31
天然温泉を満喫し、木と藺草の香りのする部屋に戻ると、浴衣姿の蒼が窓辺で涼んでいた。
全国でもそこそこ有名な温泉が密集するこの地域は、羽海の実家よりさらに田舎の山あいにある。
矢吹家で昼食を済ませた後、近くの観光スポットに寄り道をしていると、いつの間にか日が暮れていた。
予定よりも大幅に遅れて宿に着くと、すでに夕餉時で。
湯殿に向かったのは、旬の海の幸をふんだんに使った豪華な料理を堪能した後となった。
「お風呂上りに窓を開けると気持ちいいですね」
「だな。寒くない?」
「はい、丁度いいです」
近くに川があるのか、微かにせせらぎの音が聞こえてくる。
まだしっとりと水気を含む髪を纏めると、露出した首筋に初冬の澄んだ空気が心地良かった。
窓際に向かい合って置かれた一人掛け用ソファ。蒼が座っていない方に腰掛けた羽海は、浴衣を着崩す彼からさり気なく目を逸らした。
「今日は…見苦しいところを見せてしまって」
「そんなこと気にすんなよ。最近の矢吹の浮かない顔の方が心配だった」
「す、すみません」
「んー…吹っ切れたみたいだし、許す」
冗談めかして微笑む蒼につられて、羽海も笑った。
確かに、両親の本音を聞いて随分と気が楽になった。自分の気持ちにも整理がついて、胸の閊えがとれた気がする。
すべて、蒼が背中を押してくれたおかげだ。
「ありがとうございます」
「ん?なにが?」
「いえ…」
彼の笑顔に何度も救われた。
自分一人だけだったら、きっと打ち明けられなかった。
傍に蒼がいたからこそ、勇気を出して両親と向き合えたのだ。
寄りかかれる人が当たり前のように傍にいることは、こんなにも幸せなのだと、今回の件で実感した。
つい半年前までは、恋などという出来事が自分にも起こるなんて、想像すらできなかったのに。
「な、ちょっと飲まない?」
火照った身体に風を当てクールダウンしていた羽海に、楽しげな蒼の声が届いた。
その手には缶ビールと、元々部屋にあったグラスが握られている。
「いつの間に…持ってきてたんですか?」
「さっきコンビニ寄ったときに買った。風呂上りにキンキンに冷えたやつが飲みたいと思って」
欲しかったおもちゃを手に入れた子どものように屈託なく笑う。
羽海に片方のグラスを手渡した蒼は、プシュッと小気味良い音とともにプルタブを持ち上げた。
宴の準備はあっという間に整い、カチンと二人のグラスが合わさる。
酒はあまり飲まない羽海だが、温泉につかった後のビールはことのほか爽快で酌が進む。
思えば蒼と一緒に飲み交わすのは初めてだった。
彼が普段どれくらい酒を飲むのかは分からないが、少なくとも下戸ではないだろう、と思う。
向かいのグラスが空になるタイミングで次々と追加を注ぐが、そのペースは緩まない。
「なんか、矢吹がビール飲んでるって変な感じする」
不意に、蒼が呟いた。
心なしか緩んだ目は、注がれたばかりの液体から次々と生まれる気泡を見つめている。
「私、弱そうですか?」
グラス二杯でほんのり頬を染めた羽海は、へにゃりと表情を崩す。
「強そうではないなー」
「どうでしょう。実は自分でもよく分からないんです」
羽海とて社会人。付き合いで飲みに行くことくらいはある。
しかし、隅の方の席でちびちびやっていることが多いためか、過度に酔っ払った経験がない。
それに、潰れて人様に迷惑をかけるという最悪の事態を想像すると、つい自制してしまう。
「矢吹、高校ん時すげー真面目だったじゃん。だからかな、酒飲んだりとか…遊んでるイメージがないのかも」
「うーん、そんなこともないのですけど。マロや近所の子たちとはしょっちゅう遊んでましたし」
「はは…そうじゃなくて、高校生っぽいちょっと不真面目な遊びとかさ」
"不真面目な遊び"の例を思い浮かべてみたが、飲酒や喫煙くらいしか思い浮かばなかった。
眉間に皺を寄せて真剣に考えを巡らす羽海に、蒼が声を殺して笑う。
「してみる?不真面目な遊び」
「え?」
呆けて聞き返した羽海は、次の瞬間テーブル越しに引き寄せられた。
額と額がコツン、とぶつかり、わずか数センチ先に、愛しい人の顔がある。
恥ずかしさでまともに目を見られない。
「あ…蒼さん、酔ってるんですか?」
「このくらいで酔わない。矢吹こそ、顔真っ赤だけど」
「そ、それは…っ!」
弁解しようとした羽海は、しかし口を噤んだ。
急に接近されたからだと正直に言うのは、どうにも釈然としない。
こちらの心中を知ってか知らずか、蒼はクツクツと背中を震わせて笑っている。
何となく、鼻持ちならない。
羽海がわざとぶすくれた顔をつくっていると、頬にキスを落とされた。完全に不意打ちだ。
「な…っ何するんですか…!」
「何怒ってんですか」
「…怒っては…いません」
「ふーん」
羽海の口調を真似た蒼に素直に答えると、ニヤリと意地の悪い微笑みが返ってくる。
心臓がドキリと鳴った。こういう時の彼は、要注意だ。
ソファから立ち上がり、近づいてくるその姿に若干身構える。
「ちょ…蒼さんッ!やっぱり酔ってるでしょう!」
浴衣の合わせ目に手をかけられ羞恥に絶えられなくなった羽海は、冗談ぽく蒼をたしなめるが。
「酔ってないってさっきも言った。」
返ってきたのはにべもない言葉。
確かに蒼の様子は素面のときと何ら変わらない。強いて言えばいつもより少し強引なくらいか。
「浴衣、すげーそそる」
「ん…っ」
剥き出しのうなじをちゅ…と音を立てて吸われた。
温かく湿った舌先がゆっくりと鎖骨をなぞる。
それだけで、ゾクリと身体が震えた。
その震えは、陸に口付けられた時に感じたそれとは真逆のもので。
「……こそ」
「え?」
「蒼さんこそ…。さっきから目のやり場に困ってるんですから」
ソファに凭れかかる羽海。
その両側を肘をついて囲む蒼の浴衣の合わせ目は、完全に肌蹴ている。
細身に見えて意外と筋肉質な胸や二の腕は、見慣れていない身には心臓に悪い。
「それ、こっちの台詞」
「…嘘。いつも余裕なくせに」
「そりゃ、カッコ悪いって思われたくねーもん」
じっと見据えてくる彼の瞳の色が、変わった。
この表情を見ていると、悲しくもないのに涙が出そうになるから不思議だ。
羽海は、少しだけ身を乗り出し、初めて自ら恋人に口づけた。
ふわりと嬉しそうに笑った蒼の向こう、カーテンの隙間から、澄んだ冬の空に輝く三日月が見えた。