聞いてみるの。昨日何してたの?って。一つでも嘘が混じってたらその行動が怪しいってことだし、包み隠さずホントのことを言ってくれれば、中堀さんの不安もなくなる。どう?じっと悩んでるだけよりはいいんじゃないかな」

 これぞ名案と言わんばかりに自信たっぷりに提案されると、あたかもそれが最善の策のように思えてくる。

「そっか…。そうかも…!それで不安がなくなるなら…」
「そうそう。悩むより行動だよ。ちょうど明日は金曜だしさ。思い立ったが吉日、今日にでも有休願い出しちゃおうよ!」




 そんなこんなで私は今、マンションから出てくるであろう奏斗くんを待ち伏せしている。
 今朝はいつもと同じ時刻に、会社に行く格好で家を出てきた。奏斗くんに疑っている素振りはなかったので、ここまでは順調だ。

 急いで近くのコンビニに入り、仕事着からカジュアルな格好に着替えた。服装を変えるだけで格段にばれる確率が下がる、と木内さんから助言をもらったからだ。
 彼女がどうしてそんなことを知っているのかは疑問だったが、推理小説か何かで読んだのだろうと勝手に結論づけた。そういえば、本が好きだと言っていた気がする。


 電柱に隠れてマンションの入り口を凝視している私を、通勤途中のサラリーマンや自転車に乗った学生が物珍しげに眺めていく。

 私が一般人の視線に耐え切れなくなってきた頃、ようやくターゲットが姿を現した。
 制服の上にコートをはおり、首にはマフラー。ipodを操作しポケットに入れた後、イヤフォンを耳に装着。

 最初は奏斗くんの背中がいつ振り返ってこちらを見るかとビクビクしていたが、慣れてくれば尾行は意外と簡単だった。
 通勤の時間帯、道路の人通りは多かったし、以前学校帰りに会っているので降りる駅は分かっている。
 加えて彼の容姿は人ごみでもひときわ目立つ。見失う心配もなかった。


 高校の最寄駅の改札を抜け、やはり思い過ごしだったと私が安堵しかけた、その時だった。

 奏斗くんは駅前の通りには出ず、駅の中にあるスターバックスに入っていった。

 お得意のエスケープか。
 少し迷ったが、帽子を深く被りなおし、時間差で後に続く。私は、彼が座った窓際のカウンターからは死角の、テーブル席に腰を下ろした。
 念には念をと、私は前日に買った伊達メガネをかけ、髪を後ろで一つに結わえて帽子の中に入れた。


 尾けられているとも知らず、マフラーを取った奏斗くんは、なにやら真剣な顔で携帯をいじっていた。かと思えば、おもむろにそれを耳に当てた。

「……ああ、……のスターバックス……」

 周りの雑音のせいで途切れ途切れにしか声が聞こえない。

「……わの席……そう、……」

 たぶん、居場所の説明をしている。
 だとすれば、誰かと待ち合わせか。誰だろう。


 どく、どく、と心臓の音がやけにうるさい。

 根拠はないけれど、なぜかとてつもなく悪い予感がした。
 今頃になって、尾行なんてするべきじゃなかったのかも、と後悔の念に苛まれる。

 秘密があっても、謎に包まれていてもいい。奏斗くんが自分から話そうと思ってくれるまで待てばいいだけじゃないか。
 私が彼を好きなことに変わりはないんだから。


 しかし、後悔したときにはもう遅すぎた。
 私が立ち去ろうと腰を上げたとき、奏斗くんの背中に白いコートの女性が声をかけた。

 どこかで見たことがある。
 いや、見たことがあるなんてものじゃない。

 化粧や服装が以前と全く違っていて、ぱっと見は別人。
 だけど、見間違えるはずがなかった。あれは――


 安形志乃。
 奏斗くんの待ち合わせの相手は、遼介の浮気相手だった。






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