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「…婚約者……?」

 "コンヤクシャ"

 あまりにも突拍子もない発言に、羽海の目が点になる。
 待って。その言葉、お互いに将来を約束し合った男女って意味じゃ…。

 石化する羽海に、麗奈がとどめをさした。

「私と彼は、近い将来結婚する。もう何年も前から決められていることよ」

 冗談や嫌がらせなどではないことが、彼女の纏う空気で分かってしまう。
 顔面蒼白で言葉を失う羽海に、麗奈はとつとつと語り始めた。


「彼の家系が代々金融業を営んでいることは知っている?」

 羽海は力なくかぶりを振った。
 家系どころか蒼がどんな仕事をしているのかすら、知らない。
 家や仕事の話になると、彼はいつも居心地が悪そうに話を逸らすから。
 聞かないでおこうと思っていた。いつか話してくれると、その時を気長に待てばいいと楽観的に考えていた。

「彼は大手の銀行に勤めているの。有名大学の経済学部を主席で卒業して、入社一年目からその営業成績はめざましかった。それに目をつけたのが、菅波家」

 菅波の両親の間には、運悪く男子が生まれなかった。
 幼い頃から徹底的に英才教育を受けてきた麗奈だが、しかし幅広い分野に株主として資金を投入している菅波家は、その事業を切り盛りするために、彼女に勝る頭脳と行動力を欲していた。

 つまりは、跡取りの麗奈に菅波の名に相応しい婿を取らせるため、緻密な情報網を張り巡らせていたのだ。


「菅波は…真崎家が営む事業の筆頭株主なの。この意味、分かる?」
「……よく…分かりません…」

 ようやく掠れた声を搾り出した羽海に、麗奈は静かに言い放った。


「菅波の力添えがないと、真崎家は成り立たないってことよ」

 菅波の要求は真崎にとって絶対。
 それは、圧倒的な主従関係なのだと麗奈は続けた。
 むしろ、長男を菅波の跡継ぎにできるなんて、真崎には勿体ないくらい良い話だ。

「婚約の話が持ち上がったのは、私たちがまだ大学生の時。出資先の企業の御曹司にすごいのがいるって両親は騒いでた。もしお前さえ良ければ、結婚を考えてみてくれって」
「……」
「無理強いされたわけじゃない。でも二人からの期待は手に取るように伝わってきて…。気が進まなかったけれど、どうしても断りきれなかったから……一度会ってみたいって答えたの」

 ぎゅっと眉根を寄せる麗奈は、当時の心境を思い出しているのか、悲しみとも諦めともつかない表情をしていた。

「初めて会ったのは…彼と私が二十一の時だった。お互いまだ結婚を考える年でもないし、会ったところでどうすればいいのか…途方に暮れてた。そしたら…」

 ―――なーに辛気臭い顔してんだよ。どうせならこの時間、楽しまなきゃ損じゃん。

「初対面の彼は…そう言って笑ったの。にいって、口を三日月形にして…」

 恋愛感情では決してなかった。
 私が好きなのは物心ついたときから今までずーっと陸。それは、きっとこれからも変わらない。
 だけど。
 この人となら、うまくやっていけるかもって思った。
 
 二十年くらいかな…すごく長い間、陸だけを見て、片思いしてきて、たくさん傷ついた。
 なのに陸は、一度も私を見てくれない…。
 それなら親孝行だと思って、この婚約に乗っても良いかなと思ってしまったの。

 そこで麗奈は言葉を切り、向かいに座る羽海にゆっくりと頭を下げた。

「あんなに意地悪した後で信じてもらえないかも知れないけど、あなたの恋愛の邪魔をする気なんて少しもなかったのよ…。ごめんなさい」


「……」


 すっかり冷めてしまったマグカップが二つ、テーブルの上で沈黙していた。
 今、自分はどんな顔をしているのだろう。
 ガラス張りになった壁の方を見ようとして、やめた。

 見たら…泣いてしまいそうな気がした。



 ―――蒼でいい

 彼と初めて言葉を交わした日。
 "真崎さん"と呼んだ私に、蒼はそう言った。


 ―――親がどっかの社長かなんかで、チョー金持ちなんだよ。なんでまた羽海が住むようなボロアパ     ートに…

 引越し先に高校の同級生がいた、と話した時の、凛の言葉。


 ―――妹は俺のこと、あんまり良く思ってないかも

 二人で蒼の妹の誕生日プレゼントを選ぼうと、車で雑貨屋に行った。
 その時彼は、何気ない調子でそんなことを呟いていた。


 お金持ちなのに家を出て安いアパート暮らしをしていて。
 苗字で呼ばれるのを極端に嫌う。
 それは、"真崎"に縛られたくなかったから…?
 妹によく思われていないと思うのは…彼女ばかりに両親の期待を背負わせているから…?

 今まで流していた彼の言動が、胸に突き刺さる。
 婦人服のヘルプに当たった時もそうだった。
 コーディネートを考えてもらったと話したら、蒼はやけに切羽詰った様子で、"麗奈さん"に?と訊ねた。
 今思えばあれは、婚約の件がばれるのを懸念しての発言だったのだ。
 そして動物園デートの時も。たった一度しか話に上っていない麗奈の名を、蒼は覚えていた。



「なんだ…蒼さん、私のことは最初から遊びだったんだ…」


 自然と口から出た自嘲的な台詞。
 軽く言ったつもりだった言葉は、しかし鉛のように重く心に沈んでいく。

「待って、それは本人に訊かなきゃまだ」
「訊けるわけないじゃないですか…!」
「……」

 テーブルの上で、握り締めた掌が震えた。

「遊びじゃないなら婚約のこと…私に打ち明けてくれていたはずです」

 麗奈にこんなことを言っても仕方ない。
 分かっているのに、口が勝手に喋りだす。

「話してくれたら一緒に考えることもできたのに…!」


 蒼はいつだって、悩みを聞いてくれて、励ましてくれた。
 なのに私は……彼の心の中を何も知らない。

 こんなんじゃ到底、恋人同士なんて言えない。
 そもそも、蒼と麗奈の結婚は決定事項で。
 何の力もない自分には、どうすることもできない。


 外ではなおも、霧雨が静かに降り続いていた。
 降っていないように見えても、傘なしで外に出るとずぶ濡れになる空気のような雨は、しばらく止みそうになかった。






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