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 その日は、いつにも増して底冷えのする朝だった。
 フローリングに敷かれた煎餅布団から這い出た羽海は、携帯で時刻を確認した。
 午前五時。いつも通りの起床時間。

 十二月半ばの冷たい外気に身を震わせ、欠伸を噛み殺す。
 羽海はここのところ不眠症に悩まされていた。
 原因は言わずもがな、自身の中で勝手に勢力を増してきている"蒼重病説"のせいだ。
 あれから日を追うごとにやつれ、ぼんやりと物思いに耽ることが多くなった蒼。
 やつれた理由を訊ねても"仕事が忙しいから"の一点張りで、芳しい答えは得られない。
 気を揉むなという方が無理な話だった。

 髪を後ろでまとめた羽海は 、今にも泣き出しそうな空を見上げつつジョギングに出た。
 もちろん、蒼は来ていなかった。







「蒼さん…大丈夫かな」

 仕事を終えた羽海は、アパートに向かって自転車を漕ぎつつ独り言を漏らした。
 不意に、ポツポツと冷たい雫が頬を叩く。

「わ…!やっぱり降ってきちゃったか」

 朝から空模様が怪しかったのに、今日に限って傘を忘れるなんてついてない。
 ペダルを思い切り踏みこみ、近くのホテルの軒下に逃れる。
 降り出したのが繁華街にいる時だったのは幸いだった。田舎道に入ってしまっていたら、雨宿りする場所はほとんどない。

 あっという間に土砂降りになった雨は、みぞれも混じり、コンクリートの地面を容赦なく叩き続ける。
 風も出てきた。
 端に立っていたのでは濡れてしまう。
 羽海は自転車を押しつつ、ホテルの入り口付近まで移動した。

「それにしても、豪華なホテル…」

 寒さを誤魔化すためマフラーに顔を埋め、立派なガラス越しにホテル内を覗く。
 そこには広々としたロビーが広がっていた。

 高級そうな革張りのソファ。ガラステーブル。モダンな内装。
 天井から吊られた大きなシャンデリアの光が、ピカピカに磨かれた床に反射している。
 中に入っていく客は小奇麗な格好をしたお金持ちばかりだ。
 スレンダーな美人スタッフが外まで出て「お荷物をお預かりいたします」と、恭しく頭を下げる。

 羽海は、私には一生縁のないところだな、と人ごとのように思った。
 一泊で給料一ヶ月分は軽く飛んでいってしまいそうだ。
 麗奈のような人は、日常的にこういうところを利用するのかもしれない。

 最近めっきり言葉を交わしていない双子の妹のことに思いをめぐらせていると、次の瞬間、羽海は目を瞠った。

 ロビーの奥にある大きなエレベーター。
 滑るように開いた扉の後ろに、当の本人が姿を現したからだ。
 噂をすれば影だと驚きつつ、彼女がこちらに気付くのではと視線を送ってみる。
 目が合ったら手を振ろう、と心を躍らせる羽海は、麗奈に嫌われていることなど完全に忘れていた。

「麗奈さん…綺麗……」

 パーティードレスに身を包んだ彼女は、とても自分と双子だとは思えない。
 胸元のざっくり開いたデザインを上品に着こなしているあたり、さすが婦人服部門のスタッフと言うべきか。
 いつも以上に洗練された格好は、もしかすると陸と会う約束をしているのかもしれない。

 柔らかそうなソファに座る麗奈に、羽海は頑張ってください…!と密かにエールを送った。


 麗奈が頼んだ飲み物が運ばれてくる。
 綺麗な指がお洒落なカップの取っ手を掴み、形の良い唇へと運ぶ。
 一口飲んだ後辺りを見渡した麗奈は、目的の人物を見つけて軽く手を挙げる。


 ワクワクしながら彼女の視線の先を見つめた羽海。
 しかし、そこには目を疑いたくなるような光景があった。

 真っ黒な空が光り、少し遅れて落雷の重低音が鳴り響く。



 麗奈のもとにやってきたのは、羽海が絶対に見間違えようのない人物。

 スーツ姿の蒼だったのだ。







 キイ、と軋んだ音とともにアパートのドアを開けた。
 すぐさま愛猫が飛びついてくるが、びしょ濡れの羽海に驚いたのか、に、と小さく声を上げ後ずさった。

「マロ……どうしよう…」


 ぽたぽたと床に滴り落ちる雨水を気にする余裕もなかった。

「私…浮気…されてるのかな……」

 麗奈の向かいに座った蒼は、当然のように彼女と話していた。
 会って一日二日ではない、お互い随分前から知っていたような気安い雰囲気。
 不安と寂しさがないまぜになって渦を巻く。
 二人に姿を見られていないことが唯一の救いだった。

 足元にできた水溜りに、羽海の頬を伝った温かい雫が混ざり合う。
 雨と涙で顔はぐしゃぐしゃだ。
 べっとりと肌に貼りついた安物の服が、除々に体温を奪っていく。

 素敵なドレスを完璧に着こなす麗奈と。
 かたや、みすぼらしい格好で濡れ鼠になっている自分。
 改めて比べるまでもない。差は歴然だ。

 もしも、彼が麗奈を好きだとしたら。


 私には、土俵に立つ資格さえないんじゃないだろうか。



 身体を突き刺すような寒気を感じるも、シャワーを浴びる気力はなく、それどころか服を着替えることもできなかった。

 羽海はその晩、高熱を出して寝込んだ。






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