32
温泉宿で一泊した日から早二週間が経った。
会社帰りの蒼からメールで呼び出された羽海は、今やすっかり見慣れたシンプルな部屋のカーペットの上に座っていた。
薄い壁一枚隔てただけのバスルームからは、微かに水音が聞こえてくる。
突然、脳裏に着崩れた浴衣姿の蒼が浮かび上がった。
生々しい映像を追い払うようにブンブンと首を振る。
半月も経つというのに、あの夜のことを思い出すと未だにどうしようもなく恥ずかしい。
恋仲になれば必ず通る道だと分かっていたし、二人で旅行するという時点でそうなる覚悟はあった。
あったのだが。
いざとなると、ただただ羞恥に耐えることしかできなかった。
そんな状況でも蒼はひたすら優しくて、緊張で固まる身体をほぐすように何度も髪を撫でてくれた。
触れられているところすべてが熱くて、そこから蕩けていってしまいそうだった。
自分が自分でなくなるような怖さもあった。
だけど、愛しい気持ちは前よりずっと…比べ物にならないくらい大きくなっていて。
そこまで考えてはたと我に返った羽海は、慌てて抱えていた膝に顔を埋めた。
顔が熱い。
最近、気がつけば蒼のことを考えてしまっている。
名前を呼んでくれる低い声や、柔らかそうなブラウンの髪。
人懐っこい顔で笑うのに、たまに見せる真剣な表情は凛として大人っぽくて。
彼の腕に包まれると、日向のような温かい匂いがする。
好きで好きで仕方ない。
蒼のいない生活など、考えられないくらいに。
「あれ?」
ふと窓辺に目を向けると、見慣れない植木鉢が置いてあった。蒼が買ってきたのだろうか。
立って行って観察すると、そこにはガーデン植物らしきものが植わっていた。
二十センチほどの草丈に、ハートのような形の葉。つるりとしたその表面は、光を反射して上品な光沢を放っていた。
「はー!さっぱりした」
部屋着姿で首にタオルをかけた蒼が、伸びをしつつやってくる。
その緩んだ表情が、窓際の植木鉢を見つめる羽海を認めたとたん固まった。
「あ、蒼さん、この植物、何ていうんですか?」
「え、…ああ。貰い物だから…俺はよく知らない」
「すごく可愛いです。観葉植物でしょうか」
どんな花が咲くのでしょうね、と目を輝かせる羽海は、明らかに不自然な恋人の様子に露ほども気付かない。
気まずそうに視線を泳がせた蒼は、テレビのリモコンを手に取りスイッチを入れた。
「あ、そういえば、この間仕事で得意先まわってる時にすげー広い公園見つけたんだ。今度行ってみない?」
「公園ですか…!いいですね」
「ウォーキングコースがあってさ、晴れの日は気持ち良さそうだった」
「わー…楽しみです」
早々と話題が変わったことにも不審さを感じない羽海は、ウォーキングコースと聞いて、ジョギングに最適かもしれない、とのん気に想像を膨らませた。
蒼と一緒に並木道を走るところを想像し、ついニヤけてしまう。
「これから二人で色んなとこ行こうな」
「はい!あ、でも蒼さんがお疲れでしたら、部屋でまったり、とか」
蒼は、仕事が忙しいのか、近頃随分と疲れを溜めているようだった。
本人は努めて平気な振りをしているが、明らかに無理をしているのが分かる。しばしば目の下に濃い隈をつくっているのだ。
せめて栄養のあるものを作ろう、と羽海は腕まくりをしつつキッチンに立った。
冷蔵庫から野菜を取り出し、水道の蛇口を捻る。
「でも、一緒にいられるうちに思い出作っときたいしな…」
それはおそらく羽海に向けられた言葉ではなかったのだろう。
しかし、呟くような、小さなその声が聞こえてしまい、思わず手が止まった。
ぼんやりとテレビを眺めている蒼は、こちらを見ていなかった。
「蒼さん…今、何て…」
「ん?これからたくさん思い出作ろうなって」
聞こえなかったと思い込んでいるのか、いつもの爽やかな笑顔が返ってくる。
羽海は慌てて、そうですね、と相槌を打った。
何事もなかったかのようにテレビに視線をやる後姿に、心臓がドクドクと嫌な音を立てた。
はっきりとは聞こえなかったが、確かに蒼は"一緒にいられるうちに"と言った。
まるで近いうちに二人が離れ離れになってしまうような言い方。
何の気なしに漏らした言葉なのかもしれない。
けれどとてつもなく嫌な予感が…した。
テレビでは、最近人気が出てきたらしいお笑いコンビがゲストで紹介されている。
披露された漫才にどっと周囲が沸くと、それに合わせたように蒼も笑う。
ぐるぐると渦を巻く思考の中、野菜を洗う水道水の音だけがやけに鮮明に聞こえる。
上の空で作業を終えた時、羽海の頭に一つの考えが浮かんだ。
病気―――
蒼は、もしかすると重い病気に罹っているのではないか。
瞬間、すぐにその可能性を打ち消した。
縁起でもない。
だが、そう仮定すると、先ほどの言葉にも説明がつく。考えれば考えるほど、想像が現実味をもって迫ってくる。
疲れていたのは…病気が進行してきたからではないか。
チラリとリビングを盗み見ると、蒼はテレビを付けたまま横たわり、眠っていた。
やはり、相当疲れている。
ベッドから布団を取り上げ、彼を起こさないようそっと被せた。
ポトリ、と布団の上に一粒水滴が落ちた。
羽海は堪えきれず、その場にしゃがみ込み両掌で顔を覆った。
きっと彼は、何気なく口にしただけだ。深い意味なんてない。
第一現実味がなさ過ぎる。ほんの一、二ヶ月前まで、彼は元気だったのだ。
絶対にない、と懸命に打ち消すも、そうしている時点でこの嫌な考えを認めてしまっているような気がした。
もはや思考には歯止めが利きそうになかった。