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「蒼さん…少し、待ってください…!足が…っ」
 コンビニからアパートまでの距離は500mもない。それでも、ヒールに慣れない足は、速いペースに悲鳴を上げていた。

「あ…悪い。もしかして怪我?」
「いいえ。ですがこのような靴を履いたことがないので…すみません…」

 蒼はペースを落とすが、その表情は強張ったまま。
 怒ってる…?
 どうしよう……私が…怒らせてしまったのだろうか…。

 大通りから細道に入り、少し歩けば、辺りは闇と静寂に包まれた。
 重苦しい沈黙が痛い。
 いつも…どういう風に話してたっけ…。
 蒼と幾度となく交わした、他愛のない会話。今となってはそのやり方も思い出せない。

 触れられている手首だけが、異常に熱を持っている気がして。
 不自然に脈が速いことを、蒼に知られている気がして。
 早くアパートに着いて…!
 きゅ、と下唇を噛み、それだけを願った。

 ふ…と手首の圧迫感が消えた。
 永遠に続くように思えた帰り道にも、やっと終わりが来たのだ。
 ほっとして、それじゃおやすみなさい、と101号室のドアノブに手をかけたとき、蒼が口を開いた。

「珍しいな、そういう格好」
「え…」
「いつもはもっと、動きやすそうな服着てるから」
「あ…これは…」
 ついさっき買ったばかりなんです。
 言おうとしたその言葉が、喉につかえた。

 目の前に佇む彼が、見たことのない…遣る瀬無い表情をしていたから。


「あいつと会ってたから?」
「え…?」

 言われた言葉の意味がとっさに理解できない。
 桜井さんと会っていたから、こういう格好をしているのかってこと…?
 それは、そうなのだけれど…。
 どう答えて良いのか分からずに口を噤むと、蒼の眉間に僅かに皺が寄る。

「もう俺と関わるの、嫌?」
「………!」
「今日ジョギングに来なかったし、今も…困った顔してる」
「そ…れは…」
 あなたへの想いを…消したいから。
 なんて、言えるわけない。
 深いダークブラウンの瞳を直視できずに俯くと、静かな声が降ってきた。

「って、こういうこと訊くから余計困らせんだよな…」
「…!ちが…」
「ごめん。おやすみ」

 最後まで言い終える前に、蒼は一瞬悲しげな顔を見せて、踵を返す。

 そうじゃない。そうじゃないのに…!
 関わるのが嫌なわけじゃない。ただ、気持ちを自覚したことで汚くなっていく自分が許せなくて。
 蒼と会わなければいいと思ってしまった。
 避けられる側の彼がどんな気持ちになるか、考えもしないで。

「…っ…う……」

 部屋のドアの前に座り込むと、喉の奥から這い上がってきた熱い塊が涙となって零れた。
 堪え切れずに嗚咽が漏れる。
 みっともない。
 情けない。
 こんな自分、好かれるわけがない。嫌われて当然。
 だけど、好きになってしまった。彼の笑顔に、恋をしてしまった。

 そんなに辛いならやめればいいじゃない、と、もう一人の冷静な自分が冷たく笑う。
 だけどもう、この気持ちの止め方が…分からない。
 恋を知らなかった頃の自分は、どうやって毎日を過ごしていた?
 今は彼でいっぱいの頭の中で、以前は何を考えていた?
 そんなことすら、思い出せない。

 もう、戻れない。





「…随分酷い顔ね」
「……すみません…」

 昨日、拭っても拭っても出てくる涙のせいで、眠りについたのは空が明るくなり始めた頃だった。
 重く腫れた瞼。濃く浮き出た隈。メイクで誤魔化すにも限界がある。
 顔を合わせて開口一番の雛乃の言葉にも納得だ。

「矢吹さんは裏の作業を中心にやってて」
「…はい」

 上司の指示を素直にありがたいと思った。
 今日は…接客はあまりしたくない。


 羽海が在庫の整理をしていると、従業員用エレベーターの扉が開き、陸が現れた。
 また知らない女性を連れている。胸にネームプレートを着けているから、ここの従業員だろうか。

「おはようございます」
 羽海が先手を打つと、陸と女性、二つの視線がこちらに向けられる。
「おはよう」
「おはようございます」

 従業員は、たとえ面識がない者同士でも会えば挨拶を交わす決まりになっている。
 女性はニコリと優雅な笑みを浮かべると、鈴の音のような声で挨拶をし、小さく頭を下げた。
 その立ち居振る舞いや、着ている服のセンスから、清楚で奥ゆかしい印象を受ける。
 綺麗な人だ、と羽海が見とれていると、陸が口を開いた。

「君には紹介しておこうか。2階の婦人服部門で働いている、菅波麗奈(すがなみ れいな)さん」
「よろしくお願い致します」
「は、はい…こちらこそよろしくお願いいたします…!」

 婦人服売り場の人…。だから私服だったんだ。
 はっきりとした目鼻立ちだが、キツい印象はなく優しげな顔立ち。
 背中まである艶々とした黒髪は、緩くウェーブがかかっている。
 その佇まいに再び見惚れそうになり、はた、と自分がまだ名乗っていなかったことに気がついた。

「子ども服部門の新入社員、矢吹羽海と申します」
「まあ…あなたが?」
「え…?」
「陸から話は聞いてるわ。これからが楽しみだって」
 フワリ、麗奈は微笑んで言った。花が咲いたような笑顔に、少々気恥ずかしくなる。
「そんな…買いかぶりです。私はまだまだ未熟者で…」
「やだ、そんなに堅くならないで。私たち…同い年だって陸から聞いたわ」
「え…!?ということは…」
「24よ、私」

 想定外の事実に、羽海は耳を疑った。
 こんなに落ち着いているのに…同い年!?
 確かに見た目は若々しいが…。雅やかな雰囲気が彼女を実年齢よりも大人びて見せていた。
 私は22でここに就職したから、仕事上先輩ではあるけどね…と麗奈が控えめに告げる。

「それより矢吹さん、少し顔色が悪いわ。隈も…。体調が優れないのではなくて?」
「あ…これは…」
 昨晩泣き明かしたからです、とは言えずに口ごもっていると、綺麗に紅を引かれた唇が動いた。
「どうか無理はしないで。仕事よりも身体の方が大切だから…」
「あ…ありがとうございます」

 形の良い眉を下げ、心の底から案じるように言う麗奈。
 ささくれ立っていた心に温かい言葉が染み渡っていく。
 見た目だけではなく人間性も素晴らしい方だ…と感激していると、それまで傍観を決め込んでいた陸がおもむろに口を開いた。

「矢吹さん、仕事が終わったらここの1階のカフェに来て」
「え…?」
「それじゃ行こうか、菅波さん」

 肯定の返事を聞く前に、かの上司は口元に笑みを浮かべ麗奈を促す。どうやら羽海に拒否権はないようだ。
 丁寧に頭を下げる麗奈にお辞儀を返し、在庫整理の続きに取りかかった。





 早番の仕事が終わるのは午後6時。それから少し残業をして着替えを済ませる頃には、時計の針はもう7時近くを指していた。
 夏は日が長い。完全に暗くはなり切っていない、ほの暗い夕闇。

 勉強中の学生や会社帰りのOLなどで混み合うカフェで、目的の人物が目にとまった。
 特別体格が良いわけではないが、陸はどこにいても目立つ。洗練された雰囲気がそうさせるのだろうか。いずれにせよ、待ち合わせをするのにこれほど便利なことはない。

「お疲れ様です」
「……ああ、お疲れ様」
 手元の書類に集中していたらしい陸は、一呼吸置いてから羽海の方を見た。

「昨日は本当にありがとうございました。あの…何か急ぎの用事ですか?」
「……とりあえず、座りなよ」
 目で向かいの席を示す陸に従い腰を下ろせば、すぐさまドリンクメニューを渡されどれにする?と訊かれる。ホットココアを、と言えば、上司は手際よく注文を済ませた。

「あの…書類、切りの良いところまで終わらせてください。待っていますから」
「いや、丁度今一区切りついたところ」

 羽海のはからいにクスリと笑い、陸は言った。

「人ってさ…」
「…?」
「元気な時は透明で冷たい物、疲れているときは濁りのある温かい物が飲みたくなるらしい」

 お待たせしました、と羽海の目の前に湯気の立ったココアのカップが置かれる。
 濁って底の見えないそれが、今の自分の心中を表しているようだ。
 思わず自嘲気味な笑みを浮かべると、陸が核心に触れる一言を発した。


「君が、"この人だけだと思えるような人"は、昨日の…彼だね」





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