「あれ?矢吹さん。今日早番だったよね?こんな所で誰か待ってるの?」
図書館で借りてきた"子ども服らくらくコーディネート"という本を読んでいた羽海は、すかさず顔をあげた。
「あ…お疲れ様です」
声を掛けてきたのは、子ども服部門のスタッフだった。
期待していた人とは違う。
落胆したことを悟られないよう注意しつつ、適当に雑談をした後スタッフを見送る。
更衣室と外とを繋ぐ、従業員用の出入口。
六時半から立ちっぱなしで待っているけれど、なかなか目的の人物は出てこない。
今日は休みだったのかな。
明日も仕事だし、今日はこの辺で帰ろうか。
羽海が駐輪場に向けて足を踏み出そうとした、その時。
背後でドアの開く音がした。
「あ…!麗奈さん!良かった、お待ちしていましたよ」
相変わらず隙のない出で立ちの彼女に、ニコリと笑いかける。
「……何の用?」
「借りていた服をお返ししたくて」
冷たい態度の麗奈に怯むことなく、羽海は大きな紙袋を差し出す。
麗奈はそれを見ようともせず、淡々と吐き捨てた。
「呆れた…。そんなことのために待ち伏せ?」
「連絡を取ろうとしましたが、繋がらなかったので」
「当たり前でしょ、無視してたんだから。私はあなたが嫌いだと言わなかったかしら」
「ですが、このまま服をお返ししないわけには…」
「そんなの、もういらないわ」
静かに、だがはっきりと、麗奈は不機嫌さをあらわにする。
「あなたに恥をかかせるために貸したって、この間の話、聞いていなかったの?大体、嫌悪されている相手に近づくなんて……理解に苦しむわ」
刻薄な言葉を残しさっさと去ろうとする麗奈。
とっさにその腕を、掴んでいた。
綺麗にネイルアートを施された指先が、ピクリと動く。
「それでも…麗奈さんは私に笑いかけてくださったじゃないですか…!」
「…本当におめでたいわね。そんなの、信用されたほうが罠を仕掛けやすいし、裏切った時のショックも大きいからに決まってるでしょう?」
「……」
「手を離して」
氷よりも冷たい声に羽海の力が緩む。
カツカツとハイヒールを鳴らし遠ざかる彼女の背中には、拒絶の意志がありありと浮かんでいる。
「それでも嬉しかったんです!」
気がついた時には、叫んでいた。
どうせ嫌われているのなら、伝えておきたい。ありのままの思いを。
「嘘でも何でもかまいません!麗奈さんが笑って、優しい言葉を掛けてくれたのは事実です!その言葉で…私は幸せになれたんです!!」
叫びは静寂に紛れ、消えた。
麗奈の歩みは止まらなかった。
そのことに、ズキズキと胸が痛む。だけど…平気。どうってことない。
初めて会ったとき、寝不足だった私の体調を心配してくれた。
名前で呼んでくれた。
気が合いそうだと言って、食事に誘ってくれた。
突然助っ人に駆り出されたことを、理不尽だと怒ってくれた。
それは全部、嘘だったけれど。
嫌というほど傷ついたけれど――
たくさん感じた嬉しい気持ちまで、なかったことにはしたくない。
怒るよりも、幸せなひとときを貰ったことに感謝したい。
秋の気配が漂い始め、虫の声が絶え間なく響く夜の中。
自転車を走らせる羽海は、ハンドルを強く握った。
*
昼休憩に入り、食堂へ向かおうと足早に階段を下りる。
三階にさしかかったところで、長身の後姿が目に入った。
「桜井さん!」
やっと出会えた。
この上司は、いつも突拍子もなく現れるくせに必要なときに限って見つからない。
「矢吹さん。久しぶり」
「…お久しぶりですが、今は挨拶をしている暇も惜しいです。お訊ねしたいことがあるんです…。今、いいですか?」
早口でまくし立てる羽海とは逆に、落ち着いた表情の陸。
その口端がわずかに上がった。
最上階の裏方。
イベント事などに使われるフロアは、今の時期は空っぽになっている。
人には聞かれたくない話だと言ったら、陸はここを提案してきた。
乱雑に置かれた備品類を、蛍光灯の弱い光がぼんやりと浮かび上がらせ、まるで廃墟のようだ。
「桜井さんは、本当にはじめから麗奈さんを陥れるつもりだったのですか?」
「どういう意味?」
単刀直入に切り出す羽海だが、案の定すんなりとは教えてもらえない。
読めない微笑を向けられるだけだ。
「はぐらかさないでください。菅波家で話していたじゃないですか。私は…桜井さんの気持ちが知りたいだけなんです」
真っ向から見据えても、陸は動じなかった。
「俺が何を考えていようが、君には関係ない」
「あります。あなたと麗奈さんの言ったことが本当だとしたら、私はあなたにまんまと利用されたことになりますよね。だとしたら…どういうつもりであんなことをしたのか、教えてもらう権利くらいあるはずです」
「………」
しばらく押し黙っていた陸は、やがて笑い始めた。
声を上げ、心から楽しそうに肩を揺らす。
ひとしきりそうした後、今だ弧を描いたままの唇が、ゆっくりと開いた。
「本当に…びっくりするほど変わってないな」
「え…?」
「欲はなくても芯は通っている。昔の君そのままだ」
そう言って、やはりいつもの読めない微笑で陸は語り始めた。
あの日の俺と麗奈のやり取りで大体は察していると思うけど、俺は菅波家とつながりのある家に生まれ、幼いときからあの豪邸に出入りしていた。もちろん君と麗奈のこともよく知っていた。
いや、知っていたどころか、年の近かった三人はよく一緒に遊んでいたんだ。世間で言う幼馴染ってやつだ。
麗奈が俺に恋愛感情のようなものを抱いていたのは、気付いてた。
けれど、幼いながらも俺は麗奈の言動に好感が持てなかった。
逆に、君は清清しいほど彼女と正反対だった。多分俺は…当時から君に惹かれていたんだろう。
五歳の君が別の家の子どもになったと知ったときはショックだったよ。
俺だけじゃない。君の両親は身を切るような思いでの決断だったろうし、祖父母、使用人、菅波家にいるすべての人間も同じ気持ちだったはずだ。
…ただ一人、麗奈を除いては。
彼女は上機嫌だったよ。
自分よりはるかに皆から可愛がられていた……特に、俺が目をかけていた存在がいなくなったからね。
それからはもう言いたい放題、我儘し放題だ。
菅波家の厳しい英才教育こそ真面目に受けたものの、それ以外では彼女の思い通りにならないことなどなかった。
そこまでを話し終え、陸は一つ、短い息を吐いた。
「もう分かっただろう。俺は麗奈のことが、心底大嫌いなんだよ」
「……」
「半年前、偶然君のエントリーシートを見つけたときに思いついた。君を入社させ、彼女に接近させれば、容姿と口の上手さだけで世の中を渡っていけると勘違いしている我儘お嬢様を、痛い目に遭わせることができるかもってね」
純粋に楽しそうな陸に、ぞっとした。
「……もし私が、麗奈さんの思惑通りになったらどうするつもりだったんですか?」
その可能性は十分にあったはずだ。
婦人服のスタッフに疎まれなかったのは、雛乃が力を貸してくれたからに過ぎない。
だが、陸はうろたえなかった。
「それはない。断言できる。君は人のために尽くすことに一生懸命で、行動力もある。何より人を嫌いになれない。そんな君を誰が疎ましく思う?」
そう言った彼の表情が、フワリとほころんだ。
温かいものが宿った瞳に見つめられ、ほっと安心感に満たされる。
こんな顔も、できるのに…どうして…。
どうして…麗奈には―――
「そこまでしなくてもいいじゃないですか。好きな人に嫌われて、陥れられるなんて…ものすごく辛いです。耐えられないことなんですよ…?」
「…そう言われると思ったよ」
陸は、隙のない動作で、壁際に立つ羽海の両側に手をついた。
距離が一気に縮まる。
まずい。
ドクリと心臓が嫌な音をたてた。
迂闊だった。
いくら聞かれたくない話でも、もう少し人のいるところを選ぶべきだった。
至近距離に迫られ顔を背けると、低い声が鼓膜をくすぐる。
「純粋な君を憎む彼女が、どうしても許せないんだ」
切なげな声。
伸ばしっぱなしで長くなった髪の一房を、長い指が掬い上げる。
「なあ、君に指輪をあげたことも…忘れてしまったのか?」
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