ソコノコミチノ物語





ガチャッ!

 アパートの、ドアを開く音が響いた。
 睡魔に負けて船を漕いでいた俺は、その音で覚醒する。

 ヤベ…もう2時か。
 目の前のデスクには、ノートと、何冊もの専門書が広がっている。
 明日は商法の中間試験。

 徹夜決定だな…。
 眠い目を擦り、コーヒーを淹れようとキッチンに立った時。

『カワイーありがとー!!』

 外から声が聞こえた。
 
 窓から覗いたのは、ほんの気まぐれだった。
 スウェットの上下を着た女の子が、友人らしき人にノートを渡している。

 【カワイさん】というらしいその子は、笑顔で手を振っている。
 程なくして、再びアパートのドアが開閉される音。今度はさっきほど慌しくない。

 ここに住んでるってコトは…同じ大学?
 中間の勉強、してたのか。
 
 止まらない欠伸を噛み殺し、難解な文章と格闘すべく、俺は机に向かった。





「カワイ、何食べる?」

 昼休み。
 俺は同じ学部の友人たちと、食堂の列に並んでいた。

 カワイって…確か、同じアパートの…。

 カワイと呼ばれたその子は、俺のすぐ前、4人ほどのグループで並んでいた。
 その背格好には見覚えがある。
 間違いない。アパートの前の道で、ノートを渡していた子だ。

 背が低く、二重瞼の大きな瞳。
 肩より短いダークブラウンの髪は猫っ毛で、彼女が頭を動かすたびにフワフワと揺れている。

 なんか、小動物みてぇ…。

「颯太、何見てんの?」
「あ…」

 眉間を絞り、難しいカオでメニューを決めかねているカワイさんが面白くて。
 知らず、視線を向けていたようだ。

「なあ、あの子知ってる?」
 連れの中でもかなりの情報通である友人に尋ねてみた。
「ああ…確か、河合リオ…っていったかな。教育学部の3回生だよ。…颯太、ああいう子が好みなん?」
「んー…別に」

 興味本位でニヤニヤしてる友人を適当にあしらった後も、
 何となく彼女に目がいってしまっていた。






 あ…この講義も取ってんのか。

 法学部の必修科目、行政法。
 この大学は、文系の講義選択がわりと自由だ。
 他学部の講義を取っても、ちゃんと単位認定される。

 講義室の一番後ろの席に座ると、2つ隣の列の前から2番目に、カワイさんがいた。
 食堂の一件以来、彼女を見つけると、つい目で追ってしまう。

 同じアパートだからだろうか、何となく気になって。

 学部が違うため、学内で偶然会うことはあっても、講義が被ったのはこれが初めてだ。
 単調な教授の声を聞き、シャーペンを動かす小さな背中。
 一人で受けてんだ…。

 わざわざ他学部の講義を取るくらい、そんなに興味があったんだろうか?
 大学の講義なんて、ほとんどのヤツは仲良しグループで固まって受けるのに。

 六法を見つめる横顔は、真剣そのものだった。






「北原くん、裏にある新商品、ファブリックエリアに品出ししてくれる?」
「ハイ」

 アパートの近くの雑貨店が俺のバイト先。
 講義がない時間帯には、たいていここで働いている。

 最初は、もっと稼げるところにしようと思っていたんだけど、
 好きなモノに囲まれて仕事をする方が続くだろうと考え直して。
 
 コンテナに入っていたブランケットの包装を取り、丁寧に畳んで陳列棚に並べる。
 つい先日までは暑かった気がするのに…
 もう冬のグッズが入荷してくる季節か。


 カランと、入り口のドアが開く音がした。

 「いらっしゃいませ」
 レトロなその音を聞くと、反射的に出るようになった言葉。
 品出しに集中していた顔を上げる。

 一瞬、手が止まった。

 大きな瞳に、柔らかそうなボブヘア。
 キャメル色のバッグを肩にかけたカワイさんが、店内をキョロキョロと見渡していたから。

 品出しを切り上げて、彼女を観察してみた。
 この店に来るのは初めてなのだろう。
 時間をかけて商品を眺めては、微笑みを浮かべている。
 
 雑貨、好きなんだ…。
 大切そうにそっと手にとって、そっと棚に戻す。
 商品を慈しむような扱い方。
 アルバイトの俺でも、何となく嬉しくなるような。


「そのマグ、カワイイですよね」
「あ…ハイ…!」

 気がついたら声をかけていた。
 好みのモノを見つけては目を輝かせている彼女と、話してみたくて。

 くるくるした瞳が、マグから離れ、俺に向けられる。
 その顔に、驚いた様子はない。
 目の前の店員が、同じアパートに住んでる同じ大学の学生だなんて、これっぽっちも思ってないのだろう。


 気にしてんのは、俺だけ…か。
 カワイさんにとって俺は、今日初めて来た雑貨屋の、一店員でしかない。


「底が動物の顔になってるんです。これはウサギですけど、こっちはパンダで。
 あとは…ネコとクマがあります」
「へえ…面白いですね」

 軽く勧めると、彼女の関心はすぐにアニマルマグに戻った。
 目尻が下がったその顔が、『可愛い』と言ってる。

 彼女の楽しい時間に水を差さないよう、さりげなくその場から離れた。




「すみません!お待たせいたしました」
 裏方で商品の片付けをしていたら、レジで待っている小さな影に気がつかなかった。
 急いでレジに戻る。

「ラッピング、してもらえますか?」
 文句を言われなかったとしても、嫌な顔をされるくらいは覚悟していたのに、
 彼女はそう言って、笑顔でマグを差し出した。

 それは、ついさっき自分が勧めた商品。
 プレゼントに、選んでくれたのか…。
 温かい感情が、身体中に広がる。

 素直に、嬉しかった。


 どうして今まで気がつかなかったんだろう。
 5月のあの夜、友人のために、深夜2時に部屋着で外に飛び出した彼女。

 すっげえインパクトで、気になって。
 たぶん…最初は興味本位。


 だけどいつしか、見かけると、嬉しくなって。
 彼女のことを少しでも知りたいと思うようになった。

 そして半年。
 今日、店で遭遇するまで気付けなかった。


 俺はもう、とっくに彼女におちてる。






 雑貨が気に入ったのか、カワイさんはあの日以来、店に通ってくれていた。
 俺は、他のお客さんにするのと同じように、彼女に話しかける。
 
 彼女が商品を眺めるときの、幸せそうな表情。
 見てると、こっちも癒されるんだ。


「そのアロマキャンドル、今週新しく入荷したヤツなんです」

 何度か会話して、彼女の方も俺を覚えてくれたみたいだった。
 営業モードで接すれば、ぎこちないながらも小さく笑顔を見せる。

「オススメはラベンダー。リラックス効果があるんですよ」
「へえ…」
「良かったら、香ってみてください」

 興味深々といった風に、フワフワの頭がキャンドルに近づく。
 
 近くで見るとホント…小さいな。
 頭も、手も、香りを確かめようとクンクンしてる鼻も、全てがミニサイズ。


「いい香り…ですね…」
「ホントですか?俺はこっちの、桜の香りも好きで…」
「あ…」
 大きな目に驚いたように見つめられて、気がついた。
 
 『俺』
 勧めたモノを気に入ってもらえたことが嬉しくて、つい素が出た…。

 謝る俺に視線を向けたまま、ポカンとしていた彼女が、笑う。
 控えめに、可笑しいのをガマンするように。

 やってしまった。
 こんな風に普通に話していると気が緩んで…
 俺は店員で、彼女は客なんだってこと、忘れそうになる。


 やべ……相当ハマってる…。

 彼女のクルクルと変化する表情に目を奪われて、
 何気ないコトバで舞い上がってしまう自分。


 カッコ悪……。

 思わず出そうになった溜め息は、仕事中だと思い直して何とか飲み込んだ。





 昔ながらの住宅が立ち並ぶ、細い道。
 街灯のおかげである程度明るいとはいえ、夜は危ない。
 バイト帰りの俺は、スピードを落とし、車を走らせていた。

 今日はこれから、サークル仲間で鍋をする約束をしている。
 部屋には帰らず直行しようと、アパートの前を通りすぎた、直後の曲がり角。

 ブレーキを踏み、急停車した。

 人が…飛び出してきたから。


「あっぶねー…」

 しかし、早鐘を打つ心臓は、街灯に照らされたその人の顔を見て、さらに跳ねた。

 ――カワイさん…!?

 一瞬だけこっちを見て、飛び出したことを詫びるように頭を下げる。
 その目が…今にも泣き出しそうだった。







「北原くん、何かあった?」

 陳列棚を磨いていた手を止め、顔を上げる。
 心配そうな顔をした店長と目が合った。

「何もないですよ」
「嘘。今日、朝からずっと上の空じゃない」

 …見抜かれている。

「お客さんにだけは、迷惑かけないでよね。どーしても駄目なら、相談、乗ってあげてもいいわよ?」

 ニヤリと笑った彼女に、苦笑で返す。
 親と同じくらいの年齢の店長は、しっかりしていて面倒見が良い。

 背筋の伸びた後姿を見送りながら、胸中で礼を言った。


 あの時の、泣きそうな顔の理由はなんだ…?
 恋愛関係。
 一番ありえる選択肢は、それだ。

 修羅場になったとしても、自分の主張は…しないんだろうな。
 以前、誰もいないレジでおとなしく待っていた彼女を思い出す。
 きっと彼女は、相手が自分のところに来てくれるまで、健気に待つタイプ。
 文句を言うこともなく、笑顔で。



 玄関ベルのレトロな音が、来客を告げた。
 
 それは、今まさに気にしていたその人だ。
 明らかに元気のないその表情を見て、胸が引き絞られる。
 
 店内を眺めるのは、いつもの幸せそうな顔じゃない。
 


 それは、とっさに思いついたことだった。
 ラベンダーのアロマキャンドルをレジで差し出す彼女の目を盗んで、
 メモ帳の端を破り、シャーペンを走らせる。

 桃色のキャンドルと一緒に、その小さな紙切れを袋に入れた。






 賭けだった。

 気付かれないかもしれない。
 タチの悪い、イタズラだと思われる可能性もある。

 だけど――
 あんな顔を目の当たりにして、見て見ぬフリなんて…できるはずない。




「わっ!」

「きゃ…!すみませんっ」


 バイトを終え、店の裏口から出て、12月の冷えた空気に身を縮める。
 店の前で誰かにぶつかり、高めの、柔らかいその声に、はっとした。


「…北原さん…」

「こんばんは」

 …俺の名前…覚えてくれてたのか。
 たったそれだけのことが、どうしようもなく嬉しい。

 そういえば、外で話すのはこれが初めてだ。


「この紙、北原さんが…?」

 雑談もそこそこに、彼女は本題を切り出した。
 小さな鼻の頭が、赤い。
 部屋に着いてすぐに気がつき、引き返したのだろう。

「気付いてくれたんだ」
 小さな紙切れには、正真正銘俺の字で、『何かあった?』と書かれている。
「ハイ…と言うか、どうして…」

「いつもニコニコしてる常連さんの顔が暗いから」
「え……」
「店で商品見てるとき、いつも笑顔だったのに、どうしたのかなって」

 びっくりして目を見開いた彼女の頬が、みるみる赤く染まる。

 恥ずかしそうにうろたえてるの、すげーカワイイ。


「心配だったんだ、この間、泣きそうなカオして走って帰ってくるし」
「え……?」
 アパートへの帰り道を並んで歩きながら、種明かしをする。

「やっぱ気付かないか。俺、普段は車だしなー」
「……」
「仕事帰りの俺とすれ違ったんだよ、この間」
「あ…!」
 彼女は思い出したように顔を上げた。


「たぶん、カワイさんのアパート、俺と一緒」
「えええ!?」
 『たぶん』じゃなく、『確実に』だけど。
 そのコトバはひとまず言わないでおいた。

「て、言うか…名前…」

 上目遣いに見上げる瞳が、戸惑っている。
 …そうか。
 彼女からすれば、俺が自分の名前を知っているのは不可解なんだ。


 もうこの際だから、覚悟…決めるか。

 テスト期間中にノートを渡す場面を見たと告げると、
 完全に予想外だったのか、言葉を失ったカワイさんは、首に巻いていたストールに顔をうずめた。


「そのときからすげー印象に残ってて。たまに見かけると、あ・カワイさんだ…って」
「全然…気付かなかったです…」
「だろうなって思ってたよ。最初に店来たときも、そんな素振りなかったし」

 もう少しでアパートに辿り着く、細い道。
 歩を止めた俺に少し遅れて、小さな後姿も立ち止まる。


「何かあった?」

 やっと、一番聞きたかったことを口にする。
 少しだけ躊躇し、こちらを向いた彼女が、言った。


「彼と、別れたんです」


「浮気されてて……その相手、あたしとずっと仲良くしてくれてた、先輩で」
「………」
「もしかしたら、あたしの方が浮気だったかもしれないんですけどね。美咲さん、キレーだし」


 どうして…そんなに明るく言うんだ。
 二股をかけられていたのに。それも、身近な人と…。

 辛くない…わけがない。

「でも、もうどっちでもいいんです。あたし、アッサリさよならしちゃった。その程度の恋だったのかなって」

 いじらしい笑顔で、そんなことを言う。
 小さな身体を抱きしめたい衝動に駆られた。


「……思ってた通り」
「え?」

「【カワイさん】のイメージ。もし恋人と別れても、スパッと切り替えて前に進める」

 自分を抑え、努めて優しく話した。

 俺が…もっと早くに行動していれば良かった。
 そうすれば、こんな思いをさせることも、なかったかもしれないのに。

「……あたし、そんなカッコイイ感じじゃないですよ?」
「じゃ、教えてよ。ほんとのキミがどんなのか」
「…え?」

「俺と付き合って」

 たっぷり3秒間ほど動きを止めてから、思い切り戸惑った表情をする彼女。
 考えてること、手に取るように分かる。

 知り合って間もない、雑貨屋の店員から告白される理由が分からない。
 第一、別れてすぐ次の人にいくなんて、考えられない…って。

 自分は浮気されてたってのに、真面目なヤツ。

 でも、そういうところも……。



 一瞬の隙をついて、柔らかい唇に触れた。


「今日はこれでガマンする」

 真っ赤になった彼女は、泣きそうな顔をしていたけれど、
 嫌がっている様子はなかった。


「あとさ、同い年なんだから俺のこと、颯太でいいよ」

 いらない誤解は解いてしまえ。

「俺ら同じ大学の、タメ。あの店はアルバイトだよ」


 俺のこと、もっと知って。
 ちゃんと見てほしい。


 今すぐじゃなくていい。

 だけど絶対、好きって言わせてみせるから。










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