ツキトタイヨウ





 慎重に…慎重に…。頭の中でそのコトバを呪文のように繰り返す。
 今回は、絶対にうまくいくはず。
 計量はカンペキだし、砂糖と塩を間違えてないか、3回も確認した。

 型に流し込んだ生地をオーブンに入れ、待つこと約30分。


「どうして膨らまないの〜!?」

 コレはもう、あれだ。才能ないんだ、アタシ。
 出来上がったケーキの生地は、真ん中が見事に陥没してる。

「結月はいちいち慎重すぎ。この前テキトーすぎて失敗したからって、そんなにトロトロしてたんじゃ、せっかく泡立てた生地も萎むでしょ」

「ひかり…分かった。分かったからもうちょっとオブラートに包んで」
 失敗の直後に、容赦のないダメ出しは……正直、こたえる。

 今日こそカンペキなお菓子を作ってみせるという当初の意気込みは、とっくに失せた。
 ほとんど底を尽きてしまったモチベーションで、薄っぺらい生地にクリームをのせていく。

 隣には、どこの有名パティシエが作ったの!?ってくらいカンペキな、ひかり作のイチゴショート。
 思わず涎が出そうになる。
 でも一切れチョーダイ、なんて言えない。アタシは今日、このボロ雑巾みたいなペチャンコケーキを処理しなければならないんだから。





「ふっ……あっはははは!!」

 目の前で腹を抱えて笑い転げるソイツを、怒りと恥ずかしさを堪え、睨みつける。

「これっ…クク…どーやったらこんなにへこむんだよ。ありえねー」
「うるっさい!」
 元々切れやすい堪忍袋の緒は、あっけなかった。
 ゴンって、幼馴染の頭を殴る。
「いって!おま…グーかよ!?一応生物学上は女だろ」
「……妙に引っかかる言い方ね?」
 ハーって拳に息を吹きかけると、わーかったよ、悪かった!って慌てて謝られた。

 この失礼なヤツは白柳陽(ヨウ)
 幼稚園からずーっと一緒の、世間で言う幼馴染。ついでに同じクラス。
 家が隣同士だから、小さい頃はよく二人で遊んでいた。
 さすがに高校生にもなればそれはなくなったけど、用事があれば、こうして気軽に陽の部屋におジャマできる。
 そんな関係。

「しかしさ、オマエ、おしとやかで上品な女になるって家庭科部に入ったクセに…全然変わんねーよな」
「うるさい」
「いい加減、本命にやれるくらいのモン作れよ」
「……」

 アタシ、倉谷結月(ユヅキ)は、自分で言うのもなんだけど、ガサツ。
 口調は荒く、気が短い。ちょっとカチンとくればすぐに手が出る。
 中学生までは、男子と平気で殴り合いのケンカをしてたくらいだ。

 でも高校に入って…初めて好きな人ができた。
 
 限りなくゼロに近い女度を少しでも上げたくて、部活だけでも女の子らしいのに入ろうかなって。
 一応、甘いモノは…好きだし。

「でもこのケーキ、見た目はともかく味はまだ普通だな」
「味…は?まだ?」
「もーちょい頑張ればさ、何とか食えるくらいにはなんじゃね?」
「何とか…!?」

 まったくコイツにはデリカシーってモンがないのか。
 名前だけ見れば、お金持ちの家の気品あるおぼっちゃんって感じなのに。
 蓋を開けたらコレだ。
 そりゃ見た目は…ちょっといいのかもしれないけど。
 こんなのが学年で割とモテてるなんて……みんな絶対騙されてる!

「そんな眉間にシワ寄せんなって。ピリピリしてると老けるぞ?」
 もぐもぐとケーキを頬張りながら、陽がシレっと言い放つ。
 ああもう…っ!子憎たらしい顔!
 そこに転がっているダンベルを投げつけてやろうか。

 でも、失敗作を食べるのを手伝ってもらってる手前、あまり強くは出られない。
 早くまともなお菓子を作れるようにならないと。

 コイツの憎まれ口にやり返せないせいで、ストレスが溜まって禿げそうだ。





「お、今日朝練ないの?」

 朝、家を出ると、ちょうど陽が隣から出てきたところだった。
 陽はサッカー部。
 いつもなら、この時間は学校でボールを蹴ってるはず。

「今日は休み」
「やりい!チャリ、乗せてってよ」

 アタシが住んでる地域は、学校から近いため自転車通学禁止。
 だけど陽は、歩くのメンドイからって、校則違反を承知で自転車で通ってる。

 立ち乗りして、陽の肩に掴まった。
 1月下旬の朝の空気は澄んでいて、気持ちいい。

「オマエさ、たまには横座りで乗るとか女らしく、できないワケ?」
「アンタのチャリでそんなこっぱずかしいコトできるかっての」
 恋人同士じゃあるまいし。

「あと、その寝グセ、なんとかならねーの?」
「うっ…!」
 今朝は寝坊して、ちゃんと直してるヒマがなかった。
 どうしても身だしなみより朝ごはんを取ってしまう。悲しい性だ。


「あっ!あれ、槙ちゃんじゃない!?」
 どうやって追求から逃れようかと苦悶していたら、前方に艶やかな黒髪の後姿を見つけた。

「おーい、槙ちゃーん!」
 華奢な肩がピクリと跳ね、小さな頭がゆっくりと振り返る。
「倉谷さん…おはよう」
「おはよーッ!」

 アタシの声は大きくて、よく通る。登校中の生徒たちが振り返った。
 槙ちゃんは恥ずかしそうに俯いて、色白の頬をほんのりピンクに染めてる。
 その仕草が、めちゃくちゃ女の子っぽくてカワイイ。
 こんな女の子になれたらなって、彼女を見るたび、思う。

 陽の自転車は、槙ちゃんを追い越し、校門を抜けた。

「挨拶しなくて良かったの〜?」
「何でだよ」
「だって槙ちゃんだよ?」
 ニヤニヤしてる私を見て、言いたいことを察したのだろう。
 陽は盛大に顔をしかめている。
「だからなんだよ?」
「えー?だって陽、槙ちゃんのこと…」
「あーー!もう!誤解だっつってんだろ!?」
「いーっていーって、そんな照れなくても」

 自転車を降りた陽の背中を大げさに叩いた。
 いつもは言い負かされてるけど、この話題を振ると、陽はとたんに弱くなる。
 あ〜優越感!気持ちいい。

 陽が槙ちゃんを好きだと知ったのは、1年の終わりごろ。
 サッカー部の人たちに問い詰められて、白状するのを偶然聞いてしまったのだ。

 もうあれから1年近くもたつのに、陽は槙ちゃんに告白どころか、話しかけることすらしない。
 幼馴染としては、上手くいってほしいと思ってるんだけどな。

 相手があの槙ちゃんでは、尻込みするのも仕方ないのかな…。





「結月、バレンタイン何作るか決めた?」

 ガヤガヤとうるさい休み時間。
 今日が〆切だということをすっかり忘れていた課題と、格闘していた時だった。

「ばれんたいん…?」
「ウン、もうすぐじゃん」
 ひかりは、課題にチラリと視線を向け、アタシに哀れみの眼差しを向けた。
 おそらくとうの昔に提出済みなのだろう。

「……実は…何も考えてない…」

 恋する乙女の一大イベント。
 去年までは、アタシには関係ないって、義理チョコすら誰にもあげたことなかった。
 
 でも今年は…手作りをあげたい。

「ひかり、超初心者向けのチョコレシピ…教えて」
「そう言うと思って、簡単そうなの探しといた。早速今日から部活で練習しよ」
「あああありがとー!」
「大袈裟」

 感極まって抱きつこうとするアタシの頭を押さえつけて、ひかりは迷惑そうに顔をしかめた。
 ひかりは毒舌だけど、実は面倒見がいい。
 そういうとこ大好きだよって言ったら、ゲンキン、と呆れられたが、満更でもなさそうだった。
 





「あのさ」
「……ハイ…」

「チョコ溶かして型に流し込むだけで、どうやったらこんなになるのよ?」
 まずは初歩の初歩から…ってコトで、挑戦したのは型流しチョコレート。
 だけど、アタシにとってはそれすらもハイレベルだったみたい。

 がっくり肩を落としていたら、運動場に面してる窓が急に賑やかになった。

「すっげーうめぇ!」
 聞こえるのは男子の声。
 
 休憩中なのかな?サッカー部の何人かが窓際に集まって、部の女の子たちにお菓子をねだってる。

「槙さんのもちょーだい」
 身の程知らずなヤツが、槙ちゃん作のマドレーヌに目を付けた。
 槙ちゃん、困った顔で苦笑い。
 アレ、絶対迷惑してるよ。

 サッカー部の人垣の中に陽の姿を探す。
 こういうときにさり気なく庇ってあげればポイント高いのに!
 肝心な場面で…何やってんのよアイツは。


「オマエは何作ったん?」
 灯台もと暗し。すぐ傍で声がしたと思ったら、近くの窓に肘をついて、当の本人がこちらを眺めていた。
「は?チョコだけど」
 アタシに構ってないで、槙ちゃんがピンチなんだってば!って、声には出さずに視線で訴えるけど、ヘラヘラしてるコイツには全く伝わらない。

「チョコってそれ?食えんだろーな?俺、腹壊したくねーよ」
「はあ!?」
 失礼ね!って怒鳴りかけた声を、寸でのところで飲み込んだ。

 陽の後ろに、新井くんがいたから。

「陽〜、いくら幼馴染だからって、倉谷さんに失礼すぎ」
 ぺシって軽く陽の頭を叩き、アタシに笑いかける。

「俺チョコ好きなんだー。良かったら1個、味見さして」

 うううそ…っ!こんなことってある!?
 新井くんが、アタシの作ったお菓子…味見って!

 まだ自分でも食べてない、お世辞にも見栄えが良いとは言いがたいチョコ。
 だけど、断る理由も…見つからない。
 
 迷った末、一番マシな見た目のを一つ、手渡した。

 新井君は受け取ったその場で口に放り込み、しばらく小動物みたいにもぐもぐやった後、


「ん、美味い。サンキュー」

 ニカって白い歯を見せてくれた。
 眩しい笑顔に胸が締め付けられて、アタシはぎこちなく微笑むことしかできなかった。


 新井くんの、笑った顔が好き。

 2年生になって同じクラスになった彼は、特別カッコイイわけでも、勉強ができるわけでもない、
 普通の男の子だった。

 アタシも最初は、優しそう、くらいの認識でしかなかった。
 
 だけどある日、先生に頼まれて、独りで教材を運んでた時。
 周りの男子が、アイツなら怪力だし大丈夫だろーって茶化す中。

―――女子に運ばせてんなよ。

 新井くんが、アタシの手からひょいって、教材を奪った。

 ヒュー!やっさしー!って周りから飛ばされる野次に頬を染める彼は。
 それでもこっちを見て、笑ってくれたんだ。





 ピンポーン。
 昼間作ったチョコを抱えて、幼い頃から何度も聞いてきた隣家のドアベルを鳴らした。
 冬至を過ぎても、まだまだ日は短い。
 部活生とはいえさすがにもう帰っているだろう。

『ハイ』
 くぐもった陽の声が、スピーカーから聞こえる。
「あ、アタシ。今日もお菓子、食べない?」
 恒例となったやり取り。
 いつものように、上がってこいよって言われると思っていたのに。

『あー…今日は遠慮しとく』

 返ってきたのは予想外の返事だった。
「え…どうし…」
 どうして?って、聞き返す前に、ブツっと音を立てて、目の前の無機質な機械が静まる。

 陽の声は沈んでいるみたいに低かった。
 問答無用で面会謝絶されたのは初めてだ。
 お腹でも壊したのかな…。

 この時は、その程度にしか考えていなかった。





「最近、白柳くんと一緒に来ないよね」

 ひかりの指摘に、ハンバーグを掴んでいた箸が止まった。

「…アタシ、何かしたのかも」
 あの日以来、朝、陽に会わなくなった。
 朝練がない日に家に行ってみても、いない。
 
 失敗作も、食べてもらえない。
 疲れているだの腹が減っていないだのと、何かしらの理由を付けて断られるのだ。
 最近はもう諦めて、隣の家にお菓子をもって行くことはなくなった。

 明らかに避けられてる。

「心当たり、ないの?」
「全く」

 あれば、何かしらの行動を起こせたかもしれない。
 陽が分からない。
 ケンカなら、数え切れないほどしてきたのに…。

「聞いてみればいいじゃない、避けられる理由」
 ひかりは珍しく気遣わしげに言った。
「…アタシもそうすべきだと思うよ。けど…」

 あんな陽は初めて見る。
 怒っているのではない。呆れられているのでもない。

 ただ会いたくない、と全身で言っている。

「拒絶されそうで、怖いんだ…」

 傍にいるのが当たり前だった。
 いなくなるなんて、考えたこともなかった。

「結月がうるさくないと調子狂う。早く元通りになりなさいよ」
 相変わらず淡々と言うひかりだけど、今はその言葉が胸に染みた。





 バレンタインまであと4日。
 今日も、部活をサボってしまった。
 陽に避けられたままで、とてもじゃないがそんな気分にはなれない。
 
 少しも上達しないお菓子づくり。
 作ったって陽がいないんじゃ、ほとんど捨てられてしまうだけだ。

 ロッカーから履きなれたローファーを取り出し、溜め息とともに地面に落とした。

「倉谷さん」
 背後から呼ばれて、振り返る。
「もう作らないの?お菓子」

 新井くんは小さく微笑んでいた。

「ちょっと…疲れてて」
 笑い返してみるけど、上手くできただろうか。自信がない。
「最近元気ないね」
「え?」

「俺、おっきい声で笑ってる倉谷さんが、好きなのに」

 背が大きめのアタシと、そんなに大きい方じゃない新井くん。
 視線を上げれば、すぐ傍に彼の顔があった。
 その顔が、赤く染まってく。

 いつかの、教材を持ってくれた彼もこんな感じに真っ赤だった。

 あの頃は、まだ2年になったばかりだったんだよね。
 初めて女の子扱いされたことが嬉しくて、新井くんが王子サマに見えて。
 舞い上がっていた。

 なんだかついこの間のことみたい。

 思い出していたら、突然手を引かれて足がもつれた。
 頬が新井くんの肩に当たる。

 ごめんっ…!って慌てて離れようとして。


「…陽……!」

 指定のカバンを肩に引っ掛けて、ロッカーに面した廊下に立ち尽くしてるのは…見間違えようもない。
 アタシの…最近の悩みの種。

 新井くんが制服でここに来た時点で、気付くべきだった。
 今日はサッカー部、休みなんだ…。
 陽は無言で私たちの隣をすり抜けた。
 じゃーなって気まずそうに言う新井くんの方は振り向かず、手を挙げて立ち去る。

 それを、呆然と見送ることしかできなかった。





 久方ぶりのベル音が鼓膜をゆらす。
 散々躊躇した挙句、震える指でなんとかボタンを押した。

 本当は怖くて仕方ないし、今日は下手くそなお菓子もないけれど。
 陽と仲直りしたい。

―――今すぐじゃなくていいから。俺のこと、考えてみて。

 さっき聞いた新井くんの言葉が、何度も頭の中でリフレインする。
 ずっと望んでいた。こうなることを。
 4日後には本命チョコを渡すつもりだったのに。
 どうしてアタシ、素直に喜べないの…?

 どうして、ずっと好きだった人に告白されたことよりも、陽が目を合わせてくれないことを気にしてるの?

『ハイ〜どちら様?』
 インターホンから明るい声が聞こえた。
「あ、おばちゃん?結月だけど、陽…いる?」
『あらーちょっと待ってね。陽ー?結月ちゃんよ!上がってもらうわね!』

 幸か不幸か。いつもは仕事の関係で遅くまで家に帰らないおばちゃんがいてくれたことで、門前払いを食らわずにすんだ。

「陽、部屋にいると思うから、行ってあげて」
 おばちゃんは、何でもないことのように笑顔で言うけど、今のアタシには難題。

 勝手に上がってくるなって追い返されるかもしれない。
 最悪、口もきいてもらえないかもしれないのだ。

 見慣れた階段を上がって、2階の廊下を歩いた突き当たり。
 一番奥のドア。

 すう、と息を吸い込んで、吐いて。
 コンコン、と小さくノックした。

『どーぞ』

 ドア越しでくぐもった陽の声。
 そうっとドアを開けると、陽はデスクに向かっている。
 勉強中に、邪魔しちゃったかな…。
 けど、勇気を出してここまで来たのだ。
 避けられている理由を聞いて、仲直りするまで…絶対に帰ってやるもんか。

「おじゃまします」
 ベッドに腰掛け、来ていたコートを脱いで、ブランケット代わりに膝にかけた。

 陽はアタシの方をチラリとも見ずに、背中を向けている。
 それが、酷く癇に障った。

「ちょっと!この間からアタシのこと、避けてるよね?」
 口をついて出たのは棘々しい言葉。
「気に入らないことがあるならハッキリ言いなさいよ」
「……」
 シャーペンを動かす手を止めて、陽がこっちを向いた。
 その顔は無表情。

 陽、何考えてるの?…やっぱり、分かんないよ。

「アタシが作ったお菓子…もういらないの?」

 喉の奥から熱い塊が込み上げて、声が震えた。
 陽のことが大事。
 顔を合わせれば憎まれ口ばかりだけど、かけがえのない幼馴染。
 近くにいすぎて…こんなことになるまで気がつけなかった。
 
 顔を見られたくなくて、身体を壁の方に向ける。
 泣いたのは、幼稚園以来だった。


「いるだろ」
「え?」

 何が、と聞き返そうとして振り返るけど、デスクに姿がない。
 ギシって、ベッドのスプリングが軋んで、隣に陽が座った。

「失敗した菓子の貰い手。オマエが作ったモノなら、新井が喜んで貰ってくれるだろ」
「どういう意味…っ」

 言いかけた唇を、塞がれた。
 塞いでいるのが陽の唇なのだと理解するまでに、数秒かかった。
 触れるだけの口付けの後、乱暴に肩を押され、仰向けにベッドに倒れこむ。

「今日のアレ、告白だろ?良かったじゃん、両想い」

 いつものひねくれた言い回しじゃない、ストレートな言葉。
 だけど、全然気持ちがこもってない。

「結月…」

 陽の掠れた声に、ぞくり…と背中が粟立つ。
 
 アタシの名前……結月、って陽の口から聞いたの、いつ以来だろう。
 小さい頃は、当たり前のように名前で呼び合っていたのに。
 陽だけが、いつの間にか『オマエ』って。
 
 別にそう呼ばれるのが嫌なワケじゃなかった。
 年頃の男の子にとって、女子のことを呼び捨てにするのは、いくら幼馴染とはいえ恥ずかしいのかもって、特に気にしてもいなかった。

 なのに。
 どうして、今…そんな、辛そうな顔で…呼ぶの…?

「新井のこと、好きなんじゃねえの?
 …こんな時間に、他の男の部屋に独りで来ていいわけ?」


 アタシを見下ろす陽の顔。
 見たことない、男の人のカオ。
 辛そうに眉間に皺を寄せて、真っ直ぐに見つめてくる瞳に、胸がざわざわした。
 見ていると、きゅううって喉の奥が狭まって。
 熱い何かが込み上げて、全身に広がって……泣きたくなる。

 逃げなきゃ…!そう思うのに、押さえつけられた腕を、ピクリとも動かせない。



 再び距離を詰められて、唇を奪われた。
 二度目は、触れるだけのキスでは、終わらなかった。

 表面をなぞられ、わずかに開いた隙間から、生温かい舌を入れられる。
 ゆっくりと、優しく口内を探られて…肩が震えて。
 思わず短い息が漏れる。
 湿った柔らかい感触に、また、きゅう…って甘い感覚が全身を走りぬけた。

 唇と腕。
 陽に触れられているところが、異常に熱をもっているのが分かる。
 こめかみを伝う涙だけが、唯一冷たい。

 力…入らない…。



「……悪い…」

 不意に唇が離れ、ぼーっとしたまま陽を見上げた。
 陽はバツが悪そうに、アタシを解放し顔を背ける。
「もう、帰って」
 床に落ちていたコートを手渡され、促されるままに部屋を出た。

 ファーストキス…奪われてしまった。
 自分の部屋に戻っても、心臓はなかなか静まらない。

 アタシにとって陽は、友達でも恋人でも男の子ですらもない、兄弟みたいなもの。
 ほんの数分前まではそうだったのに。
 





 ひかりにアドバイスしてもらって、可愛くラッピングした包み。
 カバンの中に入っているそれを、手で確かめた。

「新井くん、今…少しだけ、いい?」
 
 バレンタインに、体育館の裏なんてベタな場所に呼び出されて。
 アタシの言葉を聞いた後、新井くんは俯き、それでも…別れ際には少しだけ微笑んでくれた。





 すっかり暗くなった空を見上げ、白い息を吐いた。
 今日は快晴だったから、星がキレイ。

 防寒してきたとはいえ、2月の寒さは堪える。

 うう…早く帰ってきてくれないかな…。


 「うわっ!オマエ…何してんだよ!?」

 制服にジャケットを羽織り、マフラーを口元まで引き上げた陽。
 予想どおりの反応に、ちょっと笑みが漏れた。

 「遅かったね。女の子に捕まってチョコ貰ってたの?」
 「……」
 陽は視線を泳がせ、ぐいって鼻を擦る。
 やっぱりね。いつもより遅いから、そうだろうと思った。
 図星を差されたときに陽がする、幼い頃からのクセは、まだ健在だ。

 「ハイ、これ」

 今日1日、カバンに入っていた包みを無造作に放った。
 慌ててキャッチした陽の表情が、固まる。

 「言っとくけど、義理じゃないからね」

 いつ渡そうかと散々迷った挙句、結局学校では渡せなかった。
 誰にも見られずに渡せる方法を考えて、部活後の陽を、家の前で待ち伏せ。
 ストーカーみたいでちょっと気が引けたけど…。

 生まれて初めて本命を渡すっていうのに、可愛いセリフの一つも言えない。
 でも、義理じゃないって、意味は…さすがに分かってるよね。


「結月!」

 恥ずかしさでどうにかなってしまいそうで、さっさと背を向けたアタシの手を、陽が捕まえた。

「すっげー…嬉しい。サンキューな」

 バカ。反則だ。
 そんな、子どもみたいな笑顔。

 アタシの顔を見てさらに笑みを深めた陽は、
「リンゴみてぇ」
 フッて、吹き出して声をあげて笑った。
 それは、幼い頃から当たり前のように傍にある、日常だったけど、

 怒ったアタシの頬、掠めるようにされたキスに、ちょっとだけ非日常が始まる予感がした。











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