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 もっしゃもっしゃと餌を頬張る自信ありげな顔を観察した。
 猫や犬のように正統派ではないけれど、何とも言えず愛着の沸く容姿。
 しばらく眺めていると、何となく相手もこちらを見つめているような気がしてくるから不思議だ。

「なんだかおじさんみたいで愛らしいですね」
「…おじさん?」
 羽海のズレた意見に、隣にいた蒼がのけぞった。カピバラをおじさんみたいと表現するのもどうかと思うが、どうしておじさんが愛らしいに結びついてしまうのか。
 蒼は少しの間首を捻った後、すぐにまあいいかと考えるのを止めた。


 動物園を提案したのは羽海だった。週末の土曜日、蒼に、明日はどこ行きたい?と訊ねられた時のことだ。情報源は職場の同僚で、もともと動物全般が好きな羽海は、彼さえ良ければ行ってみたいと思っていた。
 休日の動物園は家族連れで賑わっている。
 今まで一度も訪れたことがなく、それゆえ憧れのあった動物園に、まさか恋人との初デートで来ることになるとは思ってもみなかった。
 チラリと隣に目を向ける。頭半分ほど上にある横顔は、草を食むキリンに向けられていた。
 タンクトップに半袖シャツ、ジーンズというカジュアルな格好が彼に良く似合っている。
 そういえば、蒼さんの私服を見たの、初めて…。
 身につけているワンピースを見下ろす。以前陸に選んでもらったものだ。
 ちゃんとつりあっているだろうか。
 恋人同士に…見えるだろうか。

「どした?」
 気付いてこちらを向く彼の表情が少しだけ柔らかくなる。
「な…何でもありません…」
 きゅう、と胸の辺りが収縮する。
 私、この人と付き合ってるんだな…。
 自分の好きな人が自分のことを好きでいてくれるなんて、幸せすぎて実感が沸かない。
「えー言えよ、気になるじゃん」
「…いえ、本当に……」
 何もないんです、と言おうとした言葉は、もごもごと口の中で消えた。顔が段々と赤くなっていくのが分かる。とうとう居た堪れなくなり、視線だけを下げた。

「……俺飲み物買ってくるわ」
 不意にポツリとそれだけ言って、彼の気配が遠ざかる。
 それなら私が行きます、と申し出たが、さっさと自販機に向かっていく背中には届かなかった。

 らしくない。
 蒼とデートしていると思うだけで変に緊張して、色んなことが気になって、普段通りにできなくなる。
 意識すればするほど、言動がぎこちなくなっている気がする。
 ワンピースについていた小さな埃をそっと払い、ぼんやりとキリンの長い首を眺めた。





「何かあった?」

 低い、けれど安心できる温かさを含んだ声音。
 訊ねられたのは、動物園から出て、近くの大きな公園のウォーキングコースを歩いていた時だった。
 西に傾いた陽の光が、道の両側にそびえる木々の間から差し込んでくる。
 気温こそ高いけれど、少しだけ寂しさを含んだ風はもう秋のそれだ。

「……どうしてですか?」
「んー…昨日会った時からなんか変な感じがして。気のせいなら、いいんだけど」
「……」
 二人の間に沈黙が降りる。
 しばらくは、無言で歩いた。
 蒼は何も聞かない。黙って羽海が話し出すのを待っている。
 そのことが、何故だか物凄く嬉しかった。

「この間…服を貸してもらったと言ったこと、覚えてますか?」
「うん、麗奈さん…だっけ」
 蒼が名前まで記憶していたことに驚きつつ、羽海は先を続けた。
「その人から食事に招待されて」
 隣の気配が僅かに息を飲むのが分かった。
 羽海は、麗奈と陸に明かされたことをすべて話した。言ったところでどうしようもないことは分かっている。それでも今は、彼の優しさに縋りたかった。

「私にとってのお父さんとお母さんは矢吹の家の二人ですし……麗奈さんが私のことを嫌いだと言っても、私は好きなんです…。彼女が双子の妹だと知って…嬉しかったんです」
 声が情けなく震えた。
 育ての親である両親は、預けられた子どもである自分のことをどう思っていたのだろうか。
 麗奈は、物心ついたときから自分のせいで辛い思いをしていたのだろうか。
 考え出せば止まらない。周りの人の気持ちも知らず、自分だけが安穏と生活してきたことが、どうしようもなく怖かった。

 不意に、手にぬくもりを感じて隣を見上げると、柔らかい笑顔の蒼と視線がぶつかった。
 一呼吸遅れて、手を繋がれたのだと気付く。
「じゃあ、それでいいと思う」
「え…?」
「矢吹がそう思うなら、ご両親は血が繋がっていなくても親子だし、麗奈さんには正直な気持ちを伝えればいいんだよ」
「……」
「安っぽい言葉でしか励ませないけど、俺だけは絶対、矢吹のこと嫌いになんてならないから」
 フワリ、繋いだ手の上を風が通り過ぎていく。
「大丈夫。傷ついたり嫌なことあったらさ、俺のとこにおいで」

 立ち止まり、よしよしと髪を撫でられる。
 それだけで、どうしようもなく幸せだった。
 恋人同士に見えるかとか、どうやって話せばいいかとか、そんなことに悩む必要などなかった。
 この人なら……ありのままの私を受け入れてくれる。
 身体の奥、強張っていた結び目がほどけて、彼にすべてをあずけてしまいたくなった。

「……蒼さん」
「ん?」
「…大好きです」
「……んなこと言ってると、ここで抱きしめるよ?」
 冗談めかした口調は、いつもと同じ。
 でも、その顔は笑っていない。

「はい、お願いします」
「…え?」
「…抱きしめて欲しいです。蒼さんに…っ」
 言い終える前に、強く腕を引かれた。そのまますっぽりと腕の中に閉じ込められる。
 心臓は気が狂ったみたいに暴れ、顔が熱くなるのが分かったけれど。
 彼の存在をこんなに近くに感じているということに、大きな安心感が込み上げてきた。

「…そんな顔すんなよ」
 いつの間にかすっかり闇に包まれた並木道で、ふい、と顔を背けられる。
 気のせいか、蒼の頬にも薄っすらと朱が差していた。
「…そんな顔って、どんな顔ですか…?」
 そっぽを向かれたことが寂しくて食い下がる。
「だから今みたいな。歯止め、きかなくなるだろ」
「………きかなくていいです」
 眉根をよせる蒼に思わず本音を言ったら。
 目の前の顔が驚きに変わり、その後、くっと口角が上がる。
「矢吹…正直すぎ」

 彼のブラウンの髪が揺れた。それがサラ…と羽海の額にかかって。
 触れるだけの優しいキスの後、耳元でそっと囁かれた。

「でもそういうとこが好きなんだけど」

 引かれた手が熱い。
 どうしようもなく恥ずかしい。だけど、繋いだ彼の掌からも熱が伝わってきたから。
 恥ずかしさをはるかに上回る嬉しさで、口元がにやけるのを止められなかった。





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