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「婚約してるのに付き合おうなんて言って…ごめん」
「いえ…それはもういいって…」
「矢吹が良くても俺の気が治まらない。ずっと後悔してたんだ、婚約してることが知れたら傷つけるって分かってたのに…。そばにいたらどうしても気持ちが抑えられなかった」

 蒼は、つらそうな表情で羽海を見つめた。
 確かに、婚約者がいるのに他に恋人を作るなんて不謹慎だ。

 事実を知ってから、麗奈のことをどれだけ羨ましいと思ったか。
 叶わない想いにどれだけ苦しんだか。

 それでも――

「蒼さんと一緒に過ごした時間、私はすごく…幸せでした」
「…え?」
「少しの間でも、私に夢を見せてくださってありがとうございます」
「……矢吹…」

「蒼さんとさよならしてから、ずっと考えてたんです。元々私には身にあまる恋だったのかなって。あの日、ホテルで見た蒼さんと麗奈さんはすごくお似合いで…それに比べて私は、地味で華がなくて…。最初から、蒼さんと釣り合うような人間ではなかったんです」

 はらり、と桜の花びらが舞い落ちた。

 本当はこんなこと、好きな人には言いたくない。
 けれど、事実は事実。

 あんなに綺麗で気品のある麗奈と自分が双子だなんて、誰が信じるだろう。
 彼女と私は月とスッポン。提灯に釣鐘。
 比較対象になることすらおこがましいのだ。



「釣り合わないって、そんなこと誰が決めたんだよ」
「え…」

 険のある声に驚いて隣を見上げると、蒼はものすごく不機嫌そうな顔をしていた。

「俺は矢吹に対してそんな風に思ったこと一度もない。お互い好きならまわりなんて関係ないじゃん」
「……」
「他の人との方がお似合いなんて…矢吹だけには言ってほしくない」
「でも…」
「あーもう…!だから」

 なおも反論しようとする羽海に、しびれを切らした蒼は腕に抱いていたマロを下ろした。
 空いた両手で羽海の頬を包み、引き寄せる。
 コツン、と額がぶつかり、これ以上ないくらい至近距離で目が合う。


「俺にとっては矢吹が一番なんだって、分かれよ」


 真っ直ぐで偽りのない瞳。
 頬は薄っすら赤くて、絡んだ視線はすぐにフイと逸らされた。
 口を半開きにして呆けている羽海を開放し、蒼はさっさと先を行く。

 俺にとっては矢吹が一番―――


 本当に…?

 蒼と離れてからずっと沈んでいた気持ちが、ふわふわと舞い上がった。
 私、変だ。
 たった一言、蒼に褒められただけで、こんなにも簡単に世界が色を変えてしまうなんて。


 羽海は小走りで蒼に追いつき、隣に並んだ。

「蒼さん」
「何?」
「やっぱり私、蒼さんのこと…諦められません」
「奇遇だな、俺もだよ」

 チラリと見上げた彼の顔は、まだ少し赤くて。
 それが何故だかすごく嬉しかった。

 どちらからともなく立ち止まり、手を繋ぐ。
 春風がそよそよと髪をなでていった。


「矢吹」
「はい」

「婚約を解消できたら絶対言おうって思ってたんだけど」
「はい」


「これから、ずっと俺と一緒にいて」

「……はい…」


 羽海は溢れてこようとする涙をそっと指先で拭った。
 







 大きな玄関を上がり、広い廊下をそろそろと歩く。
 前を行く蒼の背中は、当たり前だが、勝手知ったるで堂々と廊下の真ん中を進んでいる。
 菅波家ほどではないけれど、真崎家、つまり蒼の実家はかなりの豪邸だった。
 さすが企業を立ち上げただけはある。


「あ…あの…、ご家族の方々は…」
「今日はいない。最近この近くにできた水族館に遊びに行ってる」
「そうですか…残念です。お土産にケーキの詰め合わせを持ってきたのですが…」
「え、そんな気い使わなくていいのに。でも、ありがとな。妹が甘い物好きだし、すげー喜ぶと思う」

 ケーキを冷蔵庫に入れた後、階段を上った一番奥の部屋に通される。
 どうやらそこが蒼の部屋のようだった。

 ベッドにテレビ、ローテーブル、必要最小限の家具。
 部屋のシンプルさはアパート暮らしのときと変わっていない。

 だけど、一つだけ違うところがあった。


「あ!これ…咲いたんですね!」


 二十センチほどの背丈に、ハートの形の葉っぱ。
 以前彼の部屋で見た観葉植物が、窓際にちょこんと置かれていた。
 深緑の葉しかなかったところに赤い色が加わっている。
 艶々と光沢のあるそれは、やっぱりハート型で。

「すごく可愛らしいです…!蒼さん、この花、何ていう名前なんですか?」

 振り返って訊ねると、蒼はなぜか目を泳がせ黙り込んでいる。
 そういえば、以前可愛いとほめたときも彼の態度は素っ気なかった。



「…それ、アンスリウムっていうんだ」
「アンスリウム?」

 聞いたことのない名前に、羽海は首を傾げた。

「前は貰い物だって言ったけど、実は妹に付き合って花屋に行ったとき、気に入って買った」
「へえ…何だか良いですねえ、生きてるものを衝動買いなんて…運命みたいで」


 "運命"という言葉に、しばし固まった蒼は、やがてフッと吹き出す。

「…あの、私何かおかしなこと言いました?」
「や、違う。ごめん。やっぱ敵わねーなー」

 なおも笑い続ける蒼を見て、羽海もさすがに不審に思い始めた。
 おかしくて笑っているというよりは、嬉しくて笑いが止まらない、そんな感じ。


「お店に行ったとき、店長さんがそいつの花言葉を教えてくれたんだけど……それが気に入って買ったんだ」
「花言葉…?」
「うん。なんか矢吹みたいだなって思ったから」
「わ、私ですか!?」

 突然出てきた自分の名前に、羽海は驚いた。
 そんなことを言われたら、否応なく気になってしまうではないか。

「何ですか?アンスリウムの花言葉って?」
「それは……秘密。後で自分で調べて」
「ええ…教えてくれてもいいじゃないですか」

 不満げにむくれる羽海を見て、蒼はまた楽しげに笑った。






 アンスリウム。
 熱帯性の植物。光沢を持ったハート型の原色な花を咲かせる。




 花言葉は


 "飾らない美しさ"






FIN


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