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田んぼや畑に囲まれたほとんど農道に近い道を抜けると、慣れ親しんだ木造一戸建てが見えてきた。
恋人を連れて行くと言ってあったので、父も母も朝から家にいたのだろう。玄関のベルを鳴らすと、間髪を入れずに母親が顔を出した。
「はあい!羽海?おかえり」
「ただいま」
「こんにちは」
「あ、そちら羽海の彼氏さんね。狭いとこだけど、どうぞ上がって頂戴」
お邪魔します、と式台に上がった蒼を、羽海が先に立ってリビングに通す。
引き戸を開けると、小さな卓袱台で父がお茶を飲んでいた。
猫用バスケットから出してもらえるのを今か今かと待ちわびていたマロが、真っ先に駆けて行って父に身体をこすり付ける。
「初めまして、羽海さんとお付き合いさせていただいています。真崎蒼と言います」
蒼は部屋に入るなり、気をつけの姿勢で頭を下げた。
「これはご丁寧に。父の博信です。羽海がお世話になってるようで。まあ、そこに座って」
「母の弘子です。お父さん、今は落ち着いてる振りしてるけど、朝からそわそわしっ放しだったのよ」
悪戯っぽく笑って言う弘子を、博信がおい、とたしなめる。
「真崎くん、羽海を大切にしてくれてありがと。実はお母さん、ちょっと前から羽海に恋人ができたんじゃないかと思ってたの」
「え…っ!気付いてたの!?」
「当たり前よ、わが子のことだもの。羽海、最近すごく幸せそうな顔してたから」
"わが子"という言葉にチクリと胸が痛む。
子の微かな変化に気付くあたりはさすが育ての親といったところだが、弘子と羽海に血の繋がりはないのだ。
「この子、ちょっと変わってるから、どんな人とお付き合いしてるのか心配だったんだけど…気を揉んで損したわ。ね、お父さん?」
「ああ」
博信は素っ気なく頷いただけだったが、長い付き合いである羽海には、父の安堵がありありと伝わってきた。
その後しばらくは世間話に花が咲いた。いつの間にか太陽は真南まできている。
十一月も半ばを過ぎたが、カラリと晴れているからか寒さはそれほど感じない。
これからしようとしている話とは随分と不釣合いな天気だ。
折角だから昼食を食べて行かないかと勧める弘子に、羽海は意を決して切り出した。
「……お父さんとお母さんに、確認したいことが…あるの」
「…どうした?改まって」
わが子の険しい表情で事の重大さを察した二人が、眉を顰める。
「…わ…たし…」
搾り出した声は掠れていた。
本当はこんなこと、打ち明けたくはない。
あの時、事実を知らされなければきっとこの先も平穏に過ごせただろう。いっそのこと知らない振りで通してしまえば丸く収まるのかもしれない。
けれど、長い間自分を育ててくれた大好きな人たちだからこそ、そんなことはしたくなかった。
正座をした膝に乗せた手が小刻みに震える。
なかなか沈黙を破れずに視線を落とすと、自分より一回り大きな蒼の手がそっと手の甲に重なった。
優しい瞳が、大丈夫だと励ましてくれているようだった。
「ねえ、私…は……この家の子どもじゃないの…?」
弘子が息を飲み、口元に手を当てた。
先ほどまでの柔和な笑顔は一転、酷く強張った彼女の顔からみるみる血の気が引いていく。
「どうして…それを……」
「この間、菅波の家の人から聞いた。お父さん、お母さん…本当なの?……私は、本当に…"矢吹羽海"じゃないの…?」
目の前に座る父母が、一様に押し黙る。
永遠にも思えた沈黙の後、博信は静かに目を瞑り、言った。
「本当だ」
瞬間、ズン、と背中に鉛を背負わされたようなショックに襲われる。
麗奈の言ったことがでまかせでないことは分かっていた。それなのに、否定されるのを期待していた自分がいる。
もしかしたら…何言ってる、そんなわけないだろう、と軽く笑って受け流してもらえるのではないか、と。
じわりと熱い塊が込み上げ、羽海は必死で歯を食いしばった。
泣くな。この場では絶対に、泣いてはいけない。
包み隠さず真実を打ち明けてくれた、両親のためにも。
ぎゅ、と羽海の手を握る力が強くなる。
隣に座る蒼は、真剣な眼差しで向かいの二人を見つめていた。
彼の掌から伝わる自分のものではない温もりが、沈んだ心にじわりと染みていく。
「そ…か…やっぱり本当なんだね。……ありがとう、スッキリした。今日は…それを確かめたかったの」
辛うじて笑顔を保った羽海は、消えそうな声で呟く。
嘘ではない。ずっと思い悩んでいたことをやっと確かめることができたのだから。
「羽海…今まで黙っていてごめんね…」
長い沈黙の後、弘子がポツリと漏らした。
「菅波グループからあなたとの養子縁組の話を持ちかけられたとき、本当は断るつもりだったのよ。子どもは欲しかったけどうちはこの通り貧乏だし、本当の親の元で育ててもらえないのは羽海自身にも良くないと思って……だけど…」
言葉を切り、弘子は俯いた。
それが涙を堪えるときの仕草だと、羽海は知っていた。
「だけど、向こうのご両親に詳しい事情を聞いて…気持ちが揺れた。私が子どもを生めない体だってこともご存知でね。結局最後には、先方の要望を呑んだの。羽海のことはすごく大切よ。だけど……本当のことを打ち明けることはどうしてもできなかった。……苦しませるの、目に見えてたから…」
「お母さん…」
幼い頃から、並大抵のことでは笑顔を崩さなかった彼女。
そんな母親が自慢だった。
よく働き、よく笑い、社交的で。母のような女性になりたいと羽海は密かに憧れていた。
「隠し通した挙句、他の人から事実を明かされるなんてなあ…」
「お父さん…」
博信と弘子は、揃って苦しげな表情を浮かべていた。
打ち明けるのか、隠し通すのか。それは、散々悩んだ末の身を切られるような決断だったに違いない。
すべては、わが子に辛い思いをさせないために。
「私…ね、今日ここに来る前に、これだけは絶対に言いたいと思ってたことがあるの」
羽海が静かに口を開く。
両親から大切に思われていることが、痛いほど伝わってきた。
それだけでもう十分だ。やはり打ち明けてよかった。選択は、間違ってはいなかったのだ。
「この先何があっても、二人はずーっと私のお父さんとお母さんだよ」
羽海は卓袱台の下で、ぎゅっと蒼の手を握り返した。
「羽海…っ」
「やだ、お母さん…泣かないでよ……」
頬を、一筋の温かい雫が流れ落ちてゆく。
慌てて唇を噛もうとした羽海だが、それは横から伸びてきた手によって阻まれた。
蒼の指が、そっと唇に触れている。
「ご両親の前でまで我慢すんなよ」
「……っ」
蒼の、柔らかな笑顔を見たらもう駄目だった。
いつもそうだ。強がりたい時に限って、この上なく優しい声で、この上なく優しい言葉をくれる。
おかげで彼の前では泣いてばかりで、毎回、一番弱い部分を晒してしまう。
涙が止まらなくなった羽海を、弘子がフワリと抱き締めた。
血の繋がりなんてどうでもいい。
二人で食べていくのがやっとの状況で、それでもこの人たちは自分を引き取って大切に育ててくれた。
過去を振り返れば、本当の親子より固い絆があると自信を持って言える。不安になることなど、ちっともなかったのだ。
「わ…たし…っく……この、家の子で…よかった…っ」
幼子のように弘子の胸に抱かれて嗚咽する羽海と。
同じく涙にむせぶ弘子に、博信までもが目頭を押さえている。
マロを膝に抱いた蒼だけが、にこやかに親子の微笑ましい場面を見守っていた。