散々迷った末、誕生日プレゼントはルームフレグランスに決まった。
香り液が入った小瓶に花を差すと液が花を伝い、辺りに香りが広がる仕組みだ。
瓶のデザインが凝っているので、香りがなくなってもインテリアとして飾っておける。
「今日はありがとな。お陰で良いもの見つかった」
アパートへと車を走らせつつ、蒼が礼を言った。
「そんな、私は何もしてません。それに、ああいうお店は初めてだったので…楽しかったです」
「ホント?なら良かった」
「自転車では行けない距離ですし…こちらが感謝したいくらいですよ」
目の前の大きな交差点。信号が赤に変わり、車が停まる。
平日だというのに夜の繁華街は人通りが多い。歩行者信号が青に変わるやいなや、たくさんの人が目の前を横切っていった。
「じゃあさ…また、行く?」
「え…?」
「矢吹が行きたい時に。俺はいつでもいいよ?」
「……そ…んなこと…悪いです」
目の前にはいつもの爽やかで、人懐っこい笑顔。
なのに…じっと見つめられ、なぜか鼓動が速くなる。
車のシートって、こんなに近かったっけ…?
行きとは違いすっかり暗くなってしまった車内を、沈黙が支配する。
それを破ったのは蒼だった。
「そう言うと思った」
「……え?」
呆ける羽海に笑みを深めた蒼からは、今しがたの真剣さは跡形もなく消えている。
「でもさ、ホントに遠慮なく言って。ホラ、矢吹には肉じゃがもらった恩もあるじゃん。俺いつでもパシられていーし」
なんだ。…そういうこと。
再び発進した車の助手席で、フロントガラス越しに景色を眺める。人工的なネオンで埋め尽くされた街が酷くよそよそしく見えた。
驚いた。また一緒に行こうと…誘われたのかと思ってしまって。
肉じゃがのお礼なら話は別だ。きっと、車だけ出して別行動をするつもりだったのだろう。
自分の早とちりが無性に恥ずかしい。
それからは、お互い一言も話さないまま、アパートに着いた。
「ホント今日はありがとな」
「いいえ。妹さん、喜んでくれるといいですね」
羽海の部屋、101号室のドアの前。
それでは、とドアノブにかけようとした手を、取られた。
ふわりと包み込むように、どこまでも優しい触れ方。心臓がまた、暴れ始める。
「矢吹、目…瞑って」
朝の光の下で見る蒼は、すごく爽やかで、キラキラしている。
だけど、今は…。
廊下に申し訳程度に備え付けられた、頼りない蛍光灯の光に照らされる彼。
それはどこか魅惑的で、深いダークブラウンの瞳は、ある種の危うさを感じさせる。
どうして?と訊けなかったのは、そのせいだろうか。
言われるがままにそっと目を閉じた。
暗くなった視界が、羽海に本能的な心もとなさをもたらす。
何を…されるのだろう。先ほどから速かった鼓動に追い討ちがかかる。
そろそろ心臓が壊れてしまうかもしれない。本気でそう思いかけたとき。
掴まれていた方の掌に、冷たいものが触れた。
「もう開けていいよ」
ゆっくりと戻ってくる視界。羽海の手の上には花が乗っていた。
冷たく硬い感触は、花の裏側に付いている金具だ。
「これ…さっきのお店の…」
見間違えようもない。羽海が購入を断念したヘアアクセサリー。
「付き合ってくれたお礼」
「こんな…悪いです。今日一緒に行ったのは…」
「頼まれたから仕方なくじゃなくて、私がそうしたかったから…だろ?」
言わんとしていたことを当てられ、羽海はたじろいだ。
蒼が、フッと破顔する。
「じゃあさ、お礼じゃなくて、俺があげたかったから。それでもダメ?」
「……でも」
「さっき店で、矢吹がこれ眺めてるの見て…似合いそうだと思ったんだ」
「……」
「俺に返されても捨てるしかないからさ、貰って?」
その一言が決定打だった。
掌に乗ったブラウンの花をそっと握る。
「……ありがとう…ございます」
申し訳ないけれど、嬉しい。そんな複雑な顔で礼を言った羽海を見て、蒼は眉尻を下げた。
「じゃ、おやすみ」
「…おやすみなさい」
玄関のドアを閉めたとたん一気に力が抜けた。靴を脱ぐのも忘れ、へなへなとその場に崩れ落ちる。
階段を上る蒼の足音を聞きながら、貰ったばかりのそれを、そっと両手で包み込んだ。
今朝、食事を奢るという申し出を断ったから。
だから蒼は、こういう形で…絶対に断れない方法で、お返しをくれた。
ただそれだけのこと。…これは、彼の優しさ。
分かっている筈なのに――
主の帰宅に気がついたのだろう。部屋の奥から小刻みな足音が近づいてくる。
電気もつけずに玄関で座り込む羽海の膝に、小さな温もりが乗っかった。
「どうしよう…マロ…。私…」
―――似合いそうだと思ったんだ。
優しいトーンで紡がれた蒼の言葉は、しばらく頭から離れてくれそうにない。
*
「凛ちゃん、いつもどこで服買ってる?」
「は…?」
久しぶりに凛と休みが重なった日。待ち合わせた喫茶店で、見るともなしに窓の外を眺めていた。
道ゆく人々の装いは、もうすっかり夏のそれだ。
そんな中、若い女性は、皆一様にお洒落な服を身にまとっている。
たった今、羽海の目の前にやってきた凛も例外ではなくて…思わず考えていたことが口を突いて出てしまった。
「どうした?熱でもあんの?」
「…ううん」
「じゃあ来る途中にどっかで頭でも打ったか?」
「…全然。平和な道中だったよ」
本気で心配されて、羽海は自分の発言がいかに非日常的だったかを実感した。
二人掛けの席、向かいに座ってアメリカンを注文する凛の格好は、襟元にスパンコールがあしらわれたブラックのチュニックに、ライトグレーのスキニーパンツ、ヒールが少し高めのミュール。
シンプルだが、デザインや素材感から安物ではないと分かる。
キレイでカッコイイ、大人の女性を思わせた。
「駅に好きなブランドを扱ってるとこがあるから、大抵はそこで買ってるけど」
「好きな…ブランド…」
「何?羽海、服に興味出てきた?」
「え…あ…そういうわけじゃ、ないんだけど……」
口ごもる羽海の様子から何かを察したらしい凛が、ニヤリと口角を上げる。
「何なら今から行ってみるか?駅ビルの専門店街」
「え…っ!でも私、お金ないし…」
「オマエが金ねえのは知ってるよ。だからー見るだけ」
「……それなら、大丈夫かな」
羽海がそう言い終わらないうちに、凛は早々と席を立つ。注文したばかりのアメリカンのカップはすでに空だ。
慌てて自分のドリンクを飲み干し、軽い足取りで出口へと向かう凛の背中を追いかけた。
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