ガチャッ!
アパートの、ドアを開く音が響いた。
睡魔に負けて船を漕いでいた俺は、その音で覚醒する。
ヤベ…もう
2時か。
目の前のデスクには、ノートと、何冊もの専門書が広がっている。
明日は商法の中間試験。
徹夜決定だな…。
眠い目を擦り、コーヒーを淹れようとキッチンに立った時。
『カワイーありがとー!!』
外から声が聞こえた。
窓から覗いたのは、ほんの気まぐれだった。
スウェットの上下を着た女の子が、友人らしき人にノートを渡している。
【カワイさん】というらしいその子は、笑顔で手を振っている。
程なくして、再びアパートのドアが開閉される音。今度はさっきほど慌しくない。
ここに住んでるってコトは…同じ大学?
中間の勉強、してたのか。
止まらない欠伸を噛み殺し、難解な文章と格闘すべく、俺は机に向かった。
*
「カワイ、何食べる?」
昼休み。
俺は同じ学部の友人たちと、食堂の列に並んでいた。
カワイって…確か、同じアパートの…。
カワイと呼ばれたその子は、俺のすぐ前、
4人ほどのグループで並んでいた。
その背格好には見覚えがある。
間違いない。アパートの前の道で、ノートを渡していた子だ。
背が低く、二重瞼の大きな瞳。
肩より短いダークブラウンの髪は猫っ毛で、彼女が頭を動かすたびにフワフワと揺れている。
なんか、小動物みてぇ…。
「颯太、何見てんの?」
「あ…」
眉間を絞り、難しいカオでメニューを決めかねているカワイさんが面白くて。
知らず、視線を向けていたようだ。
「なあ、あの子知ってる?」
連れの中でもかなりの情報通である友人に尋ねてみた。
「ああ…確か、河合リオ…っていったかな。教育学部の
3回生だよ。…颯太、ああいう子が好みなん?」
「んー…別に」
興味本位でニヤニヤしてる友人を適当にあしらった後も、
何となく彼女に目がいってしまっていた。
*
あ…この講義も取ってんのか。
法学部の必修科目、行政法。
この大学は、文系の講義選択がわりと自由だ。
他学部の講義を取っても、ちゃんと単位認定される。
講義室の一番後ろの席に座ると、
2つ隣の列の前から
2番目に、カワイさんがいた。
食堂の一件以来、彼女を見つけると、つい目で追ってしまう。
同じアパートだからだろうか、何となく気になって。
学部が違うため、学内で偶然会うことはあっても、講義が被ったのはこれが初めてだ。
単調な教授の声を聞き、シャーペンを動かす小さな背中。
一人で受けてんだ…。
わざわざ他学部の講義を取るくらい、そんなに興味があったんだろうか?
大学の講義なんて、ほとんどのヤツは仲良しグループで固まって受けるのに。
六法を見つめる横顔は、真剣そのものだった。
*
「北原くん、裏にある新商品、ファブリックエリアに品出ししてくれる?」
「ハイ」
アパートの近くの雑貨店が俺のバイト先。
講義がない時間帯には、たいていここで働いている。
最初は、もっと稼げるところにしようと思っていたんだけど、
好きなモノに囲まれて仕事をする方が続くだろうと考え直して。
コンテナに入っていたブランケットの包装を取り、丁寧に畳んで陳列棚に並べる。
つい先日までは暑かった気がするのに…
もう冬のグッズが入荷してくる季節か。
カランと、入り口のドアが開く音がした。
「いらっしゃいませ」
レトロなその音を聞くと、反射的に出るようになった言葉。
品出しに集中していた顔を上げる。
一瞬、手が止まった。
大きな瞳に、柔らかそうなボブヘア。
キャメル色のバッグを肩にかけたカワイさんが、店内をキョロキョロと見渡していたから。
品出しを切り上げて、彼女を観察してみた。
この店に来るのは初めてなのだろう。
時間をかけて商品を眺めては、微笑みを浮かべている。
雑貨、好きなんだ…。
大切そうにそっと手にとって、そっと棚に戻す。
商品を慈しむような扱い方。
アルバイトの俺でも、何となく嬉しくなるような。
「そのマグ、カワイイですよね」
「あ…ハイ…!」
気がついたら声をかけていた。
好みのモノを見つけては目を輝かせている彼女と、話してみたくて。
くるくるした瞳が、マグから離れ、俺に向けられる。
その顔に、驚いた様子はない。
目の前の店員が、同じアパートに住んでる同じ大学の学生だなんて、これっぽっちも思ってないのだろう。
気にしてんのは、俺だけ…か。
カワイさんにとって俺は、今日初めて来た雑貨屋の、一店員でしかない。
「底が動物の顔になってるんです。これはウサギですけど、こっちはパンダで。
あとは…ネコとクマがあります」
「へえ…面白いですね」
軽く勧めると、彼女の関心はすぐにアニマルマグに戻った。
目尻が下がったその顔が、『可愛い』と言ってる。
彼女の楽しい時間に水を差さないよう、さりげなくその場から離れた。
「すみません!お待たせいたしました」
裏方で商品の片付けをしていたら、レジで待っている小さな影に気がつかなかった。
急いでレジに戻る。
「ラッピング、してもらえますか?」
文句を言われなかったとしても、嫌な顔をされるくらいは覚悟していたのに、
彼女はそう言って、笑顔でマグを差し出した。
それは、ついさっき自分が勧めた商品。
プレゼントに、選んでくれたのか…。
温かい感情が、身体中に広がる。
素直に、嬉しかった。
どうして今まで気がつかなかったんだろう。
5月のあの夜、友人のために、深夜
2時に部屋着で外に飛び出した彼女。
すっげえインパクトで、気になって。
たぶん…最初は興味本位。
だけどいつしか、見かけると、嬉しくなって。
彼女のことを少しでも知りたいと思うようになった。
そして半年。
今日、店で遭遇するまで気付けなかった。
俺はもう、とっくに彼女におちてる。
*
雑貨が気に入ったのか、カワイさんはあの日以来、店に通ってくれていた。
俺は、他のお客さんにするのと同じように、彼女に話しかける。
彼女が商品を眺めるときの、幸せそうな表情。
見てると、こっちも癒されるんだ。
「そのアロマキャンドル、今週新しく入荷したヤツなんです」
何度か会話して、彼女の方も俺を覚えてくれたみたいだった。
営業モードで接すれば、ぎこちないながらも小さく笑顔を見せる。
「オススメはラベンダー。リラックス効果があるんですよ」
「へえ…」
「良かったら、香ってみてください」
興味深々といった風に、フワフワの頭がキャンドルに近づく。
近くで見るとホント…小さいな。
頭も、手も、香りを確かめようとクンクンしてる鼻も、全てがミニサイズ。
「いい香り…ですね…」
「ホントですか?俺はこっちの、桜の香りも好きで…」
「あ…」
大きな目に驚いたように見つめられて、気がついた。
『俺』
勧めたモノを気に入ってもらえたことが嬉しくて、つい素が出た…。
謝る俺に視線を向けたまま、ポカンとしていた彼女が、笑う。
控えめに、可笑しいのをガマンするように。
やってしまった。
こんな風に普通に話していると気が緩んで…
俺は店員で、彼女は客なんだってこと、忘れそうになる。
やべ……相当ハマってる…。
彼女のクルクルと変化する表情に目を奪われて、
何気ないコトバで舞い上がってしまう自分。
カッコ悪……。
思わず出そうになった溜め息は、仕事中だと思い直して何とか飲み込んだ。
*
昔ながらの住宅が立ち並ぶ、細い道。
街灯のおかげである程度明るいとはいえ、夜は危ない。
バイト帰りの俺は、スピードを落とし、車を走らせていた。
今日はこれから、サークル仲間で鍋をする約束をしている。
部屋には帰らず直行しようと、アパートの前を通りすぎた、直後の曲がり角。
ブレーキを踏み、急停車した。
人が…飛び出してきたから。
「あっぶねー…」
しかし、早鐘を打つ心臓は、街灯に照らされたその人の顔を見て、さらに跳ねた。
――カワイさん…!?
一瞬だけこっちを見て、飛び出したことを詫びるように頭を下げる。
その目が…今にも泣き出しそうだった。
*
「北原くん、何かあった?」
陳列棚を磨いていた手を止め、顔を上げる。
心配そうな顔をした店長と目が合った。
「何もないですよ」
「嘘。今日、朝からずっと上の空じゃない」
…見抜かれている。
「お客さんにだけは、迷惑かけないでよね。どーしても駄目なら、相談、乗ってあげてもいいわよ?」
ニヤリと笑った彼女に、苦笑で返す。
親と同じくらいの年齢の店長は、しっかりしていて面倒見が良い。
背筋の伸びた後姿を見送りながら、胸中で礼を言った。
あの時の、泣きそうな顔の理由はなんだ…?
恋愛関係。
一番ありえる選択肢は、それだ。
修羅場になったとしても、自分の主張は…しないんだろうな。
以前、誰もいないレジでおとなしく待っていた彼女を思い出す。
きっと彼女は、相手が自分のところに来てくれるまで、健気に待つタイプ。
文句を言うこともなく、笑顔で。
玄関ベルのレトロな音が、来客を告げた。
それは、今まさに気にしていたその人だ。
明らかに元気のないその表情を見て、胸が引き絞られる。
店内を眺めるのは、いつもの幸せそうな顔じゃない。
それは、とっさに思いついたことだった。
ラベンダーのアロマキャンドルをレジで差し出す彼女の目を盗んで、
メモ帳の端を破り、シャーペンを走らせる。
桃色のキャンドルと一緒に、その小さな紙切れを袋に入れた。
*
賭けだった。
気付かれないかもしれない。
タチの悪い、イタズラだと思われる可能性もある。
だけど――
あんな顔を目の当たりにして、見て見ぬフリなんて…できるはずない。
「わっ!」
「きゃ…!すみませんっ」
バイトを終え、店の裏口から出て、
12月の冷えた空気に身を縮める。
店の前で誰かにぶつかり、高めの、柔らかいその声に、はっとした。
「…北原さん…」
「こんばんは」
…俺の名前…覚えてくれてたのか。
たったそれだけのことが、どうしようもなく嬉しい。
そういえば、外で話すのはこれが初めてだ。
「この紙、北原さんが…?」
雑談もそこそこに、彼女は本題を切り出した。
小さな鼻の頭が、赤い。
部屋に着いてすぐに気がつき、引き返したのだろう。
「気付いてくれたんだ」
小さな紙切れには、正真正銘俺の字で、『何かあった?』と書かれている。
「ハイ…と言うか、どうして…」
「いつもニコニコしてる常連さんの顔が暗いから」
「え……」
「店で商品見てるとき、いつも笑顔だったのに、どうしたのかなって」
びっくりして目を見開いた彼女の頬が、みるみる赤く染まる。
恥ずかしそうにうろたえてるの、すげーカワイイ。
「心配だったんだ、この間、泣きそうなカオして走って帰ってくるし」
「え……?」
アパートへの帰り道を並んで歩きながら、種明かしをする。
「やっぱ気付かないか。俺、普段は車だしなー」
「……」
「仕事帰りの俺とすれ違ったんだよ、この間」
「あ…!」
彼女は思い出したように顔を上げた。
「たぶん、カワイさんのアパート、俺と一緒」
「えええ!?」
『たぶん』じゃなく、『確実に』だけど。
そのコトバはひとまず言わないでおいた。
「て、言うか…名前…」
上目遣いに見上げる瞳が、戸惑っている。
…そうか。
彼女からすれば、俺が自分の名前を知っているのは不可解なんだ。
もうこの際だから、覚悟…決めるか。
テスト期間中にノートを渡す場面を見たと告げると、
完全に予想外だったのか、言葉を失ったカワイさんは、首に巻いていたストールに顔をうずめた。
「そのときからすげー印象に残ってて。たまに見かけると、あ・カワイさんだ…って」
「全然…気付かなかったです…」
「だろうなって思ってたよ。最初に店来たときも、そんな素振りなかったし」
もう少しでアパートに辿り着く、細い道。
歩を止めた俺に少し遅れて、小さな後姿も立ち止まる。
「何かあった?」
やっと、一番聞きたかったことを口にする。
少しだけ躊躇し、こちらを向いた彼女が、言った。
「彼と、別れたんです」
「浮気されてて……その相手、あたしとずっと仲良くしてくれてた、先輩で」
「………」
「もしかしたら、あたしの方が浮気だったかもしれないんですけどね。美咲さん、キレーだし」
どうして…そんなに明るく言うんだ。
二股をかけられていたのに。それも、身近な人と…。
辛くない…わけがない。
「でも、もうどっちでもいいんです。あたし、アッサリさよならしちゃった。その程度の恋だったのかなって」
いじらしい笑顔で、そんなことを言う。
小さな身体を抱きしめたい衝動に駆られた。
「……思ってた通り」
「え?」
「【カワイさん】のイメージ。もし恋人と別れても、スパッと切り替えて前に進める」
自分を抑え、努めて優しく話した。
俺が…もっと早くに行動していれば良かった。
そうすれば、こんな思いをさせることも、なかったかもしれないのに。
「……あたし、そんなカッコイイ感じじゃないですよ?」
「じゃ、教えてよ。ほんとのキミがどんなのか」
「…え?」
「俺と付き合って」
たっぷり
3秒間ほど動きを止めてから、思い切り戸惑った表情をする彼女。
考えてること、手に取るように分かる。
知り合って間もない、雑貨屋の店員から告白される理由が分からない。
第一、別れてすぐ次の人にいくなんて、考えられない…って。
自分は浮気されてたってのに、真面目なヤツ。
でも、そういうところも……。
一瞬の隙をついて、柔らかい唇に触れた。
「今日はこれでガマンする」
真っ赤になった彼女は、泣きそうな顔をしていたけれど、
嫌がっている様子はなかった。
「あとさ、同い年なんだから俺のこと、颯太でいいよ」
いらない誤解は解いてしまえ。
「俺ら同じ大学の、タメ。あの店はアルバイトだよ」
俺のこと、もっと知って。
ちゃんと見てほしい。
今すぐじゃなくていい。
だけど絶対、好きって言わせてみせるから。
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