26





 そのまま、髪に口付けられた。
 伏せられた陸の長い睫が、一瞬、震えたような気がした。

 この場から逃げなければ。
 そう思うのに、身体がうまく動いてくれない。

 陸は、本来なら未熟な新人社員となど関わることのない役職に就いている。にもかかわらず、羽海には何度か接触してきた。
 好きだと言われたこともあった。けれど陸は常に軽い調子で、それほど羽海に執着しているようには見えなかったから。
 そういう人なのだと思っていた。
 寄ってくる女の人と適当に遊んで、"好き"とか"愛してる"とか、そういう言葉を冗談で言えてしまうような。

「羽海」
「え…」
「昔は君のことを、こうして当たり前のように名前で呼んでた」
「……」
「俺のことまで…忘れてしまわなくても良かったのに」

 きつく眉根を寄せた辛そうな顔。
 こんなに真剣な陸は、知らない。
 強い視線で射抜かれ、ぞくりと戦慄が走る。
 彼の手からサラサラと零れ落ちる髪が、自分のものではないみたいに、ひどくよそよそしい。

「指輪をあげたのは、君の五歳の誕生日、俺が八歳の時だった。君は飛び上がって喜んでくれて…あん時は俺の方が祝われてるみたいに嬉しかったな」
 当時のことを思い出したのか、クスリと小さく笑った陸の表情に少しだけ幼さが見えた。

 そんな思い出の一コマは、羽海の記憶には全く残っていない。
 肉親から引き離されたショックはそれほど大きかったということなのだろう。

 だけど――

 その指輪は、今も…ある。


「子ども用の玩具の指輪で、真ん中にピンク色の石が埋め込まれているものですか?」

 羽海を見下ろす陸の目が、大きく見開かれた。

「……どうして…それ…まさか、思い出したのか?」
「いいえ、でも…指輪は今も持っています」

 物心ついたときから手元にあった、小さな銀色の輪。
 アクセサリーなど何一つ持たないし、興味もない。だけどその指輪は捨てられなかった。

「大切にしていました。ずっと。なぜだか…手放したくなくて」

 こちらを食い入るように見つめてくる陸の瞳。
 それが、今にも泣き出しそうな色をしている。

「他人があげないようなものを、って思ったんだ」
「……」
「アクセサリーになんか見向きもせずに、草むしりに使う軍手を欲しがるような子だったから。わざわざ君に装飾品のたぐいをプレゼントする人なんていない」
「……」
「正直喜ばれるなんて思ってなかったし、突き返されたとしても、持っててくれって頼み込むつもりだった。……初めて君にそういうものを贈るのは俺でありたかったから。…幼稚な独占欲だよな」

 眉間を絞り、苦々しい顔。口元には歪んだ笑み。
 それでも、普段の貼り付けたような笑顔よりは、何倍も人間らしい。
 余裕のない陸を、羽海は食い入るように見つめた。

「そういう表情、もっと見せた方がいいと思います」
「……なんで?」
「なんで…と言われると困りますが…あの、私は完璧な桜井さんじゃなくて…もっと……」

 伝えたいことをうまく表現できず、言葉が尻すぼみになる。
 考えをまとめようと必死になっている羽海の耳に、くっと押し殺したような笑い声が届いた。

 それは一瞬のことだった。
 細身の長身が前かがみになり、目の前に黒い影が差す。
 あ、と思ったときには唇が重ねられていた。

「俺が完璧じゃなくなるのは君の前でだけだよ」

 真冬の湖のように悲しそうに笑った陸は、すぐに羽海から離れた。



「もう一つ忠告。あまり…真崎蒼を信用しないほうがいい」

「な…!どういうことですか…!?」


 その問いには答えず、陸は何事もなかったかのように背を向ける。
 とんでもないことをされてしまった、と気がついたのは、フロアに響く陸の革靴の音が聞こえなくなった頃で。



 蒼さん……!


 嫌悪感がじわじわと這い上がってくる。
 それを消してしまいたくて、羽海は真っ赤になるまでひたすら唇を拭い続けた。





 ベルが三度鳴ったところで、羽海はおそるおそるドアを開けた。
 正直、今日はあまり会いたくなかった。けれど、居留守をつかうのも気が引けて。

「よ、お疲れ」
「…お疲れ様です」

「……どした?何か元気なくない?」

「あいたっ!!」

 早々に核心を突かれ、部屋に向かおうとした足をドアの角に思い切りぶつけた。
 堪えきれずにうずくまる羽海の元に蒼が慌てて駆け寄ってくる。

「だいじょぶかー?」
「へ…平気です…。お気になさらず蒼さんは寛いでいてください…っ」

 動揺したことを悟られないよう笑顔を作ってみたけれど、そんなことで蒼の目は誤魔化せない。

「全然平気じゃなさそうなんだけど」
「……」



 ――傷ついたり嫌なことあったらさ、俺のとこにおいで

 先日、公園で言われた言葉が過ぎる。
 羽海は床に座り込んだまま俯き、ぎゅっと目を瞑った。


「キス…されました」
「……え?」
「ごめんなさい…!蒼さんじゃない人に…キスされてしまいました…っ」

 狭い室内が沈黙に包まれる。
 蒼の方を見るのが怖い。顔を、上げられない。
 黙っていようかとも考えた。けれど、彼が今の自分と同じ状況になったら、隠さず話して欲しいと思ったから。
 何より、謝らなければ羽海の気持ちが収まらない。


「……嘘…だろ」
「……」
「相手、誰?…この間の上司?」
「………はい」

 いつもの優しい声ではない。
 触れれば切れてしまいそうな、鋭い問い掛け。
 だけど、わずかに悲しみの混ざった苦しそうな声。
 顔を上げると、いつかも見た、今にも壊れそうな瞳と視線がぶつかって。

 気がついたら、彼の腰に腕を回し、思い切り抱きついていた。


「ごめんなさい!私の注意不足です!だけど、神に誓ってやましい気持ちはありませんから!」

 自分からこんなことをするのは初めてだった。
 戸惑われているのが気配で分かる。でも、ここで引くわけにはいかない。絶対に。

「私が好きなのは蒼さんだけです…。だから…そんな顔、しないでください…」

 ぎゅ…と抱き締める腕に力を込めると、背中に温かい掌の感触がした。
 そっと回された躊躇いがちな腕は、蒼の気持ちを表しているようで。

「蒼…さん…?」

 蒼は何も言わず、頭を羽海の肩に乗せた。
 フワフワした茶髪が頬に当たって少しくすぐったい。

「あーカッコ悪い…」
「え…?」
「矢吹に他の男が触れたのかと思ったら、頭ん中ぐっちゃぐちゃで…。気持ちコントロールできねえ。すっげー嫌だ」
 情けねー、と呟く彼の表情は、見えない。
 そのことに、妙に焦りを掻き立てられた。

「わ…私だって…キスされたとき、すごく嫌でした。他の人となんてしたくない…蒼さんとだからしたいんです…っ!」





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