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ふわふわと暖かい陽気を運んでくるような春風。
公園のベンチで本を読んでいた羽海は、固まった身体をほぐすように一つ伸びをした。
足元の芝生でうたた寝をしていたマロが首をもたげる。
顎をなでてやると気持ち良いのか、小さな喉がグルグルと鳴った。
蒼と別れてから一年と四ヶ月。
最初は食事も満足に摂れず家に引き篭もりがちだった羽海だが、今ではすっかり彼のいない日常に慣れていた。
もう、どこかでばったり出会うこともないだろう。
蒼は、ちょうど一年前、実家に帰ると言ってアパートを出て行ったっきりだから。
あれから、どうしているだろうか。
仕事で無理をしていないだろうか。
麗奈との婚約は…順調に進んでいるのだろうか――
「あれ?矢吹さん?」
不意に名前を呼ばれ振り返ると、見慣れた端整な顔立ちの上司がいた。
シャツにジーンズという、珍しくラフな格好だ。
「桜井さん…こんにちは。本当によく会いますね」
「だね。その猫、君の?」
「はい」
「へえ…賢そうだな」
初対面の相手に背中を撫でられても、マロは目を瞑ったまま微動だにしない。
「桜井さんほどの方でもこういうところに来るんですね」
「何それ、俺だってたまにはのんびりしたいよ」
「お仕事、大変ですもんね」
陸はこの春また一つ昇進し、代表取締役への階段を順調に上っている。
その忙しさは平社員の羽海とは比べ物にならない。
羽海の隣に腰を下ろし、陸は優雅に長い足を組んだ。
「君は…もうこういうところでのんびりできるくらいには回復した?」
「……はい」
彼の言葉にこめられた意味を理解して、少しためらいつつも首を縦に振った。
仕事と家事と、マロの世話。
最近やっと、そんな日常を幸せだと思えるようになった。
休みの日はスーパーのタイムセールに走り、実家に帰って両親と過ごす。
時々、凛のために栄養のあるものを作る。
今まで通りの、何の変哲もない、だけど自分らしい毎日。
彼と一緒に訪れた公園にも、こうして気軽に立ち寄れる。
これで、いい。
そもそも恋なんて、私には縁のないものだったんだから。
彼とつき合えたこと自体、奇跡みたいなものだったんだから。
「だから信用しない方がいいって言ったのに」
ポソリと呟かれたその言葉に、羽海は驚いて隣を凝視する。
「…もしかして……全部知ってたんですか!?」
「なんだ、今頃気付いたの?知ってたから忠告したに決まってるだろ」
「……」
ケロッと言い放つ上司に、開いた口が塞がらない。
確かに、菅波家にしばしば出入りしていた彼なら婚約のことを知っていてもおかしくはない。
おかしくはないけれど……それにしたって…。
「もう少し早く教えてくれれば良かったのに…」
「俺の一言で君の幸せをぶち壊すのも忍びないと思って」
「……」
眉尻を下げて申し訳なさそうな顔をする陸。
だけど、どうにも遊ばれていた感が拭えないのは気のせいだろうか。
ううむ、と眉間を絞る羽海の顔を、陸が覗き込む。
「乙女心を弄ぶような奴なんかやめて、俺にすれば?」
「……え?」
「過去の恋が吹っ切れたら、俺のことも真剣に考えてくれないかなって」
悪戯っぽい笑みを浮かべた陸は、心の内を覗くように言う。
冗談なのか、本気なのか。
その仮面の下の素顔は、一年経っても未だに謎だ。
けれど。
「…私は、今でも蒼さんが好きです」
そよそよと吹く春風に乗せて、羽海は歌うように言った。
「未練がましくて格好悪いことは重々承知です。だけど…それでも私、一生彼のこと忘れられないと思うんです」
ずっと愛していると言ってくれた。
地味で、変わり者で、貧乏で、特に取り柄もない自分のことを。
二十四年間、異性にまともに相手にされたことなど、ただの一度もなかったのに。
彼は、そんな私に特別な言葉をくれて。
優しく包み込んでくれた。
蒼と一緒にいる時間だけは、世界で一番幸せな女の子になれた。
「ふーん…君も強情だね」
前方を一瞥した陸は、ニヤリと楽しげに口角を上げる。
「何とでも言ってください。少なくとも今は、蒼さん以外の人なんて考えられないんです」
「そういうこと、俺の前で言っていいのかな?」
突然、腰を強い力で引き寄せられた。
人一人分ほどもあった距離が一気に近くなる。
「ちょ…!やめてくださいっ」
以前の二の舞は絶対に嫌だ――
腕を掴む大きな手を必死で振りほどこうともがくけれど、ビクともしない。
男にしておくには勿体ないくらい綺麗な顔が、ゆっくりと近づいてくる。
彼の左手が、羽海の髪に触れようとした。
その時。
「待てよ」
一際強い春風が、吹きぬけた。
聞き覚えのある声。
いや、覚えがあるなんてものじゃない。
一年以上もの間、ずっと忘れられなかった…ずっと聞きたくて堪らなかった声。
息を切らせた蒼が、陸の手首を掴んでいた。
初めて二人で出かけた雑貨屋が脳裏を過ぎる。
ああ、あの時も蒼は…自分に触れようとした陸の腕を制したんだ…。