06





 いかにも女性が好みそうなデザインの、スティック状のそれを、クルクルと回した。
 すると、ローズピンクの塊が顔を出す。
 それを恐る恐る口元に近づけてなぞると、唇の色が濃くなった。

 こんな感じで…いいのだろうか。
 化粧と言えば、経験があるのはファンデーションと…眉を描くくらいだから。
 本格的なメイク――最も一般女性にとっては普通なのだが――をするには知識が足りなかった。

 給料日だった昨日、仕事終わりにATMに寄り、ドラッグストアへ足を運んではみたものの。
 化粧品コーナーの多いこと。一体どれを選んでよいのやら、皆目見当がつかない。
 親切なアドバイザーと、そしてお財布とも相談し、やっとこさ一通りのメイク道具を揃えたのだ。

 そして今日、パッケージの裏の説明書きと鏡を交互に見て、やっと化粧が完成したのは出勤時間の5分前。
 何て時間のかかる作業なのだ。
 しかも、ものすごく細かくて、難しい。
 雛乃をイメージしてやったはずなのに、出来上がった顔は全く別次元のような気がする。
 かと言って、今から直す時間はないのだ。とりあえず今日はこれで出勤するしかない。

 ガサガサと目の上でかさ張るまつげを気にしつつ、羽海は自転車にまたがった。





「矢吹さん…ちょっと来なさい…!」

 早番のスタッフが来る前に、店内の掃除を終え、新商品のチェックをする。
 日課となった作業の途中、聞こえてきた声の方を見やると、眉間に皺を寄せた雛乃が立っていた。

「あ、加瀬さん。おはようございます」
「のん気に挨拶してる場合じゃないわ。ちょっと一緒に来て」

 ただならぬ雰囲気の彼女に気圧され、連れて行かれた先は従業員用の女子トイレ。
 雛乃は持っていたバッグの中を探り、羽海の目の前に携帯用ウェットティッシュのようなものを突き出した。

「落として」
「え?」
「そのメイク、落としなさいって言ってるの。これで顔を拭けば落ちるから」
「え…!やはりこれではいけませんか?」
「そうね。少なくともお客様の前に出られる顔ではないわ」
「……」

 せっかく道具を買ったのに、これでは前と何も変わらないではないか。
 しゅんとうな垂れ、化粧を落とし始める羽海に、雛乃が訊ねた。

「メイク道具、持って来てる?」
「…いいえ。家に置いてあります」
「これからは会社にも一通りのものは持ってきて。仕事をしていればメイクは落ちてくるから、その都度直さなきゃならないわ」
「…そう…なのですか」
 化粧をするということは、思った以上に大変そうだ。
 スッピンに戻った羽海の顔を自分の方に向かせ、雛乃は手早くファンデーションをのせていく。

「あの、それは…加瀬さんの物では…」
「あなたのがないんだから仕方ないでしょ。今日だけ特別よ」
「あ、ありがとうございます…!」
「メイク中は顔を動かさないで」

 キッと羽海に睨みをきかせ、真剣な顔で手を動かす雛乃。
 すみません、と思わず口から出そうになった言葉を何とか飲み込んだ。

「眉を描くときは、ペン先を強く押し付けすぎないこと。いかにも描きましたっていう眉毛じゃなくて、自然な仕上がりになるから」
「…」
「あなたの顔の造りだったら、マスカラは控えめにした方がいい。それから、アイラインも細めに引いて。チークはさっきの色でいいと思うから、もう少し上の方にのせて……これでいいわ」

 鏡に映る自分は、先ほどとは比べ物にならないほど上品な印象になっていた。
 同じ道具を使っていても、これほど違うものなのか。

「すごいです…加瀬さん…。私じゃないみたいです…!」
「大袈裟ね」
「いえ、本当に!これならお客様にも気分良くお買い物をしていただけますね」

 これからますます仕事を頑張れそうだ、と。
 笑顔になった羽海を見て、雛乃がほんの少しだけ微笑んだ。それに目ざとく反応したのは羽海で。

「あ!今、笑ってくださいましたねっ!すごく…可愛いです!」
「な…っ!笑ってなんてないわ!」
「いいえ、確かに見ました。加瀬さんはお客様にだけじゃなく、従業員の皆さんにもその笑顔を見せていくべきですっ!…とっても…素敵ですよ」

 くしゃりと顔を崩し、真正面から邪気なく紡がれる羽海の言葉に、雛乃は頬を染める。
 それをまた可愛いと言えば、調子に乗らないで!と一喝されたけれど。
 今までずっと遠かった彼女との距離を、一気に縮められた気がした。





 梅雨が近づき、じめじめと蒸し暑い日が増えてきた。

 仕事を終えアパートに帰ると、いつものようにお腹を空かせたマロが擦り寄ってくる。
 顎の下を撫で、餌用のトレイにキャットフードを入れた。
 ここでいつもならすぐに夕飯の支度をし始める羽海。
 その彼女が、再び玄関から出て行こうとするのを不思議に思ったのだろう。
 小さな頭がトレイから離れ、羽海をじっと見つめている。

「ごめんねマロ、今日はもう少しだけ留守番しててね」
 寂しげにナーと鳴くフワフワの体を抱き上げてそっと頬を寄せた。


 事の発端は、今朝。日課のジョギングをしようと外に出たところから始まる。
 最近、長袖ジャージからTシャツへと衣替えした蒼が、準備体操をして待っていてくれた。

「よ」
「おはようございます」
「蒸し暑くなってきたなー」
「はい。走るのは辛いですが、後のシャワーは気持ちいい季節ですね」

 いつものように取りとめのない話をしつつ、コースを走り終えて。
 それでは今日もお仕事頑張りましょう、と羽海が部屋に戻ろうとした時。

「あのさ、矢吹が良ければだけど、今日…買い物に付き合ってくれないかな」
 蒼が出し抜けに切り出した。
「仕事が終わってからでしたら大丈夫ですよ」
「ホント!?助かる!来週、中学生の妹の誕生日で。毎年プレゼント買ってるんだけど、そろそろ難しい年頃だから…同性の意見が聞きたくてさ」
 お礼に晩飯奢る、と言う蒼に、羽海はブンブンと首を振った。
「気にしないでください。蒼さんの妹さんのためなら喜んでお手伝いします!」

 そんなわけで、急遽、プレゼント選びの付き添いをすることになったのだ。
 流行を知らない自分が役に立てるのかどうか、いまひとつ不安ではあったけれど。
 それでも、頼ってもらえるのは素直に嬉しかった。


 待ち合わせしたアパートの駐車場で、陽が沈み、薄紫色に染まる空を見上げる。
 昼と夜の境目。
 幼い頃は、よくこれくらいの時間までいとこと遊んだものだ。

 ぼんやりしていた羽海の耳が、近づいてくるエンジン音を拾った。
 駐車場の前で停まった車。中で手招きする蒼に気付き、急いで駆け寄る。

「悪い!待たせた―――」
 車から降りて助手席のドアを開けた蒼が、言葉を失くし固まった。
「どうかしましたか?」
「…」
「あの、蒼さん?」
「あ…ごめん」

 再度呼びかければ我に返ったらしい蒼。
 さりげなく視線を逸らされたのは、気のせいだろうか。

「化粧してる?」
「あ、はい。仕事のときだけ。最近覚えたばかりで、まだ慣れないんです。…変ですか?」
「や、全然。似合ってると思う」
「……!」

 似合うと言われて嬉しい。と同時に無性に照れくさくもあった。
 発進した車の助手席で、少しだけ顔を伏せる。
 そういえば、メイクをしている時に蒼と会うのは初めてだ。
 大抵は起きてすぐ、洗顔をしただけの状態で顔を合わせているから。
 そう、今朝だって、ファンデーションどころか下地もつけていない正真正銘のスッピンで…。

 そこまで考えたところで、急に顔が熱を帯び始めた。
 素顔で蒼と会っていた。そう思うとなぜか、むず痒いようなやりきれないような気持ちが込み上げて。

 どうして…?今まで当たり前にしていたことなのに。

 羽海は不可解な感情を持て余したまま、ハンドルを操る蒼の横顔を眺めた。





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