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「どう…して…」
「何となく、君の様子がいつもと違ったから」
「……」

 陸はいつもの笑顔ではなかった。
 こちらに向けられた真剣な瞳に、心の奥を見透かされているような気分になる。

「昨日、あれから何かあったんでしょ?」
「…!」
「眠れなかったって顔を見れば分かる」

 唇を引き結び、下を向いた。
 この人には、すべてバレている…。

「怖いんです…。自分が自分じゃなくなっていくみたいで…」

 知り合ったばかりの人にこんなことを言って、一体何になる。
 頭の中の冷静な部分がそう訴える一方で、誰かに胸の内を聞いてほしいという欲求には抗えなかった。

「蒼さんが絡むと…私は嫌なことばかり考えてしまいます…。以前、蒼さんが笑っているのに、それを苦痛に感じてしまったことがあって……!」

 あの時、蒼は会社の同僚と何気ないやり取りをしていただけ。
 なのに…込み上げてきた後ろ暗い感情は、これまでに感じたことのないもので。
 今もまだ消えずに、胸の内で燻っている。

 幼い頃から、周りの人が笑っていることが、羽海の幸せだった。
 学校に上がるまでは近所の人や両親の手伝いをして、友人ができれば、その人に喜んでもらえることをする。そうすることで、自分のこころにも灯がともった。

 それなのに、あの時の蒼に対してだけは、違った。

「避けられていることに気付いた彼は…すごく悲しそうでした。きっともう、私の顔なんて見たくないと思っているはずです…」
「……」
「こんなことになるなら、もう…恋なんてしたくありません…」

 鼻の奥がツンとして、周りの雑踏が遠のく。
 気を抜けば零れてしまいそうになる涙を、思い切り唇を噛んでやり過ごした。

「止めなさい、そんなにキツく噛んだら切れてしまう」

 低く咎めるような声。ビクリと反射的に顔を上げると、
 瞬間、綺麗な指がテーブル越しに伸び、羽海の震える唇に触れた。
 驚いて身を引けば、言葉とは裏腹な、ひどく温かい視線にぶつかる。


「彼とのこと、協力してあげようか」
「え…?」
「誰かを好きになるのは、人として当然のことだ。君のその、黒い感情も」
「…本当…ですか?」
「今の君は自分から逃げてる。そうしたい気持ちは分かるよ、未知の感情との遭遇は誰だって怖い。…だけど、その感情と上手く付き合っていければ恋は楽しいものなんだよ」

 その言葉は、強い説得力を伴って、羽海の心を静めた。
 この人に寄りかかれば、何もかもすべて上手くいく。陸の話しぶりには、そんな風に思わせる不思議な魔力のようなものがあった。

「でも…桜井さんは昨日私に……」
 恋人になってほしいと言わなかっただろうか。
 他の男性とのあれこれについて相談したり、協力してもらったりするのは…どうなのだろう。
 再び俯いた羽海の心を見透かしたように陸は言った。

「君に惹かれたのは確かだけど、どうも俺は彼に敵わないみたいだからさ。それなら、君が幸せになれるようバックアップしたい」

 その言葉が決定打だった。
 気がつけば、柔らかい笑顔に促されるように、首を縦に振っていた。





「そんで、ソイツの部屋に上がりこんで…それを作ったってワケ?」
「…う、ん」
「おいおい、いくらなんでもそりゃマズイだろ」

 はあーーと長い溜め息を吐いて、凛は顔をしかめた。
 全国チェーンのファーストフード店で、彼女と向かい合って座る羽海の手元には、可愛らしくラッピングされた手作りマフィン。
 友人から近況を聞かされた凛は、どうしたものか、と首を捻る。

「…私もそう思って最初は迷ったんだよ?…だけど私の懐具合じゃ、調理器具なんて買えないし…桜井さんの家には一通りの道具が揃ってるみたいだったし……"君が心配してるようなことは何もしない"って言われたし……」
「そういう問題じゃねえよ…」
「……?」

 ソイツの家で作ったって聞いて、蒼が喜ぶと思うか?と失言しそうになった凛は、慌てて口を噤む。
 蒼の気持ちを羽海は知らない。だからこうして相談を受けているのではないか。

「桜井さん、すごくセンスがあるんだよ。レシピに書いてある通りに作るんじゃなくてね。こうしたらどう?って色々提案してくれて、それがまた的確なの」
 だから、食べてみて!と他意なくマフィンを差し出す羽海。
「へーえ……で、女から手作りの菓子を貰って嬉しくない男はいない、とでも言われた?」
「…うん。どうして分かるの?」

 純粋に不思議そうな顔をする友人を見て、凛は思った。
 その上司の桜井とやらに、羽海がまんまと言い包められているような気がする、と。

「あ、部屋にお邪魔したのはそれだけじゃなくてね。食事をご馳走してもらったお礼がしたいって言ったら、君の手料理が食べたいってお願いされて…」
「……」
「コース料理のお返しには見合わないと思ったんだけど、私にできるのはそれくらいだし」
「……なるほどな…完全に掌の上ってワケか」
「ん…どういうこと?」

 羽海の質問には答えずに、凛は本日2度目となる大きな溜め息を吐く。
 何か気に障ること、言ったかな…?
 友人の様子が腑に落ちない羽海は、そんな的外れなことを考えた。

「で、そのワンピースが、"桜井さん"の見たてで買った服?」
「うん、そうだよ」
「それ着てメシ奢ってもらって、帰り際に蒼に会ったと」
「うん」
「ふーん…」

 どこか同情するような眼差しで遠くを眺める凛に、小さな不安が顔を出したので、
 恐る恐る、訊ねてみた。

「やっぱこういう服、私には似合わないかな…?」
「ん…?あ、いや、似合ってると思うぜ」
「…本当?」
「ああ、そのマフィンも、喜ばれるだろ」
「…そうだと良いんだけど…」

 勢いで作ってはみたものの、これを蒼に渡すことを考えた途端、ものすごい緊張に襲われる。
 まずは避けて嫌な思いをさせてしまったことを謝って…。それから、これからも仲良くしてもらえるようお願いして……。ええと…
 考えれば考えるほど、どうすればいいのか分からなくなってくる。
 そもそも想像しただけで軽くパニックになってしまうというのに、実際に会って渡すことができるのだろうか。…受け取って、もらえるだろうか。
 あれこれと思い悩んでいると、珍しく優しいトーンの友人の声が聞こえた。

「羽海が思ってること、素直に言えばいいんだよ」
「素直に…?」
「そ。蒼のことが好きだから、前みたいに仲良くしたいって」
「ちょ……!好き…は言えませんっ!」

 サラリと告白を促す友人を嗜め、でも、『仲良くしたい』だけなら、伝えられるかもしれない、と思った。

「だけどな、そのマフィン、桜井の家で作ったってことだけは絶っ対、言うなよ?」
「?…分かった」
「あとその服も。桜井が選んでくれた、なんて間違っても言うな。いいか?」
「はっ…はい!」

 いつにも増して気迫のこもった凛に押され、つい肯定したけれど。
 …どうして言ってはいけないんだろう…?
 今日の彼女はよく分からない。
 だけど、凛の言うことにはちゃんと理由があると、長年の付き合いで知っている。

「あー…もう一個だけ。その上司、あんまり信用しすぎねえ方がいいかも」
「……どういうこと?」
「そのままの意味。まあ、今こんなこと言われたって訳分かんねえだろうから、頭の隅に置いとくだけでいいけど」
「はあ…」

 何だか凛にはすべて見透かされているみたいだ。
 陸のことを信用するなと言われても、もはや羽海にとって彼は、いつも相談に乗ってくれて、適切すぎるアドバイスをくれる、救世主のような存在になっている。
 すごくいい人だし、信用も、できると思うのだけれど…。

 うーんと考え込んでいると、向かいの気配がふ…と僅かに笑った。

「しかしアイツ、割とモテんのに案外へタレだったんだな…」
「ん?何て?」
「何でもねえ」

 小さく独り言を漏らし楽しげにする凛を見ていたら、つられて口元が緩む。
 そういえば、これ食べてみてよ、とマフィンを勧めると、友人は一口齧り、美味え!と絶賛してくれた。
 蒼に渡せなかったらその分もくれよと悪戯っぽく言われて。

 なんとも彼女らしい発言に、羽海は思わず吹き出した。




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