特別





「もう一年経つんだなー」

 狭い六畳間に置かれた卓をかこんでのささやかな晩餐。
 ジャガイモの煮ころがしをつついていた蒼が、ふと呟いた。
 夕飯時に蒼の部屋へと向かうのは、最近の日課になりつつある。事業を立ち上げた蒼は毎日目の回るような忙しさで、放っておくと食事も満足にとらないからだ。


「本当ですね。私がここを訪ねたときに蒼さんが…」

 言いかけて羽海は口をつぐんだ。年甲斐もないこと甚だしいが、この手の話題となると無性に照れくさい。こと蒼の前では。

「ん?蒼さんが、何?」

 分かっていて聞いてくるのだからタチが悪い。しかも爽やかスマイル付きだ。

「えーと、蒼さんが…私に…その、交際を…提案してくださって」

 しどろもどろ感満点の返事に、案の定蒼は吹き出した。

「ぶっ…!くく…交際を提案ってどんな堅苦しいの、それ」
「さ、先を促したのは蒼さんでしょう!意味は間違ってません!」

 一年近くの付き合いでほどよく気安くなったのはいいが、その分おちょくられる回数も増えた気がする。
 原因は促されて生真面目に答えてしまう羽海にもあるのだが、そこは本人の気づくところではない。


「何かお祝いしようか。いつもは行かないちょっと高めの店で晩ご飯とか」
「いいですね。私、節約します!」

 たまには贅沢もいいかな。そんな風に思うようになったのは、蒼と知り合ってからだ。

「矢吹はそれ以上切り詰めなくていいって。俺が出すから」
「ダメです。二人の記念日じゃないですか」

 「悪いから私も出す」と言わないのが羽海だな、と蒼は顔を綻ばせた。

 記念日は平日だったが、やはり当日祝いたいということで、お互い早めに仕事を切り上げよう、と話はまとまった。

「私は早番にしてもらえばいいですけど蒼さんは…」

 朝早くに家を出て、日付が変わるまで職場にいることもある蒼だ。しかし羽海の気遣いに蒼は「大丈夫。今月の半ばには、今抱えてる仕事が一段落するから」と笑った。





「…何着ていけばいいかな?」

 記念日の件が決まってから数日後、羽海はいつものカフェで凛と落ち合っていた。恒例の近況報告会である。

「店はあっちが予約してて、いつもの服でいいって言ってんだろ?だったら普通でいいんじゃねえの」
「そういうもんかな?記念日だし、ちょっとは気合入れたほうがいいのかもと思って」
「だったら手持ちの服で一番気に入ってるやつ。オマエのことだから買う金はないんだろ?」

 おっしゃる通りなので羽海は素直に頷いた。日ごろ仕事漬けの蒼のために、ささやかだがプレゼントも用意している。これ以上の出費は、いくら特別な日でも、毎月ギリギリでやり繰りしている家計には痛い。
 蒼がいいと言ってくれているならその通りにしよう、と折り合いをつけたところで、「それよりさ」と凛が口を開いた。

「心配なのはオマエらの付き合い方だよ。もう一年だぜ?いつまで清く正しくのお手本みたいなこと続けてんの」

 心配されていることが具体的に分かったので、羽海はう…と口ごもった。

「一年あれば今どき中学生でももっと進んでるって。ったくアイツ、ヘタレだろうとは思ってたけどここまでとはなー」

 羽海と蒼、双方ともに長い付き合いだけあって、凛の言うことには容赦がない。もともとの性格が遠慮という言葉とは縁遠いのでなおさらだ。

 だが、その凛の言葉なだけに刺さった。

 冬から春の間離れていたから、というのは体のいい言い訳だ。
 ヨリを戻してから、蒼の方は何度か行動を起こしてくれていて、羽海が拒みさえしなければとっくに一線は越えている。

「付き合ってるならとっくにすることして、本格的な結婚話が出てきてもおかしくない年だっつーのに。アイツ、女の方から切り出す気まずさ分かってんのかな」

 友人の辛辣な意見を聞きつつ、羽海は心の中で蒼に土下座した。進めないのは自分のせいで、責めるべくは蒼じゃない、と凛にはっきり言えさえすれば。

 初めてだから怖い。その意味は、物理的な痛みが、ではなく蒼を幻滅させるのでは、という怖れだ。
 相手は蒼。右も左も分からない状態でも呆れられはしない。そう確信しているはずなのに、どうしてこうも及び腰になってしまうのか。

「おい、そんな落ち込むなって。記念日にはそういう雰囲気になるかもしれねえだろ」

 勝負下着着けて行けよ、と別れ際、激励のつもりの凛の発言で、さらに崖っぷちへ追い詰められる。勝負下着なんて持っていないし買う余裕もない。
 使い古しのヨレヨレじゃダメだよね…やっぱり。
 帰宅後通帳の残高を確認してみるが、結局ダメ押しに終わった。





 迎えた当日は、悩んでいたほど憂鬱ではなかった。
 ただでさえ鬼のように忙しい蒼。暇を作るために仕事を詰め込んだため、会って話すこと自体が二週間ぶりなのだ。
 顔を見たら、不安よりも嬉しさの方が圧倒的優位に立った。


「すごく落ち着く雰囲気ですね」

 連れて行かれた店はこぢんまりとした居酒屋だった。高めなだけあって接客は三ツ星対応で気を張ったが、蒼が個室を取ってくれていたので座ってしまえば気にならない。

「ここ、まだ新入りの時に会社の同期と来たんだ。よく調べもせずに雰囲気が良さそうってだけで入ったから、値段見て飛び上がったよ」

 その日は軽いつまみと乾杯ドリンクだけで、別の店に移ったらしい。

「でも味は文句なしだったから、稼げるようになったらまた来たいと思ってたんだ」

 だから矢吹と来れて良かった、と屈託のない笑顔で、メニューを広げて手渡してくれる。

 蒼のこういうところにはやられる。
 ”高めの店”に慣れていない羽海が緊張することを読んでの個室。二人になって安心したところで、ちょっと可笑しい失敗談だ。無意識に身構えていた気持ちが、すっかりほぐされている。

「とりあえずドリンクと、お互い食べたいの二、三品選ぼっか」
「すごい…たくさんあるんですね」

 味のある手書きメニューは、ドリンクだけでも二十はある。

「そうだなーこれとか、これも矢吹好きそう。飲みやすくて度数もそんなに強くないし」

 メニューを指さしながらの蒼の助言は、経済的な理由で居酒屋経験がほぼ皆無の羽海にはありがたい。
 私なんかじゃなくても引く手あまただろうに、と卑屈になってしまったのは先日の凛の指摘のせいか。


 家柄だけではなく、蒼との間には埋められない差があるような気がしていた。

 飲食店に限らず、雰囲気や評判の良い店をたくさん知っている。二人で出かけて退屈したことはないし、遊び慣れていない羽海が戸惑わないようにするフォローも完璧だ。

 だから、心配になってしまう。
 私でいいんだろうか。
 恋愛初心者で、楽しい遊びも知らない。頼りっぱなしで、蒼からもらっている分を返せている気がしない。




 頼んだ料理に半分ほど手をつけた頃だった。

「あ、ごめん。ちょっと」

 携帯を取り出した蒼の表情が、画面を見て険しくなる。慌てて個室を出て行って五分、戻ってきて再びごめん、と手を合わせられた。

「会社から。クライアントとトラブルだって。今大事な時だから、責任者の俺が行かないと…矢吹、ほんとに」
「大丈夫です」

 ごめん、と続けたかったのだろう言葉を遮った。
 声が尖ってしまったことに怖気づいて、続く台詞は少し早口で。

「仕事、大変なんですよね。私のことは気にしないで、行ってきてください。十分楽しみましたから」

 うまく笑えていたかは分からない。
 蒼は再度ごめんな、と拝む仕草の後、

「帰る前に連絡するから」

 とだけ言い残し、部屋を出て行く。残った料理を食べる気にもなれず、羽海はのろのろと立ち上がった。
 駅に向かう道すがら気づいた。会計をしていない。
 呼び止められなかったということは、蒼が全額払ってくれたのだろう。こんな非常時でも抜かりない。そして今は、その抜かりなさが痛い。

 家に帰ると、部屋の隅、包装済みの箱が目に入った。それがスイッチになり、堰を切って涙が溢れ出す。

 仕方ない。仕事なんだから。だけど――なにも今日じゃなくたって。
 そんなことを思ってしまう自分が信じられない。
 頑張っている蒼は魅力的で、応援したいと思っていたはずで。それなのに、どうして私は自分の方を優先してほしい、なんて。

 蒼のために何かしたい。最初はそれだけだったのに。





 そろそろ終われそう、とメールがきたのは午後十時前だった。
 蒼の会社の近くの駅まで迎えに行ったのは、残り少ない大切な日を、少しでも長く一緒にいたかったから。

「もーこれから飲みに行っちゃいましょうよ!」

 羽海が着いてからほどなくしてやってきたのは、会社員風のグループだった。その中に蒼が混じっているのは遠目にもすぐ分かった。スーツの中にカジュアルな服装は目立つ。

「うーん明日も仕事だけど、大変な一日だったし今日くらいはいいか」
「あ、だったらいいとこ知ってますよ。最近できたばっかのとこなんですけど、キレイで味もそこそこって他部署の人に聞いてー」

 話に加わってこそなかったけれど、輪の中心にいる蒼の人懐っこい笑顔が、ちくりと刺さった。


 どうして、こんなに痛いの。

 目が合って、驚いた顔に呼び止められる前に、反射で逆方向に向かった。

「え!?なんで…!悪い!どっちにしても俺今日は無理」

 耳に馴染んだ声を背中で聞いて、足を速める。

「矢吹!」

 嫌だ。今は追ってこないで。
 頼みが通じるはずもなく、あっさり手首を捕まえられる。

「迎えにきてくれたんだ?ありがと」

 そんなに優しい声でお礼を言わないで。迎えに来たのは蒼のためじゃない。羽海が一緒にいたかったから。一緒にいれば、このモヤモヤから逃れられると思ったから。

「連絡なかったから、アパートで待ってるんだと思ってた。俺は嬉しいけど、こんな時間に一人で来たら危ないし今度からは」
「ごめんなさい。会社の人たちと飲みに行くはずだったのに、私のせいで」

 え、と背後の気配が言葉に詰まる。

「今からでも、行ってきてください。私は…帰りますから」
「矢吹、どうした?こっち向いて」
「嫌です!」

 声は思いのほか険を含んでいて、自分で自分に驚いた。もちろん、蒼はもっと驚いている。

 かっこ悪い。
 こんな顔、蒼だけには絶対に見せられない。
 今の私が何を言っても、皮肉にしか聞こえない。きっと幻滅される。

 だから。

「早く行ってください…!でないと皆さんに追いつけませんよ。今すぐ…」
「嬉しい」

 聞き間違いかと思った。
 けれど、蒼の手が腰に回り、肩に顎が乗ったので、間違いではないらしい。

「ちょ…ここ外です」
「平日のこの時間だし誰もいないよ」

 そういう問題じゃない、とは言ったところで聞き入れてくれそうにないので、黙って固まる。

「こっち向かなくていいから聞いて。俺、矢吹がそういうこと言ってくれるの待ってた」

 意味が分からず沈黙で答えると、蒼はだってさ、と続ける。

「矢吹、いっつも他人優先だろ」
「そんなこと…」
「あるんだよ。喜んでくれるのが嬉しくてやってるんだから、結局自分を優先してる、ってのが矢吹論だけど、世間ではそれをボランティアって言うの。だから…」

 腰にまわった腕に力が込もる。

「俺くらいには甘えて」
「…甘える?」
「そ。我儘言って甘えてよ。ムカついたら怒って、寂しかったら泣いて、してほしいことあったら何でも頼んで」
「……そんな…っ」

 そんなことをしたら蒼が。

「機嫌悪くなったりはするかもな。いつでも笑って受け止めるって約束できないのは悔しいとこだよ。でもそういう感情全部出して甘えられる相手って、特別だろ?」

 特に矢吹は普段そういうことしないし、なおさら嬉しい。
 そう言った声は照れているのが筒抜けで。


 どうしよう…。今すっごく、愛おしい。


「私…っ蒼さんが途中で仕事に行ってしまって、寂しかったんです」

 やっと振り向けた。羽海はそのままの勢いで蒼に抱きついた。否、しがみついた。

「今日のこと、すごく楽しみにしてたんです。でも会社の方といる蒼さんは楽しそうで……私は、お酒の美味しいお店も知らなくて、蒼さんに気を遣わせてばかりで、え、エッチも怖くてできないし…」

 前触れなく飛び出した公共の場での自粛推進ワードに、「ちょ、ここ外…」と蒼は先ほどの自分の発言を棚に上げて慌てた。

「悔しくて、自分がふがいなさすぎて。本当に私でいいのか不安で。……私、蒼さんのことになるとダメなんです。すぐ落ち込んだり、寂しくなったりで…」

 小さくなった羽海が、こんなのかっこ悪すぎですよね、と泣きそうな声で呟く。


 華奢な背中をとんとんとあやすように叩きつつ、蒼は、外で良かった、と安堵した。
 ここがアパートなら間違いなく自制が飛んでいる。怖くてできないとはっきり宣言されたさっきの今では、さすがに男として最低だ。

 理性フル動員でなんとか髪を撫でるだけにとどめ、

「かっこ悪くていいよ。むしろたまにはかっこ悪い方がいい。矢吹、自分のことだとすげー切りつめるのに、人のためだと全力で……こっちだって俺でいいのか不安になってるよ」
「蒼さんも…?」
「当たり前だろ」

 顔をあげた羽海の頬をつまんで、蒼はむくれた。

「それでなくても未だに敬語抜けないしさ。花村にはタメ口なのに」
「り、凛ちゃんは昔からの友達だから…っ」

 少しずつでいいとは言ってくれているが、蒼は敬語が取れないことが不満らしい。羽海としては大分くだけてきたと思っていたのだが。

 でも、妬いてくれるならもう少しこのままでもいいかな。
 と、口には出さずにこっそり考える。

「あと…その、怖いなら俺は待つし、できないからって嫌いになったりはしない。なんなら一生無理でも…」

 言いかけて口をつぐみ、あー…やっぱそれはちょっとキツイかな。
 蒼はバツが悪そうにそっぽを向いた。

 それでも羽海にとっては十分な安心感だった。





 帰宅してからもらったプレゼントは、見た目からかなり大物で、開けると黒猫のクッションだった。足を乗せると振動して血行改善に効果があるらしい。

「ずっと座ってると足がむくんで、色んな病気のもとになるらしいですから」

 以前、座り仕事が多くなったと話したことを覚えていてくれたのだろう。
 アクセサリーや時計ではなく、ヘルスケア用品というところが羽海らしい。

 蒼も用意していたものを渡すと、

「これ…ハンドクリームですか?すごくいい匂いがします…!」
「香水とかも扱ってるとこのだから」

 マメに家事をする羽海なら手荒れは気になるだろう。

「あ!そういえば加瀬さんが…えっと、会社のすごくお洒落な方なんですけど…これのお揃いをお持ちでした。香りもいいし、乾燥防止効果もテキメンだと」

 毎日使いますね!と羽海は嬉しそうだが、内心ギクリとする。
 有名な化粧品メーカーと提携して開発したものだ、と購入時に説明をうけたそのクリームは、値段もそれなりに張った。
 羽海にその情報がいかなければいいが。



「あ、蒼さん…」
「ん?」

 記念日の最後の最後。ためらいがちに袖を引かれ、小さな声で爆弾が落とされた。


「こういう…プレゼントとか、他の女性(ひと)にはしないでくださいね」


 我儘言って甘えるのはいい。けれど。

 ――他の男には絶対するなって、釘刺しとくべきだったな。

 羽海の特別になりたい一心で、いざ甘えられたときの破壊力のことなど、頭から抜け落ちていた。
 何がちょっとキツイかな、だ。
 顔の火照りをごまかしたくてそっぽを向く。


 こんな調子で一生なんて…百パーセント不可能に決まってる。


 自業自得だが、おあずけをくらった犬のような気持ちで、蒼はひっそりと溜め息をついた。






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