それを聞かされたのは、突然だった。
夏もそろそろ終わりに差し掛かる頃、百貨店は半期に一度の大バーゲンのための準備で大わらわだった。子ども服はまだ良い。だが、婦人服売り場は相対的に客数が多いため、猫の手も借りたいほどの忙しさなのだそうだ。
ゴールデンウィーク中も集客率アップを見込んでのバーゲンを行ったが、値下げ幅、実施するショップ数、ともに今回のものとは比べ物にならないとのこと。
スーパーの特売の経験から、安いものに対する女性の執念はよく分かっている。
値札をセール用に取り替えつつ、明日から戦場と化すであろうフロアを思って身を震わせる羽海。
と、突然その肩をトントンと叩かれた。
「矢吹さん、悪いんだけど明日から2週間、婦人服売り場に行ってもらえる?」
「………は?」
神妙な顔つきの雛乃にとんでもないことを言われ、羽海はしばし硬直した。
「え…あの…でも、明日からバーゲンですよ?」
「ええ」
「私…婦人服売り場で着られる服なんて持ってませんよ…?」
「でしょうね」
「冗談……では、ありませんよね…。この忙しい時に」
ショート寸前の頭を何とか奮い立たせてそれだけ確認すれば、雛乃もまた困ったように顔を顰めた。
「私も、上が何を考えているのかさっぱりなの。確かにバーゲン中の忙しさは、婦人服売り場が群を抜いているけど……それにしたってもっと相応しい助っ人がいるはずだものね」
「その通りです!」
相変わらず素で無遠慮なことを言う雛乃だが、羽海は気にするどころか大真面目に同意した。
婦人服フロアにいるスタッフは、百貨店の従業員の中から選りすぐられた者ばかりだ。彼女たちに要求されるのは見た目の美しさだけではない。流行に敏感な女性客に服を売るためには、的確な知識と、それを十分に生かしコーディネートのアドバイスができること、要するに洗練されたセンスが必要となる。
一体どういう経緯で、ファッションのファの字も知らないような自分に声がかかったのか…。
何かの間違い…だよね?
半ば祈るような気持ちで上司を見つめるが、雛乃は申し訳なさそうにかぶりを振った。
「矢吹さんでないとダメだ、の一点張りで…。上の決定には逆らえないし、あなたには行ってもらうしかないの」
*
「それで…明日から2週間、2階で?」
「そうなんです…」
しゅんとうな垂れる羽海の目の前には、湯気の立ち上るカルボナーラ。
どうぞ先に食べて、と気遣われるが、あまり食欲が沸いてこない。
仕事を終えた羽海は、繁華街から少し外れたところにある隠れ家的なフレンチレストランにいた。
目の前に座っているのは、気遣わしげな顔をした麗奈。
フレンチの割にかなり安いし味も確かだから、と帰り際に声を掛けられたのだ。
彼女が婦人服売り場で働いていたことを思い出し、何かアドバイスをもらえれば、と今日のいきさつを話し終えたところだった。
「それは…ちょっと酷いわね。どういう理由があるにせよ、研修もせずに突然忙しい売り場に放り出すなんて……。ショップ名は?」
「それが…指定されていないんです。どうも忙しいショップを点々として補助をするようなのですが…」
「なにそれ、投げやりな指示ね」
「……」
憤慨する麗奈に少しだけ救われたような気持ちになり、羽海はカルボナーラを一口頬張った。
いち平社員ではどうにもならないと理解してはいるが、腑に落ちないこともある。
それでもこうして心情を共有してくれる人がいれば随分と気が晴れた。
「仕事は…何とかなるかもしれませんが、問題は服なんです」
「服?」
「婦人服売り場は私服で仕事をしますよね。私の持っている服と言えば、そのへんの激安衣料量販店で買ったものばかりで…」
いつもの普段着で出勤すれば、お客様にもスタッフにも不快な思いをさせることは明白。
だからといって、今すぐに2週間分の服を買い揃えられるほど金銭面に余裕はない。
まさに八方塞りだった。
「服…一着も持っていないの?」
「いいえ、以前桜井さんが選んでくださったワンピースが一着ありますが…ずっと同じ服を着ている訳にもいきませんし」
「…陸が?」
「はい。と言っても私が途方に暮れていたところに偶然居合わせただけなのですが」
「…ふうん…あの人がね…」
麗奈は小さく笑いペンネを口に運ぶ。形の良い口元を縁取る紅は少しも落ちていなかった。
隙がなく完璧なテーブルマナーを見れば、誰もが彼女は育ちの良い人だと納得するだろう。
だらしない場面などとても想像がつかない。
さながらハリウッド映画の女優のように、彼女には俗世間で暮らす人間を惹きつけるオーラが備わっていた。
食事をするのも忘れて華やかな美女に目を奪われていると、つと視線が合わさった。
「そうだ、良かったら私の服を持って行って」
「…え?」
「体型はあまり変わらないから、大丈夫だと思うわ。2週間分の衣類、羽海さんさえ良ければお貸しするけど…どうかしら?」
名案を思いついた!と目を輝かせる麗奈。慌てたのは羽海だった。
「そんな…いくらなんでも悪いです…!それに、麗奈さんの着る服がなくなってしまうのでは…」
「私の服のことなら大丈夫、心配しないで。それに、婦人服売り場の都合で来てもらうのだし…。こんな些細な事でお役に立てるのなら嬉しいわ」
邪気のない笑顔でそう言われれば、断るのもかえって気が引けた。それに麗奈の厚意に甘えれば、とりあえずの差し迫った問題は回避できる。
迷いは、一瞬だった。
*
どこの国の王が住んでいるのだと疑いたくなるような豪邸の中に消えた麗奈。あっけにとられている間に戻ってきた彼女の手には、有名なブランドのものだろうか、センスの良い紙袋がぶら下がっていた。
部屋に帰ってから、大きなそれの中身を確認してみると。
出るわ出るわ。2週間では到底着尽くせない量の衣類。
これだけ貸してもまだ自分の分はあるという麗奈の服の多さにも驚きだ。
テイストが幅広い…きっと私の好みに合わないことも考えてくれたんだろうな…。
……なんていい人。
麗奈への感謝に打ちひしがれていた羽海は、はたと重大な問題点に気がついた。
……どれとどれを、合わせればいいんだろう…。
少し遅めの夕飯を食べ終え、擦り寄ってきた愛猫をじっと見つめてみるも、不思議そうな目で見つめ返されるだけ。
途方に暮れていたって仕方ない。
「よしっ!人生初のコーディネート、やってみよう」
着古したジャージの袖をまくる。
とりあえずは明日の分だけでいいんだし、と自分を鼓舞し、見るからに上質そうな衣類に手をかけた。
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