勤務先の百貨店では、制服が貸与された。
私服で来いと言われなかったことに羽海は内心安堵していた。
来年度からの勤務先を一目見ておこうと、アパートの近くの百貨店を訪れたときのショックは、今だ記憶に新しい。
流行のファッションに隙のないフルメイク。若い女性社員の大半がそれに当てはまる。客もそれなりに身なりに気を使っている中、地味な出で立ちの羽海は完全に浮いていた。
担当が子ども服売り場で良かった。婦人服の売り場などに当たっていたら、間違いなく石つぶてが飛んでくることだろう。
「矢吹さん、裏で新商品のチェックしてきて」
「はい」
「ゆっくりでいいわよ。お昼までかかっても構わないから」
「……はい…分かりました」
誰もいない在庫置き場での検品作業。その合間に、ふう、と一つ溜め息が漏れた。
働き始めて早2週間。上司に裏方作業ばかり頼まれる理由に気がつかないほど鈍くはない。
「終わりました」
「…速かったわね」
上司である加瀬雛乃(ヒナノ)は、戻ってきた羽海を見てあからさまに眉間に皺を寄せた。
「そんなに多くはなかったので」
「じゃ、あっちの隅の方で乱れてる商品をおたたみしてて」
「はい…」
それは、お客さんの前に出るなということだろうか。
落ちていく気持ちを何とか奮い立たせ、洋服を手に取った。
くるりと大きな瞳に長い睫、染めているのにダメージがなく艶々とした髪、華奢な身体。
雛乃は絵に描いたような『可愛い女の人』だ。
羽海の2つ年上、26歳であるにも関わらず、彼女にはその単語がしっくりくる。
『加瀬さんみたいにメイクが上手くなりたいわ』
『彼女、オシャレだよね。私服、見たことあるんだけど、何て言うかねー…自分に何が似合うのか分かってる着こなしだった』
『さすが。あの年で部門リーダーやってるだけはあるってことね』
以前、先輩社員たちがそう話していた。
確かに雛乃の化粧は濃すぎず薄すぎない。、元々可愛らしいのであろう顔立ちをうまい具合に引き立てている気がする。最も、羽海にとっては関心の薄い分野なので、詳しいことは分からないけれど。
業務が終わり、更衣室で着替えていると、雛乃が入ってきた。
お疲れ様ですと声をかけたが、聞こえていなかったのか、あるいは返事をする気がないのか、雛乃は無言で素通りだ。
後者ではありませんように。
その願いは残念ながら叶えられることはなさそうだが、それでも思わずにはいられない。
やっとありつけた就職先。できることなら敵は作りたくない。
「お先に失礼します」
着替えを終えて、今度はさっきよりも声を張ってみる。
雛乃はゆっくりとこちらを振り向いた。
カットソーの上にコート。ジーンズにスニーカー。どれも千円から二千円程度の格安品。
そんな普段着姿の羽海を上から下へと一通り眺めた後、雛乃は盛大に顔を歪め、視線を逸らせた。
「お疲れ様」
これほど素っ気ない挨拶があるだろうか。
こちらを見もしない、突き放すような冷ややかな声。
『気に入らないことがあるなら言ってください』
喉元まで出かかったその言葉をなんとか飲み込み、踵を返す。昼間の温かさが嘘のような冷えた外気に身を縮めた。
アパートに帰れば、夕食を待ちわびたマロが出迎えてくれるだろう。
コートの首元から吹き込んでくる冷気に耐え、ひたすら自転車を走らせた。
*
「おはよ。今日もぴったり5時半だな」
羽海がジャージ姿で部屋を出ると、目の前の駐車場に蒼がいた。
もうすっかりお馴染みとなった爽やかな笑顔で。
「おはようございます。また付き合ってくださるのですか」
「うん。運動しないと、最近マジで危ない」
このへんが。と腹の辺りを指差し、蒼が苦笑する。
服の上から見れば引き締まって無駄な贅肉などなさそうな身体に、首をかしげた。
「まだ余裕だと思います」
「だといいんだけど」
「蒼さんがいてくださると一人で走るより楽しいので、私としては嬉しいですけど…」
「そう言ってもらえると有難い」
蒼と一緒に朝のジョギングをするのは今日で5度目。
一緒に走ってもいい?との言葉通り、蒼はたまにこうして朝の駐車場で待っている。
「今日もいい天気だな」
「予報では今週いっぱいは晴れだそうですよ」
「お、やった。雨降ってるとテンション下がるんだよなー」
「どうしてですか?」
「傘持つの面倒じゃん」
当然と言わんばかりの蒼に、思わず笑いが漏れる。
こうやって走りながら会話をすることで、少しずつ彼のことが分かってきた。
A型なのに少々大雑把。人と話すことが好き。食べものの好き嫌いはないけれど、紅茶だけは苦手。
「私は好きですよ。雨の日独特の匂いとか…傘に当たる雨音とか」
「……ふーん…なんか、らしい言葉」
「そうですか?」
「うん。矢吹が何かを嫌がってるとこって、想像つかない」
二人分の足音が澄んだ早朝の空気の中に響いて消えてゆく。
時間が早いからだろうか。辺りには、犬の散歩をする老人さえいない。
「矢吹ならさー例えばゴキブリとかでも、いいとこ見つけて可愛がれそう」
「…それは……褒めていただいているのでしょうか」
「そのつもりだけど?」
並んで走る人の表情は他に何があるのだと言いたげだ。
私はそんな聖人君子のような人間では、決してないのに。
何となく恥ずかしくて、次の言葉を継げなくなってしまった。
蒼は、先入観や偏見で人を見ない。
まだちゃんと知り合ってから半月しか経っていないけれど、言動から伝わってくる。
昔から地味で、外面を飾らず、遊ぶことに興味がなかった羽海。
学生時代は異質な存在として、あることないこと噂されたりもした。そして大抵の人は噂を頭から信じ、羽海と積極的に関わろうとはしない。…それで良いと、思っていた。
だけど…蒼は、違った。
思えば最初から。
―――矢吹、おもしれーな
変。ズレている。そんな風に言われ続けてきた中で。
その異質さを"面白い"と表現した人は、凛を除けば、彼だけ。
いつものコースを走り終え、駐車場で荒い呼吸を整える。
ふと隣を見やれば、思いのほか近くで蒼の視線とぶつかった。
「なんか今日、元気なくない?」
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