26
マンションに帰り着く頃には、夜の九時を回っていた。
「……なんで」
漂ってきたのは食欲を刺激する香り。無人のはずの部屋の玄関に揃えられている靴を確認し、奏斗くんが呻いた。
「なんでいるんだよ…!」
「随分だなあ。夕飯まで作って待っててあげた叔父に向かって」
「今さら嘘の肩書き出すな。待っててくれなんて頼んだ覚えはない」
精一杯むくれて吐き捨てながらも、彼の顔には隠し切れない嬉しさがあった。
「あ、私が鍵かけずに飛び出してきちゃったから…」
「そういうこと。無用心な家を守ってあげてたんだから、感謝の一つこそあれ暴言吐かれる覚えないんだけどなー」
ぐ、と言葉に詰まった奏斗くんは、不本意絶頂で渋々助かったよ、と呟いた。
夢の国大ファンの私は、せっかくだから楽しんでいこう、という彼の提案に一も二もなく飛び乗ってしまい、家が無人であることなんて頭からすっぽ抜けていた。
「その様子だと、うまくいったんだ?」
別れないと啖呵を切って家を飛び出してきたのはつい数時間前である。
「もちろんです。おあいにく様ですね」
わざと勝ち誇ってやったのに、拓海さんは静かに微笑んだだけだった。
もしかして。
私と奏斗くんを試したのか。お互いの気持ちが本物かどうかを。
奏斗くんの素性を知ってなお、それをひっくるめて好きでいられるか。奏斗くんが、私と逃げずに向き合うことができるか。
愛情に欠乏した人は、愛情を手に入れるのを怖れる。それは、失くしたときの寂しさを知っているからこそ。
「あ、そうだ奏斗。オマエはもう組織にはいらない。明日からは平凡に高校生らしくやってけ」
あっさりすぎる解雇宣言だった。拓海さんは着けていたエプロンを取り、代わりにコートを羽織る。そのままブーツに手をかけたので、私は慌てた。
「ちょっと、待ってください。一緒に食べないんですか?」
「仲睦まじいカップルに挟まれて食事をする趣味はないから。目の前でいちゃつかれても困るしね」
「そ…んなこと!しませんから!」
と、全否定しておいて内心だけで、いや言い切れないかも、と付け足す。
必死の捜索活動にまぎれて忘れていた昨夜の情事。奏斗くんの低く甘ったるい声がリアルに思い起こされ、赤面にも拍車がかかる。
「まあ、こんなんでも俺なりのせめてもの償いだから。受け取っといてよ」
拓海さんは、困ったような、しかし少し照れているようにも見える笑みだ。
"償い"は遼介と引き離された私に対してか、それとも。
「組織に勧誘したことを言ってるなら、受け取れないからな」
食い下がったのは奏斗くんだった。
「俺は自分の意志でオマエについてくことを選んだんだ。別に強制されたからじゃない。今までやってきたことも、後悔してない」
「おいおい、償いってのはそういう意味じゃなくて。いくら自己責任だからって、こんな形でオマエを辞めさせることになったのが」
「嘘つけ」
奏斗くんは拓海さんの謝罪を一刀両断し、ここぞとばかりに畳み掛ける。
「良かれと思って辞めさせたんだろ。俺が組織から離れられなくなる前に。わざと真奈さんを焚きつけてお膳立てまでしてさ。おかしいと思ったんだよ。直々に任務の進捗状況を確認しにきたり、妙に真奈さんに絡んだり」
「あ、やっぱ気付いてたか」
「当たり前。十年近くも一緒にいたんだ、オマエの考えそうなことくらい分かる」
いささか不本意そうだが、しかしちゃんと感謝の乗った言葉だった。
なんだ、本当の家族より家族らしいじゃない、と思ったことは口には出さない。
実の子も同然くらいに可愛い。だからこそ、組織にのめりこませてはいけない。拓海さんの奏斗くんへの思いは、第三者から見れば、ものすごくストレートで分かりやすい。
そう、最初から。駅で彼らが話しているところを見たときからずっと、拓海さんの目は、奏斗くんが大切だと語っていた。
「拓海さん、ありがとうございます」
私と彼をめぐり会わせてくれて。
「そういうことは食べてから言って。本当に感謝してるなら、また店に遊びに来てよ」
拓海さんは、テーブルの上に並べられたご馳走を目で示した。
結局、最後の最後まではぐらかす。こういう掴めないところは、奏斗くんにそっくりだ。二人が今まで過ごしてきた長い月日を物語っている。いったいどっちがどっちに似たんだろう。
ヒラヒラと手を振った長身の後姿は、一度も振り返らなかった。そのままエレベーターへと消えていく。
ドアを開ける直前、一瞬だけ見せた少し寂しそうな表情に、奏斗くんは気付いただろうか。
*
それから、普通の高校生に戻った奏斗くんは、住んでいた豪華なマンション(なんと家賃は自腹だったらしい)を解約した。今は築三十年、広さだけがとりえのアパートで一緒に暮らしている。
なんと家賃と高熱費の半分をバイト代から捻出するという大盤振る舞いだ。私が全額払う、と何度も説得をこころみたが、彼は頑として譲らなかった。
ただでさえ年下なのに、被扶養者みたいな立ち位置にはなりたくない、のだそうだ。
「俺がちゃんとした社会人になったら、結婚してくれる?」
お得意の、上目遣いと甘え口調の合わせ技。これをやられるといつも二つ返事で頷いてしまう。年下の強みを最大限利用されていると分かっていながら、やはり弱い。
「今はそんなこと言ってるけど、数年後には見向きもしてもらえなくなっちゃったりして」
おどけながらのその台詞は、冗談ではない。
年を経るごとに、奏斗くんは素敵な男性に、私はおばさんに近づいていくのだ。彼が若い子たちに目移りしないと言い切れるほどの自信はなかった。
「そういうので選んだんじゃないって、いつも言ってんじゃん」
うわ。すごい仏頂面。
鍵盤の上を、流れるように動いていた指が止まった。部屋の大半を陣取っているピアノは、生活必需品以外では、彼の唯一の私物。引越し屋に無理を言って、何とかアパートに運び込んでもらったものだ。
「あーあ、そういうとこまだまだ信用ないんだなー俺」
早く真奈さんが頼ってくれるくらいの器になんなきゃ。
呟いた声はおそらく無意識だったのだろう。依存されたい、ではなかったのが意外だった。
お互いに縛り合うのではなく、信じ合える関係がいい。
独り占めしていたくて、相手をがんじがらめにしていた。それが間違っていたと気付けたのは、遼介との別れがあったからだ。
再び穏やかな音階が部屋を包む。
「これ…きれいな曲だね。なんていうの?」
「幻想即興曲だよ」
「え、ショパンの?」
以前聴いた時とは全く違う曲みたいだ。
「複合三部形式だから、途中でガラッと曲調が変わるんだ」
アップテンポな導入部分とは打って変わって、草原を風が吹きぬけるような柔らかさ。
その調べはつくられた偽物じゃない。やっと、本当の彼に触れることができたのだ。
気がつくと私は、流れるような音に乗せて鼻唄を口ずさんでいた。
完