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「俺と付き合わない?」
「………はい?」

 たっぷり3秒間の空白の後、自分でも聞いたことのない間抜けな声が鼓膜を揺らす。
 何とんでもない事をのたまっているのだこの人は!


 緊張が解れてしまえば、料理はどれも頬っぺたが落ちそうな位美味しかった。
 最後に出されたジェラートにも文句なしの舌鼓を打つ。
 すっかり軽くなった財布の中にはここのお代を払えるほどの資金はない。大変申し訳ないが、上司のご好意に甘えさせていただこう。
 そして何事もなく平和に食事を終えるのだ。そう思っていた。
 向かいで優雅に紅茶を嗜む美形が、その言葉を口にするまでは。


「俺の恋人になってくれないかな?」
「………聞き間違いではなかったのですね」
「理解してくれて良かった。君のことだから『どこへですか?』って返されるのかと…」
「さすがにそこまで鈍くはありません」

 クツクツと楽しそうに笑う上司に目をすがめた。
 年が近いせいか、ノリが軽いせいか。陸が相手だと、つい遠慮のないことを口走ってしまう。
 いや、そうするよう上手く誘導されているようにすら感じる。

「さっきの人は恋人ではないのですか?この間、雑貨店で一緒にいた人も…」
「彼女たちは、恋人…とは少し違うかな」
「じゃあ…」
「君には分からない事情があるんだよ」

 そう言い切る彼の顔には柔らかい笑みがのっていたけれど…馬鹿にされているように感じるのは気のせいだろうか。
 そりゃ、私には異性と付き合うなんて高等な経験はない。
 それどころかつい最近初恋を経験したばかりだ。
 彼の言う事情とやらが何なのか、見当もつかない。
 けれど。

「ごめんなさい。私は、付き合うなら…お互いにこの人だけだと思えるような人がいいです。桜井さんにはそういう人、いませんか?」
「……」

 ふわりと微笑んだ羽海を意外そうに見つめる陸は、
 カップに残っていた紅茶を一口飲み、言った。

「ああ、君にはもういるんだ」

 投げかけられた言葉は、疑問ではなく確信。
 ああ…きっと彼は、人の感情を読み取る術に長けているのだ。

 陸の方が年上とはいえ、ほぼ初対面に近い自分を敷居の高い店に連れてきて。
 最初はガチガチだったのに、彼の笑顔や、話し方、自然なエスコートにいつの間にか緊張が解けて…安心しきってしまっていた。
 相手に話したいと思わせ、気持ちよく話させること。陸は、それが恐ろしく上手い。
 すべては、その類稀なる観察力と、感情の機微を読み取る能力ゆえに。

「い…いません」
 蚊の鳴くような声で繕ってみるがすでに後の祭り。
 したり顔の上司を見て、悟った。
 今さら誤魔化したって手遅れだ、と。

 "この人だけだと思えるような人"
 自分で発したその言葉に、真っ先に思い浮かんだのは、爽やかで人懐っこい、春風のような笑顔。
 しだいに顔に熱が集まるのを感じ、羽海は堪らず俯いた。
 どうして…蒼のことを考えると、こうも露骨に反応してしまうのだろう。

「そろそろ出ようか。君は落ち着いてからおいで」
 優しい声が頭上から降ってきたかと思えば、伏せてあった伝票がキレイな手に攫われる。

「俺も…いないわけじゃないけどね」
 ひっそりと零れた声は、俯く羽海には届かなかった。





 艶々と光沢のある高級車が、アパート近くのコンビニの駐車場に停まる。
 実は行くときもここで拾ってもらった。
 いくら上司とはいえ、知り合ったばかりの人間に住所を知られるのはあまりいい気がしないだろうから、と陸が提案したのだ。
 さすが抜け目がない。口には出さなかったが、こういう気遣いは見習わねばと羽海は密かに感心していた。

「今日はありがとうございました。すごく美味しかったです」
「だからそんなに畏まらなくてもいいって。高いものじゃないし」

 嘘。少なくとも私なんかには一生縁のない値段だったに違いない。微笑む陸にチラリと疑いの眼差しを向けてみる。
 "落ち着いてからおいで"という言葉に素直に甘えた羽海。その間に陸はさっさと会計を済ませてしまっていた。
 女性に負い目、引け目を感じさせる隙すら与えない。ここでも陸の配慮にやられたというわけだ。

「本当に、何から何までありがとうございました。このお返しは必ずさせていただきますので…」
「お返しなら…俺と付き合ってくれればお釣りが出るくらいなんだけどな」
「それは却下です」
「お、段々言うようになってきたね」

 あ…と羽海は口元に手を当てる。
 しまった。また軽いノリにつられた…!どうもこの人と話していると調子を狂わされっぱなしだ。
 口を慎め、相手は社長候補なんだから、と頭の中で繰り返す。学生時代の緩い上下関係とは訳が違うのだ。
 苦虫を噛み潰したような顔で、それでは、と陸に背を向けた時、目の前のコンビニの自動ドアが開いた。

「あれ、矢吹?」
「…蒼…さん…!」
「その格好…」
「…!」

 涼しげなワンピース姿の羽海を見て、蒼は固まった。
 それもそのはずだ。いつもの装いとは随分とかけ離れすぎているのだから。

 着慣れない服を着るのはいい。この数時間でスカートの感覚にも大分慣れた。
 だけど、それを今、他でもない蒼に見られている。
 重苦しい沈黙。やっぱりこんな格好、似合っていなかったんじゃないか。
 とてつもなく怖い。蒼にどう思われているのかと考えると…。

「今まで…一緒だったのか?」
「え…?」
 視線を羽海の背後に向ける蒼。そこにいるのは相変わらず読めない笑顔を浮かべた上司で。

「さっきまで、彼女と食事をしていたんですよ」
 蒼の質問に答えたのは羽海ではなく、いつになく丁寧な口調の陸だった。
「食事…?あんた、矢吹の何?」
「ああ、ご挨拶が遅れてすみません。上司の桜井です。あなたは?」
「真崎…蒼。矢吹とは母校が同じ。今は同じアパート」
「……真崎…」

 ぶっきら棒に名乗る蒼に、陸は少し黙り、そして再び貼り付けたような笑みに戻る。

「これはまた、偶然ですね」
「は?」
「…以前、繁華街の雑貨店でもお会いした」
「ああ、そのこと」
「丁度いい。矢吹さんをアパートまで送ってあげてもらえませんか?」
 この丁重な申し入れに慌てたのは羽海だった。
「ちょ…桜井さん、私は別に…!」
「言われなくてもそうするよ」

 羽海が最後まで言い切る前に、大きな手に手首を取られた。
 途端、口から飛び出しそうになる心臓をなだめすかし、回らない頭で何とか上司に頭を下げる。
 一も二もなく歩き出す蒼。それを急ぎ足で追いかける羽海。


「ふーん…そういうことか」
 形の良い唇から零れた言葉は、誰に聞かれることもなく静かな空気に溶けて消える。

「……しかし、こんな偶然、あるもんなんだな…」

 闇に紛れていく二つの影を見送る陸は、ふ…と楽しげに口の端を吊り上げた。




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