「私は…蒼さんじゃないと嫌です。これからもずっと」
「矢吹…」
陸の、"信用しない方がいい"という発言が気にならないと言えば嘘になる。
だけど、蒼の言動からは愛情を感じられるし、何より羽海自身が彼を信じたい。
それだけで十分だった。
「そんなこと、面と向かって言うなよ…」
「迷惑、ですか…?」
「まさか。ただ、敵わないなと思ってさ。……そういうこと言われると、…ますます他の奴に渡したくなくなるじゃん」
伏せていた顔を上げた蒼は、薄っすら微笑んでいた。
羽海もつられて笑う。
普段の彼なら滅多に口にしない台詞に、恥ずかしさ半分嬉しさ半分だった。
やっぱり、笑顔がいい。暗い顔なんて蒼には似合わない。
「口元、少し赤くなってる」
「あ…これは擦ったせいで」
昼間、痛くなるまで擦り続けたせいか、唇の端が軽く鬱血してきていた。
遠目からは分からない程度だが、それでも見栄えが良いとは言えない。
咄嗟に、隠そうと口を覆った手は、蒼の手で阻まれた。
「まだ痛い?」
「いえ、もうほとんど大丈夫で……ひゃッ…!」
不意打ちで口の端を舐められ、羽海はピクリと身を震わせた。
擦ったところに沁みてわずかに痛みを感じたが、恥ずかしさの方が圧倒的に勝る。
至近距離でまじまじと傷口を眺められては堪ったものではない。
「あ…の、蒼さん…」
「ん?」
「もう痛くないです。だから…」
「アイツにキスされたの、どこ?」
「…!」
座り込んだまま腰を抱えられているので、身動きが取れない。
顔を赤らめ俯こうとする羽海だが、それは許されなかった。
顎を捉えた蒼の手に有無を言わせず上を向かされ、視線が絡む。
「どこ?」
「……え…と……髪に」
羽海は視線を泳がせ、無意識に陸に口付けられた左サイドの髪を触る。
「それだけ…?」
「……あ……く、唇にも」
「…そ」
あえて本人の口から言わせることで、罪悪感を煽る。
無自覚な羽海に少しでも自己防衛をさせるための、蒼なりの荒療治。
申し訳なさそうに小さくなる羽海の身体を、蒼は一度、強く抱き締めた。
「ごめん。矢吹も嫌だったって分かってるけどさ、もうちょっと危機感持って。無防備すぎ。自分の魅力、自覚して」
「え……あ…う……すみません…」
「本当に悪いって思ってる?」
「お、思ってます…。ごめんなさい…。償いなら何でもしますから…だから…」
蒼の信用を失くしたくない一心で必死になる羽海。
その言葉を聞くや、蒼はニヤリと笑った。
「何でもする?」
「はいっ!あ、その…お金の面では限界がありますが…」
「じゃあ、しばらく動かないで」
「……え…?」
そんなことでいいのですか?と。
拍子抜けした羽海は、しかし次の蒼の行動に硬直した。
伸ばしっぱなしだった左側面の髪を掬い上げられ、口づけられた。
昼間の陸の行動がフラッシュバックする。けれど、あの時のような悪寒はない。
むしろ蒼の表情に、動きに…見蕩れた。
陶器に触れるようにそっと、優しい動作。
そう。すごく優しい。なのに彼の目の奥は危なげで、どうしようもなく惹きつけられる。
じっと見ていると吸い込まれてしまいそうだった。
言い付け通り動かずにいると、蒼は唇だけで微笑み、おもむろに羽海の身体を抱き上げた。
「わっ…!蒼さん…怖いです」
「寒いからこっち行こう。風邪引いても困るし」
節約のためにエアコンはつけず、小さな電気ストーブだけで寒さを凌いでいる部屋。
それでも中に入ってドアを閉めれば十分暖かい。
殺風景な室内、小さなカーペットの上にそっと下ろされて。
体勢を立て直す暇も与えられないまま、唇を塞がれた。
「あの…蒼…さ…」
倒れそうになる身体を肘だけで支える羽海。その両側に手を付き、覆いかぶさるような格好の蒼。
羞恥に頬が熱くなるのを感じ、羽海は堪らず声を上げた。
「やめて欲しい?"何でもする"って矢吹が言ったんだけどなー」
「…そ…れは…」
こんなことをされるなんて、思わなかったから。
床についていた腕は限界を超えた。
堪えきれず、床に背中をつけ仰向けになると、再び柔らかいキスが降りてくる。
羽海を見下ろす目が細まり、たった今重ねられた唇から、ふ…と笑みが漏れた。
「な…何ですか?」
「や、可愛いなと思って。矢吹って、聞いてるこっちが照れるようなこと平気で言うくせに…自分が受身だとすげー恥ずかしがるのな」
かあっと顔に熱が集まる。
そういうことを言われるとさらに羞恥を煽られるのだということに、気がつかないのだろうか。
限界だった。
両手で蒼の胸を押し、この状況から逃れようとしてみる。
けれど。
「動かないでってさっき言わなかったっけ?」
一見すると爽やかな微笑みを浮かべている蒼だが、その笑顔にはどこか含みがある。
多分、気のせいではない。
羽海は身体を動かさないよう注意しつつ口を開いた。
「あの…」
「ん?」
「何だか蒼さんが…意地悪に見えるのですが」
「うん。俺もそう思う」
あっさりと肯定されてしまい、羽海は驚きを隠せない。
声を出さずに笑った蒼は、目の前の羽海の白い首筋に顔を埋めた。
先ほどと同じように唇を落とす。
組み伏せた身体がピクリと震えるのを満足気に見下ろし、ゆっくりと舌を這わせた。
「あ…蒼さんっ……ちょ、待ってください…!」
「んーどうしようかな」
「やっぱり意地悪…です」
「嫌?」
「……」
嫌…じゃない。
首筋に湿った感触を感じながら、羽海は不思議に思っていた。
少しくすぐったいけれど、決して不快ではない。
むしろ、やめるか続けるかと問われれば、続けて欲しいような気さえする。
フワフワと揺れるダークブラウンの髪にそっと手を伸ばしてみる。
そっと触れると、ぎゅうう…と身体の中心を引き絞られるように愛しさが溢れた。
動いちゃ駄目なんだった、と遅れて気がついたが、今度は咎められなかった。
「あ…蒼さん…?」
「……」
「…あ…の」
「………」
声を掛けても返事は返ってこない。
蒼の雰囲気が…違う。
上手くは言えないけれど……怒っているようにも見えるし、焦っているようにも見える。
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