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「は…はい…」
 掠れた声でそれだけ言うのが精一杯だった。
 笑おうとしてみたが、果たして上手くできたのかどうか。
 去ってゆく彼女を見送る蒼を、ぼんやりと見つめた。

「久しぶりだな。最近寝不足で朝起きられなくて」
「お仕事、忙しいのですか?」
「うん…でも今がピークかな」
 来月になればもう少し落ち着くと思うんだけど。そう言って苦笑する蒼の顔には、疲労の色が滲み出ている。

「今日は仕事、持って帰ってきたんだ。そしたら作業に必要な資料を会社に忘れてさー…残ってた同僚に届けてもらった」
「そう…だったのですか…」
 先ほどの女性は、どうやらこの辺りに住んでいるらしい。帰るついでに蒼の部屋に寄ったようだ。
 本当にただの同僚ですか?
 そう訊ねたい気持ちを何とか押し殺す。

「あまり無理…しないでくださいね」
「ああ、サンキュ」
 なぜだろう。いつもは眩しい彼の笑顔が、今はキリキリと胸を締め付ける。
 早く自分の部屋に戻りたい。その一心で、それでは、と蒼に背を向けた。

「あ、そういえば。さっきアイツにドーナツ貰ったんだ、差し入れにって。俺一人じゃ食べ切れねえし矢吹もどう?」
「………遠慮しておきます」
 口を突いて出た声は、自分でも驚くほど冷えていた。
「あ…すみません……さっき、たくさん食べてきたばかりで…お腹がいっぱいで…」
 慌てて嘘で取り繕えば蒼はさして気にした様子もなく、そっか、じゃあまたな、と手を挙げた。


 玄関の扉を閉め、フローリングの上に敷かれたラグの上に座った。
 蒼、と親しげに呼ぶ甘ったるい声が、頭にこびりついて離れてくれない。
 まるで恋人同士のような二人のやり取りも。
 分かっている。あれが彼の素なのだ。

 ―――友達は男も女もみんなそう呼ぶから

 引越しの挨拶に行ったとき、蒼が言っていた。だから自分のことは呼び捨てでいい、と。
 証拠に、凛もそう呼んでいる。だから全然、大したことではない。
 そう、頭では理解できているのに……。

 胸の奥が、どす黒いモノに浸食されていく。
 ドーナツなど、勧めないで欲しかった。
 あの人が蒼のために買ってきたものを貰うなんて、できない。したくない。

 聞きたくなかった。"アイツ"なんて…あの人のことをそんな風に呼ぶのを…。

 どこまでも暗い闇に落ちて行きそうになり、はっと気が付いた。
 なんて事を考えているの、私は。
 蒼が女性と二人でいる場面を目の当たりにした。それだけのことなのに、嫌な感情が次から次へと溢れ出てくる。
 今までにはなかった、黒い気持ち。
 蒼とあの女性は恋人同士なのかもしれない。そうと決まったわけではないのに、考えただけで、身を引き裂かれるような辛さが羽海を襲った。

 なんて、嫌な女なんだろう。

 蒼に貰った、可愛らしい花のヘアアクセサリーは
 きっと一生付けることはできない。





「おはようございます!」
「あら、矢吹さん。今日も早いわねえ」

 今朝は、いつもより30分早く家を出た。

 蒼への恋愛感情。そんなものはなくしてしまえばいい。
 それが昨晩考え抜いて出した結論だった。
 彼と自分はつり合わない。そもそも最初からそう思っていたではないか。
 これからはジョギングも、もうやめる。このまま蒼を好きでいれば、自分がどんどん汚くなっていってしまうから。
 それは予感ではなく、確信だった。

「矢吹さんいつもありがとー」
「ホント、助かってるわ」

 笑顔で話しかけてくれるスタッフの方々を見て、思う。
 今は仕事だけに専念したい。今までどおり、実家に仕送りをして、マロの世話をして、週末にはスーパーのタイムセールに走る。
 これでいい。心を乱されることなく、ありふれた日常を過ごすことこそ幸せなのだ。



「あなた、何かあったの?」
「…え?」
「別に気のせいならいいんだけど。今日、何だか無理してる気がしたのよ」
「……」

 仕事を終え、遅番のスタッフに一言声をかけ、羽海が更衣室に向かおうとした時。
 突然雛乃に呼び止められた。
 口調は素っ気ないが、彼女なりに気を遣ってくれていることが伺え、ほっこりと心が温かくなる。

「…加瀬さんから見て…私にはどんな服が似合うと思いますか?」
「…随分唐突ね」
「今更ですが…最近、身だしなみをきちんとしたいと思い始めたんです。しかし今まで機能性と値段だけで服を選んでいたものですから、どれを買えば良いやら見当もつかず…悩んでいまして」

 嘘ではなかった。蒼のことは置いておくとしても、お洒落をしたいと思えたことは羽海にとって大きな一歩だ。百貨店に勤める社員として大切なことでもある。

「あなたに…そうねえ…」
 雛乃は羽海を上から下までゆっくりと眺め、言った。
「カジュアルよりキレイめな服が似合うんじゃない?身長の割に華奢な体型だから、細身のデザインがいいわね。顔も、メイクをすればある程度はっきりしてるし」
「キレイめ…ですか…」
「ええ。ここの3階に入ってるお店なら、値段はそんなに高くないわよ。最近ボーナスも入ったことだし、行ってみれば?」
「…はい!そうします!…ありがとうございます」

 的確なアドバイスは、さすが雛乃と言うべきか。
 仕事に厳しい彼女は何となく近寄りがたいイメージだが、実は面倒見が良い。それが、やっと最近になって分かってきた。
 お世辞を言わず、意見をハッキリ口にするところも、こういうときには有難い。

「矢吹さんが身だしなみのこと、前向きに考えてくれるようになって良かったわ」
 ふわりと微笑んだ上司に、羽海の目は釘付けになった。
 普段真面目な彼女が笑うと、そのギャップに元々の華やかさも手伝い、とても可愛らしい。

「私も、加瀬さんにこんな風に相談できるようになって、嬉しいです」
「…余計なこと言ってないで、勤務が終わったならさっさと行きなさい」

 もう一つ最近になって分かったこと。
 この可愛い上司は、かなりの照れ屋だ。





 思い立ったが吉日。
 着替えを済ませた羽海は、勤め先の3階を歩いていた。
 平日、しかも時刻は夕方6時を過ぎているためか。フロアはそれほど混雑していない。
 客としてここに来たのは、入社前の下見以来だが、相変わらず皆上品な佇まいだった。

 改めて自分の格好を確認すれば、洗いざらしのポロシャツに、安物のジーンズ。スニーカー。
 このままスタイリッシュな店内に入って良いものだろうか。ウロウロと付近を彷徨っていると。

「わ!」
「きゃあっ!」

 突然の声と肩に置かれた手に、羽海は飛び上がった。
 何事かと振り返れば、甘く端整な顔が楽しそうな笑顔を浮かべている。

「さ…桜井さん…!」
「やあ、また会ったね」




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