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「あなたに服を貸したのは、婦人服部門のスタッフだと言ったわね?」
「はい」
「これは…難しいわ…」
 羽海が持参した携帯を見つめ、雛乃は唇をへの字に曲げた。
「難しい、と言いますと?」
「洋服の雰囲気がバラバラだし…わりと何にでも合わせられる定番色の服…黒や白、グレー系の服がないの」
「……えっ…と…」
 羽海が歯切れの悪い返事をすると、雛乃はディスプレイに表示されているキャミソールタイプのワンピースを指差す。
「例えばこの桜色のワンピース、これを使うとするわね。外では普通だけど、これだけを着て仕事をするのは露出が多すぎてNGでしょう?上に何か羽織るとすれば、色は白か、アイボリー…ライトグレーでもいいかしら。でも、この写真を見る限りそういう色の羽織りはない」
 分かり易い説明に、羽海はコクコクと首を縦に振った。
 そうだった。そういうことがしばしば起こったため、昨晩はかなり苦戦したのだった。
 これに何を合わせようか、とトップスを手に取る。しっくりくるボトムスを探す。しかしどれもいまいちピンとこない。
 色が合っていたとしても、柄物同士だったり、テイストが全然違っていたりするからだ。

 更衣室で仕事終わりの雛乃に携帯を渡してから、もう10分は経っている。
 着替えもそこそこに画面と顔を突き合わせていた彼女が出した結論なのだ、もう諦めるしかない。
「あの…加瀬さん、やっぱり…」
 おそらくバーゲン初日で相当疲れているだろう。これ以上自分の都合に付き合わせるのも、申し訳なかった。
 自分で何とかします、と言いかける羽海だが、それは雛乃の凛とした一声に遮られた。

「やるわ」
「え?」
「大丈夫、これでも子ども服に来る前は婦人服部門で働いてたのよ」
 なるほど。だからこんなにセンスが良いのか、と羽海は納得する。
「1階のカフェ、夜10時まで営業してるから行くわよ。閉店までには2週間分のコーディネート、考えてあげる」





「本っ当に…ありがとうございます!」

 安い割にはなかなかの味のコーヒーを飲みつつ、上司を待つこと30分。
 数枚のメモ用紙を握り締めた羽海は、チェアーに座ったまま深々と頭を下げていた。
 用紙には雛乃の考案したコーディネートが描かれている。彼女がデザイナーのように慣れた手つきでサラサラとペンを動かすのを、羽海はただただ感心して見守っていた。
 なかなか頭を上げようとしない羽海。それを眺める雛乃は微かに微笑み、言った。

「あなたが服の勉強をしているのは知ってるわ。だけど残念ながら、ファッションのセンスはそんなに短期間で身につくものではないの。それでも入社当初よりは大分マシになってきてるから、その調子で頑張ればいいと思う」
「ほ…本当ですか…?」
 思いがけないセリフだ。まさかこんなことを上司の口から聞くことができるとは。
 子ども服の合わせ方を本で勉強していることを、知っていてくれたのだろうか。
 それとも雛乃が気付いてくれるくらいには、日々の業務に成果が現れているということだろうか。
 どちらにせよ、喜ばしいことには変わりない。

「だけど婦人服売り場じゃ、センスでは役に立てないでしょうね。その代わりにあなたらしい接客や働き方をすればいいのよ」
 どこか意味深に告げられた助言。それは、羽海の心の奥深くにすんなりと入っていく。
「私らしい…ですか?」
「ええ。そうすればお客様にも、スタッフにも喜ばれるんじゃないかしら」
 そう言った上司は、普段滅多にお目に掛かれない素の笑顔を見せてくれて。
 大分慣れてはきたものの、依然としてその可愛らしさには胸がときめいてしまう。

「お力添え、ありがとうございます!加瀬さんは…どうして私にここまでしてくれるんですか?」
 雛乃に感謝する一方で、面倒を掛けすぎではないか、と心苦しい思いもある。
 それでも彼女は進んで自分の助けになってくれて。

「言ったでしょ、あなたは私の部下で…指示を出したのが私だからよ」

 味も素っ気もない言葉。だがそれは照れ隠しで、裏に彼女の優しさがあることを知っている。
 初めての直属の上司がこの人で本当に良かったと、心から思った。
 用は済んだとばかりにさっさと立ち上がる雛乃を慌てて追いかける。
 自動ドアをくぐり外に出れば、生温い風とともに夏の夜の匂いがした。

 私は車だから、と雛乃が従業員用の駐車場の前で立ち止まる。羽海の愛車が停めてある駐輪場はもう少し先だ。

「お疲れ様です。今日は本当にありがとうございました」
 改めて礼を言い、お疲れ様と呟き歩いてゆく上司の背中をしばし見送る。
 やがて羽海は駐輪場へと歩き出す。それと同じタイミングで、雛乃が振り向いた。

「プロの癖にあんな滅茶苦茶な服の貸し方をした人の目的も…知りたいしね」

 ボソリと呟かれた上司の独り言が、上機嫌で駐輪場へと向かう羽海に届くことはなかった。





 自室で遅い夕食を食べていると、ピンポーンと聞きなれた音が響いた。
 こんな時間に訪ねてくる人物は一人しかいない。羽海は煮物をつついていた手を止め、急いで玄関へと向かう。

「こんばんは、蒼さん」
 躊躇うことなくドアを開けると、予想通りの人物が立っていて自然と顔が綻ぶ。
 恋人になってからというもの、蒼はときどきこうして羽海の部屋にやってくる。特別何をするというわけではない。一緒にご飯を食べたりその日あったことを話したりするだけなのだが、最近の羽海にとって、この時間は何にも代え難い楽しみとなっていた。

「またー…簡単にドア開けるなって言ったじゃん」
 怒ったような顔で窘められる。誰が来たのか確認せずに開けるのは危険だ、と以前注意を受けたのを忘れていた。
「蒼さんだと分かっていますから」
「そういうのが危ないんだよ」
 何気ないやり取りが幸せだと思う。
 会話の端々から、彼が自分を大切にしてくれていることが感じられるから。
 蒼は、後について来た小さなペットを抱き上げ、よしよしと顎の下を撫でている。
 初めのうちこそ警戒して寄り付かなかったマロだが、害がないと分かればすぐ彼に懐いた。
 利口な猫だ。主が信頼している相手だと理解したのかもしれない、と親バカならぬ飼い主バカの羽海はそう思っている。

「あれ、今日は晩飯遅いんだ?」
 質素なローテーブルの上にのった料理を見て、蒼が首を傾げた。
「はい、ちょっと上司に相談がありまして。蒼さんはもう夕飯は…」
「食べたよ」
 時計は既に10時半を差している。当然と言えば当然だ。
 ふと蒼の視線が、部屋のすみに畳んで置いてあった洋服に向いた。
「あれどうしたの?珍しいじゃん、矢吹があんなに服買うなんて」
「あれは、勤務先の…麗奈さんという上品な美人さんが貸してくださって…」

 婦人服部門のヘルプとして働くことになった経緯を話すと、蒼はなるほどと納得したようだった。
「今日遅くなったのは、借りた服の合わせ方を考えてもらっていたからなんです」
「その"麗奈さん"って人に?」
「いいえ、同じ部門の上司の方ですが…」
 それがどうかしたのだろうか。やけに真剣な表情の彼に、ほんの少しの違和感を感じる。
 だが、すぐに笑顔になった蒼は、慣れないとこで大変だろうけど頑張ってな、と別段深く追求することはなかった。

「そうだ、バーゲンが終わったら、土日のどちらかに休みをもらえるかもしれないんです」
 百貨店の販売員の休日は、大体が平日。蒼と休みが合う日は滅多にない。
 会えるのは、今日のようにお互いの仕事が終わった後くらいで。
「珍しいな、じゃあその日は二人でどっか行こうか」
「はい!」
 一日中彼と一緒にいられるのは初めてだ。
 今から待ち遠しくて仕方がない。
 何より蒼の方から誘ってくれたことが嬉しくて、そわそわと地に足が着かない。
 先ほどの違和感などとうの昔に頭から消え去っていた。





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