何度も使用され、少し色が剥げかけたグレーのボタンを押すと、ピンポーンと素っ気ない音が廊下に響く。
凛と会ってから3日。
蒼の部屋の前まで来ては怖気づいて引き返しを何度も繰り返して、やっと玄関のベルを押すところまで漕ぎつけた。激しい動悸に耐え、ここまで行動できただけで、自分を褒め称えたい気持ちになる。たとえその背景に、マフィンの鮮度低下があったとしても。
完全に夜の帳が降りたこの時刻、辺りはしんと静まりかえっていた。
それが余計、羽海の緊張に拍車をかける。
ややあって、ちょっと待ってー、とドア越しにくぐもった声が聞こえ、さらに心拍数が跳ね上がった。
「はい」
久しぶりに耳にする声とともに、慌ただしくドアが開けられる。
「…矢吹……」
伏し目がちに佇む羽海を視界にとらえると、蒼は驚きに目を見開き、固まった。
「あ…あの…、夜分にすみません…!これ、よろしければ貰ってくださいっ」
とりあえず菓子だけは渡そうと、俯いたままで手の中の包みを差し出す。
いらないと突き返される情景は、部屋で何度も想像した。もしそうなっても動じずに思いを伝えられるように。……みっともない泣き顔を、見せなくてもいいように。
ところが、返ってきたのは羽海が予想だにしなかった反応だった。
サンキュ、という軽い声とともに、手の中の重みが消えた。次いでガサガサと包装を解く気配。
「ん!美味い。俺甘い物好きなんだ」
ふんわりと包み込むような穏やかな声が聞こえて、そっと顔をあげれば、
もぐもぐとマフィンを頬張る愛しい人の顔は…本心から嬉しそうで。
「なんか、矢吹が越してきた時みたい。あの時も貰ってくださいって洗剤くれたよなー」
蒼はそう言って、出会った日を懐かしむように優しい目をする。
限界だった。
言おうとしていたことそっちのけで溢れてこようとする熱い塊を、必死で押し戻す。
どうして、そんな…何でもない風に接してくれるの?
避けられていた事実なんて、なかったみたいに…。
私…やっぱりこの人が好きだよ…。
なかったことになんてできない。したくない。
多分、また嫌な気持ちになることもある。だけどそれでも。
ずっと、好きでいたい…。彼が選んでくれるような人に、なりたい。
「あのさ…」
「ごめんなさいっ!」
「え?」
「蒼さんのこと避けて…ごめんなさい…」
「……」
ぐちゃぐちゃになった頭の中から何とか言葉を拾い出す。
「仲良くしてくださっていたのに…たくさんお世話になっていたのに……蒼さんの気持ちも考えず、本当に最低なことをしました」
「……矢吹…」
真剣な色を帯びたダークブラウンの瞳から顔を背けたい衝動に駆られる。
彼は今、何を思っているだろうか。知るのが怖い。今すぐここから逃げ出したい。
けれどここで負けてはいけない。素直に思っていることを告げれば、分かってくれる。
彼なら、きっと。
「図々しい頼みだと分かっています。ですが、私はもう一度……一緒にジョギングをして…取り留めのない話をして…おかずが余ったらお裾分けして…」
緊張と恐怖で声が震える。
足も、立っているのがやっとなくらい。
「そういうことが当たり前にできる関係に…戻りたいです…」
切れ切れに発したか細い声は、すぐに暗やみに紛れて消えた。
後に残された静寂に耐え切れずに下を向く。
蒼は肯定も否定もしない。ただじっと、こちらを見つめる気配だけがそこにある。
どれくらい時間が経っただろうか。
水を打ったように静まりかえる場の空気に我慢できなくなった羽海が、やっぱり駄目ですよね、と言いかけた、その時。
「嫌だ」
静かな、だがはっきりと意志を持った低い声が、耳に届いた。
ガツン、と、何か硬い物で殴られた。そう脳が錯覚を起こすほど、重い衝撃。
想定していなかったことではないのに。本人の口から直接聞くと、こんなにも辛いものなのか。
笑え。笑って何でもない風を装って、そうですよね、厚かましくてすみません…って。
おやすみなさいって、言わないと…!
そう思うのに、涙腺は少しも命令をきいてくれなくて。
さっきは我慢できたはずの雫が、ゆっくりと頬を伝った。
「あ…ごめんなさい、私…。少し体調が悪いみたいです…」
彼に負い目を与えてはいけない。
それはすでに手遅れかもしれなかったが、もう帰りますね、と、おそらく泣き笑いになっているであろう顔を隠すように、回れ右をした。
否、しようとして、できなかった。
去ろうとしたその身体を、強く引かれたから。
「あの…蒼さん…!?」
「……」
これは、どういう状況…!?
目の前、至近距離に彼の肩がある。そして自分の肩まわりに、触れられている感覚。
それが蒼の腕だと分かるまでに、束の間の時間を要した。
事態を把握したとたん襲ってくるパニックに、心臓は限界を超えたようだ。
どうすれば良いか分からないまま身を硬くして目を瞑る。驚きのあまり涙は止まっていた。
フワリ、と彼から石鹸の香りがした。
「前と同じ関係は、イヤだ」
「え…?」
「矢吹のことが好きだから」
「…!」
すき?
今……"好き"って言った?
「友達じゃなくて…恋人がいい」
肩にあった温かさがゆっくりと離れて。
遠慮がちに斜め上を見上げれば、視線を泳がせほんのり頬を染めた蒼がいた。
多分私の顔は、彼以上に赤くなっているけれど。
そんなこと、気にならないくらい……嬉しい…。
「それ、本当…ですか?」
「冗談でこんなこと言わない」
「……蒼さんも…私のこと好きでいてくださったのですね…」
夢を見ているような気持ちでそう呟いた羽海を、現実に引き戻したのは蒼だった。
「矢吹…今、『蒼さん"も"』って…」
「あっ…!」
「どういうこと?」
「……っ」
「ちゃんと言って」
泳がせた目を覗き込まれて。
真剣な彼の表情に、僅かにだけれど少年のような悪戯っぽさが見えた気がした。
「……私……蒼さんが、好きです」
はっきりとそう告げてしまえば、激しく押し寄せる照れくささ。
だけど、気分はすっきりと、夏の青空のように澄んでいた。
好きな気持ちを伝えられるのって…こんなに嬉しいものなんだ。
そうっと視線を上げれば、爽やかで人懐っこい、大好きな笑顔がそこにあった。
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