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「あ!矢吹さん!もう出てきて大丈夫なの?」
 久しぶりに定刻通りに出勤した羽海は、子ども服の先輩スタッフに声をかけられた。
「大丈夫です。大変ご迷惑をお掛けしました」
「やだ、いいのよ。いつもよく働いてくれてるんだから、体調悪い時くらいゆっくりして」
「すみません…ありがとうございます」


 冷たいみぞれに打たれたせいか、羽海は高熱を出し、三日間も寝込んだ。
 看病すると言ってくれた蒼の好意を丁重に断り続けたため、あれから彼とは一度も顔を合わせていない。
 仕事が忙しいときに無理をさせたくない。
 というのは建前で、会うのが怖かったというのが本当の理由だった。


「元気ないわね。無理しないでもう一日休んでも良いのよ?」
「い、いえ!もう熱は下がりましたので心配いりません!…ありがとうございます」

 気遣わしげに掛けられた言葉に羽海は笑顔をつくって答えた。
 人と接する仕事なのだ。辛気臭い顔をしていてはお客さんにもスタッフにも迷惑をかけてしまう。


 とは言え、勤務中、暇な時間にはどうしても麗奈と蒼の姿が脳裏をよぎった。
 この三日間何度も夢に見た、蒼に別れを告げられるシーンがリアルに甦ってくる。

 気を抜けばじわりと滲みそうになる涙を、眉間を絞り必死で堪えて。
 それを何度も繰り返していた羽海は、夕方、ついに呼び出しを食らった。


「気分が優れないならもう帰りなさい」
 うす暗い在庫置き場で、雛乃が静かに言った。
「…ご迷惑をお掛けしてすみません。でも体調はもう…」
「体だけの心配をしてるんじゃないわ。上の空で仕事をしてミスしたら、お客様に迷惑をかけるかもしれないでしょう」
「……はい」
「今日はそんなに忙しくないから、遅番は私一人でも大丈夫よ」

 厳しい風に聞こえるが、こちらを労わってくれているのが伝わってくる。
 羽海は何度も頭を下げ、雛乃の好意に甘えることにした。
 彼女が若くして部門リーダーを任されているゆえんはこういうところにあるのだろう。

 従業員専用の通路を通り、更衣室で手早く着替えを済ませる。
 つい、溜め息が零れた。

 情けない。
 蒼のことになると自分はまるで駄目だ。
 ただ麗奈と一緒にいたというだけ。やましいことをしている場面を見たわけではないのに。
 それなのに…思考はどんどん闇に落ちていく。

 思い過ごしだと笑い飛ばして、軽い調子で訊ねることができればどんなに楽か。
 どうして麗奈と知り合いだと言ってくれなかったのか、と。
 私が麗奈に嫌われているからって遠慮しなくてもいいのに、と。


 またもや深い溜め息をついた羽海は、はたと気がつき首を振った。
 こんな考え方は良くない。蒼のことを頭から疑ってかかっているみたいじゃないか。

「今日は…早めに寝よう」

 首にマフラーを巻きつけ、更衣室のドアノブに手を掛けた。

「きゃ…」
「あ…!すみませんっ」
「…いえ、こちらこそ」

 どうやらドアの向こうには人がいたようだ。
 折しも今は早番のスタッフの上がりの時間。
 着替えに入ろうとしたところを驚かせてしまった。

 怪我はないですかと訊ねようとして、初めて相手を確認した羽海は、息を飲んだ。


「麗奈…さん」
「……」

 絡んだ視線を逸らされ、隣をすり抜けた麗奈はさっさとロッカーへ向かう。
 とっさにその腕を掴んでしまったのは、たぶん、無意識。

「何よ?」
「聞きたいことがあります。少しお時間をもらえませんか?」
「…あなたが私に?今さら話すことなんて」
「お願いします…!」

 麗奈の発言を遮り、頭を下げた。
 どうしてここまでしているのか、自分でも分からない。けれど今、彼女に話を聞かなければならないような気がした。

「……分かったわよ。そこのカフェでいいわね」

 常ならぬ様子を感じたのか、麗奈は渋々頷いた。







 しとしとと霧雨が降っている。
 ここのところ寒い日が続いているのは、大陸から寒気団が降りてきているからだ、と言っていたのは子ども服のスタッフだっただろうか。

 百貨店の一階のカフェで、羽海はココアを、麗奈はコーヒーを啜っていた。

「で、訊きたいことって?」
「四日前の…夕方のことです。麗奈さん、街のホテルにいましたよね」

 断定的な羽海の物言いに、麗奈は怪訝な表情を見せた。

「いたけど。それがどうかしたの?」
「私…偶然ホテルの外で見たんです。麗奈さんが人と会っているところ」
「…何が言いたいの?」

 …怖い。
 真実を知るのが恐ろしくて、核心を避けて話すことしかできない。
 それでも、言わなければ。
 膝の上でぎゅ、と拳を握り締める。
 両親の前で、蒼が握っていてくれた手のぬくもりがリアルに甦ってくる。


「その人、真崎…蒼さんではありませんか?」


 麗奈の目がわずかに見開かれた。

「彼と、知り合いなの…?」

 その反応は、彼女が事実関係を何も知らないことを物語っていた。
 羽海は大きく息を吸い込み、そして吐きだす。

「付き合ってるんです」
「……!」

 今度こそ、目の前の彼女が息を呑んだ。

「嘘…でしょ…?」
「本当です」
「…そんな…でも彼は……」

 言葉を詰まらせた麗奈は、絡んでいた視線を泳がせた。
 何かを言おうとして開いた形の良い唇が、一瞬の躊躇いの後すぐに閉ざされる。

 恋敵に対する態度ではない。
 むしろ羽海を気遣い、哀れんでいるような。
 浮気予想は外れていたということだろうか…。
 心の中でほっと安堵するが、しかし麗奈の次の言葉は羽海を奈落の底へと突き落とした。


「あなた…彼から何も事情を聞かずに交際していたの?」
「…どういうことですか?」
「こっちが聞きたいわよ。まさかあなたたち、遊び半分で付き合ってるの?」
「…!そんなわけありません…!」


 遊びと言われて全否定する羽海を見て、麗奈の顔がますます曇ってゆく。
 その表情は、遊びなら良かったのにとでも言いたげだった。

 ドクドクと心臓が早鐘を打つ。
 嫌な予感が止まらない。

 入り口の自動ドアが開き、凍りつくように冷たい風が頬を刺した。


「そう…。…本気なら、これは早めに言っておいたほうがいいわね」
「…え…?」

 麗奈の長いまつげがゆっくりと伏せられ、そして、再び真っ直ぐ羽海を見据える。


「真崎蒼は、私の婚約者よ」






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