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「よし…これで終了」

 これからの生活の拠点となる木造2階建ての建物。今日からここが我が家だ。
 お世辞にもキレイとは言いがたい、はっきり言ってしまえばボロい物件だが、家賃は3万5千円。県の中心部に位置すると考えれば格安だった。

「あとは私だけで大丈夫。二人ともありがとう」
 父と母にお礼を言って別れる。
 それにしても、部屋が1階で良かった。2階に冷蔵庫などの大きなものを運び込むのは至難の業だっただろう。
「今日中に片付けてしまおう」
 テキパキと作業に取り掛かれば、ものの3時間もしないうちに引越しは完了した。
 私物がほとんどないため、6畳一間でも広すぎるくらいなのだ。
「マロ、ちょっとスーパーに行ってくるから、留守番頼むね」

 まだ生活感のない部屋に1匹だけ残った家族に話しかける。ナ…と短く返事を返した愛猫を一瞥し、羽海はアパートを出た。
 3月下旬の夕方の風はひんやりと気持ちいい。 今日は特別温かかったせいか、自転車で川沿いの道を走っていても寒さは感じなかった。

 えーっと…とりあえず、一通りの食材と…調味料を買って…。

 …って…高い…!
 初めて行く街のスーパーで、物価を目の当たりにした羽海は固まった。
 こんなに値段が違うものなのだろうか。
 地元の行きつけのスーパーで100円以内で買えるものが、150円もする。
 伸ばした手を思わず引っ込めてしまうほどの価格差。かと言って、買わずに帰るわけにはいかない。ついさっき電源を入れたばかりの冷蔵庫は、空っぽなのだから。
 仕方ない…。
 しぶしぶ必要最小限のものだけを選りすぐり、カゴに入れた。





 ――ピンポーン
 昔ながらの玄関のベル音が響く。
 年季の入ったこの建物に、インターフォンなどというハイテクな設備は存在しない。来訪者を確かめる術は、小さな丸い覗き穴のみ。
 ドアの前でしばらく待っても、住人が出てくる気配はなかった。

 ここの人も留守か…。これで3人目だ。
 引越しの挨拶に来たものの、人が住んでいるはずの部屋からは物音が聞こえない。
 街で一人暮らしといえば、自分のような比較的若い人が多い。夜よりも昼間に訪ねた方が良かっただろうか。

――ピンポーン
 また留守かな…。期待薄で押した最後のドアベルの後には、はーいとすぐさま声が聞こえた。
 思わず背筋を伸ばし、笑顔を作る。
「ハイ」
 ドアから顔を出したのは羽海と同じくらいの年の、男性だった。
「あ…あの!101号室に越してきた者です。これからよろしくお願いいたしますっ!…これ、よろしければ貰ってください」
 緊張気味にそれだけ言って、台所用洗剤の入った袋を差し出すと、男は笑った。
「こっちこそ、よろしくお願いします。真崎蒼(アオ)です」
 大きめの二重の目が細くなり、口端が上がる。爽やかでいて、人懐っこさを感じさせる笑顔に、羽海の緊張が少し解れた。
 この人とならうまくやっていけそうだ。
 ほっとした羽海は、じっとこちらを見つめる蒼の、ダークブラウンの瞳を見つめ返す。

「もしかして、矢吹じゃない?」
「あ、はいっ!矢吹羽海と申します」
 初対面の相手に名を当てられ反射的に返事をする。
 相手に名乗らせておきながら、自分が名乗るのを忘れていたと今更ながら気付いた。
 あれ…?でもどうして名前を知っているのだ……?

「やっぱり、そうだと思った!西川崎高校だったっしょ?」
 心中の疑問に答えるかのように蒼が尋ねてくる。
 その顔はニコニコと笑みを絶やさない。
「はい、そうです。と言うことは…」
「俺も西川崎」
「…そうだったのですか…!すみません……。思い出せなくて…」
「いーよ、そんなん謝らなくて。矢吹と同じクラスになったことなかったし、当然じゃん」
 爽やかに言い切るあたりに人の良さが感じられた。

「それじゃ、どうしてあなたは私のこと、知っていて下さったのですか?」
 記憶にある限り、関わったことはないはずだった。
 そもそも高校時代にこんな好印象な人と出会っていれば、忘れるはずがない。

「そりゃー…矢吹、俺らの学年じゃ有名だったし」

 有名。それはおそらく、あまり良い意味で、ではない。
 羽海は昔から少々、いや、かなり人とずれているところがあった。
 まず流行に興味がない。テレビをあまり見ないし、服にもメイクにも恋愛にすら、無頓着。
 友人と関わることは好きだったが、いかんせん話が合う人が少ない。
 周りは自然と、羽海を“変わった子”と認識するようになった。
 いじめこそなかったが、派手なタイプの同級生には敬遠されてきたように思う。

 当然のことだったのかもしれない。趣味と言えるのは、猫の世話と、貧乏な家のために安く日用品を購入できる店を探すことくらいなのだから。

「あ、日用品…」
「え?」
「あの…真崎さん、このあたりで食品を安く買えるところ、知りませんか!?」
「食品?」
「はい!」
 力強く首を縦に振る羽海を見て、蒼は盛大に吹き出した。
 腹を抱える彼に、唖然とすることしかできない。何かおかしなことを言っただろうか。
「矢吹、おもしれーな」
 蒼はひとしきり声をあげて笑った後、涙の滲む目尻を親指で拭った。

「どっか行ってきたの?」
「川沿いの大きなスーパーに行きました」
「あそこは品揃えはいいけど値段はあんまりかな。もう少し行ったとこの、ちっちゃいスーパー。そこすげー安いよ」
 『すげー安い』と聞いて、羽海の目が輝く。
「ありがとうございます、助かりました!このご恩は必ずお返しします!」
 大げさな羽海を見て、蒼は再度面白そうに笑みを深めた。

「じゃーさ、お返しにって言ったらアレだけど、“真崎さん”って呼ぶのやめてくんない?」
「はあ…それは、構いませんが…」
 何と呼べばいいだろうかと思案していると、少し高い位置から柔らかい声が降ってくる。
「蒼でいい」
「え…」
「友達は男も女もみんなそう呼ぶから、その方がしっくりくるんだ」
「でも……呼び捨ては抵抗があります。蒼さんではダメですか?」
 人の名前を呼び捨てにするなど、今までにない。
 ましてや、初対面の人にいきなりそんな恐れ多いこと、できるわけがない。
「蒼さんー?……何かヘンだけど…ま、いっか。真崎さんよりは」
 腕を組んで、不服そうにしている割には楽しげだ。この人の周りには人が集まりそうだと羽海は密かに思った。

「それでは改めまして。蒼さん、これからよろしくお願いいたします」





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