重い気持ちを引きずったままアルバイトを終え、帰路についた。
美由ちゃん…見違えるくらい可愛くなってた…。
小学生の頃からおしとやかで儚げで。
守ってあげたい女の子のお手本みたいって、思ってた。
ふと、当時の記憶が甦る。
――みゆはちっちゃくてあぶなっかしいから、年上のオレがしっかりしないとな。
当時、知り合ったばかりだった"大翔くん"が言ってたっけ。
桐谷くんと美由ちゃんは、仲がいいというよりは兄と妹みたいな関係だったから。
二人で会っていたって全然不思議じゃない。
……うん、絶対に浮気なんかじゃない。
分かってるのに…。なんで涙が出てきちゃうかなぁ……。
クリスマスソングで賑わう街中。
立ち止まって視線を上げたら、真っ黒な夜空にたくさんの星が出ていた。
それが何だか、聖夜を前に浮き足立つ恋人たちを祝福しているようで。
私の気分とは正反対だなって、自嘲めいたことを考えつつ足を踏み出す、と。
カバンの中の携帯電話が震えた。ディスプレイに表示された名前を確認し、ギクリとする。
「…はい」
『あ、今話して大丈夫か?』
「うん、大丈夫」
泣いていたことを悟られないよう、努めて明るい調子で応えた。
聞こえてくるのは大好きな声なのに…知らない人と話しているみたい。
『明日…さ、朝から会おうって言ってたけど、昼からになってもいい?』
「え…」
『急用ができたんだ。…悪い』
桐谷くんが申し訳ないって思ってるのが、携帯越しに伝わってくる。
嫌、なんて言えなかった。
「……うん、分かった」
『ごめんな、会うの久しぶりなのに』
「ううん、気にしないで。あ…電車来るから…」
『ああ、じゃあ明日』
「うん、また明日ね」
通話を切るやいなや、深い溜め息が漏れた。
幸せが逃げる、って考える余裕すらない。
……用って…何?気になるよ…。
訊くべきだったのかな……だけど…。
もし、美由ちゃんとどこかに出かけるのだとしたら。
万一、浮気してるって…本当は彼女のことが好きなんだって言われたら。
考え出すと怖くて堪らなくなって…とてもじゃないけどそんなこと、できなかったんだ。
*
「何か、元気なくない?」
「……う、ううん、そんなことないよ!」
今日、十二月二十四日。約束通りお昼に、駅で待ち合わせた。
予約してたちょっと高めのお店でランチを食べて。
しかも、朝から会えなかったお詫びにと桐谷くんが私の分も払ってくれて。
その後、前から気になっていた映画を観に行った。
そして今、ちょっと散歩しようって彼の提案で、近くの公園まで歩いてきたところ。
「咲ってさ、嘘つくとき髪さわる癖あるの、気付いてた?」
「え!」
突然指摘され、焦った。
今まさに、私の手はセミロングの髪をいじっていたから。
慌てて引っ込めたって、今さら誤魔化せない。
「……そんなの…全然気付いてなかった」
素直に白状した私に対し、彼は一瞬、意地悪な笑みを見せた。
「嘘」
「え…?」
「髪さわる癖なんて出まかせだよ。で、何で元気ないの?」
いつもの調子で冷静に訊いてくる。それが今は無性にじれったかった。
取り乱しているところなんて数えるほどしか見たことがなくて、常に私の一歩先を歩いている恋人。
その揺るぎない余裕を、奪ってみたかった。
「…いだよ」
「何?」
「桐谷くんのせいだよっ…昨日、美由ちゃんと一緒にいたでしょ?」
気がつけば、勢いに任せてそんなことを口走ってた。
こちらを見つめる漆黒の瞳が波立ったことに、してやったり、と心をくすぐられる。
「私…桐谷くんが他の女の子と楽しそうにしてるの、嫌だった」
「待て、昨日は…」
「だけど我慢する。私だってこれから、他の男の人と二人で出かけること、あるかもしれないし」
いつまでも掌の上じゃ悔しいから。
口をはさみかけた彼を遮って矢継ぎ早に言った。
あんまり悠然と構えてると痛い目見るんだから、って。
でも、最後の一言は…言い過ぎたかも…。ちょっと、後悔。
と、次の瞬間、身体がよろけた。
「何、それ。浮気宣言?」
目の前には苦々しげな顔があった。
二人の間の距離がほとんどなくなってる。そこで初めて、腕を引っ張られたんだって気付いた。
なによ。浮気を疑われるようなことしたのはそっちの方じゃない。
「桐谷くんがそう思うなら、そうなのかもね!」
「……!」
彼の眉間の皺が深まる。掴まれている腕が痛い。
離して!と、言いかけた口は、彼の唇によって塞がれた。
噛み付くような荒々しいキス。息をつく暇も与えられない。
必死で逃れようともがくけれど、腰に回された腕はびくともしなくて。
苦しくなって唇を開くと、そこから強引に舌を入れられた。
ざらりとした感触に、口内をかき回される。
こんな彼は…知らない。
「…ん…は…ぁ」
零れる吐息に戸惑っている余裕もなかった。
身体中にゆるい痺れが走る。力が…入らない。
髪に潜っていたゴツゴツした手が、頭から首へとゆっくり移動する。
コートの合わせ目から直に肌に触れられて、ざらざらした掌の感触が伝わってくる。
そのまま、貪るように首筋を食まれて…。
「だ…め…」
「……」
「…桐谷くん…っ」
名を呼んだとたん、弾かれたように彼が顔を上げた。
「あ…ごめん…。俺…」
桐谷くんは、そっと私から遠ざかった。
綺麗な漆黒の瞳は濡れていて、どこか熱っぽい。
なぜか、ゾクリと鳥肌が立って…吸い込まれそうになる。
「押さえ…られなかった…。咲が他の奴と…って思ったら」
え…それって…。
「……もしかして…嫉妬?」
「…っ……そうだよ」
くしゃりと乱暴に前髪をかきあげて、視線を逸らした彼は…悔しそうな顔をしてる。
ほんのり顔が赤いの、気のせいじゃないよね?
「…嬉しい」
「は?」
「桐谷くんでもそんな風に思うんだ」
「…何言ってんだ。てかもうそのことには触れんな」
「やだ!」
眉根を寄せ目をすがめた、仏頂面の彼は…正直怖い。
けど、ここで引き下がるわけにはいかない。
「桐谷くんは、優しくて大人で、私のこと考えてくれてるんだって伝わってくる。そういうの…その…すっごく嬉しいけど…たまには今みたいに熱くなってほしいって…思うときも…あるよ……」
恥ずかしさを追い払うためにきつく目を瞑ったけれど。
彼がどんな顔をしているのか分からなくなって、かえって落ち着かない。
「…なんで?」
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、いつも通りの低い声で疑問が返ってくる。
「だっていつも…私ばっかりドキドキしたり、浮かれたり…心細くなったりして…。そういうの、何か悔しいし…不安…だから」
今度は、返事はなかった。
人気のない小さな公園は既に闇に染まりつつある。
向かい合った状態での沈黙に絶えられなくなったころ、不意に身体がすっぽりと包み込まれた。
私の鼻先は、桐谷くんの肩に触れていて。
長い腕が背中に回されている。
「俺だって不安だよ」
「え…」
「あと全然クールじゃないし、ドキドキもするし。昨日だって、今日が楽しみですげー浮かれてたし」
「……」
「美由とは偶然街で会ったんだ。冬休みだから…って、こっちに住んでる母方のばーちゃんに一人で会いに来ててさ。電車に乗るの初めてで不安だったけど、丁度俺に出くわして良かった、って駅までの付き添い頼まれたんだよ」
断るのも薄情だと思ったから今朝送ってきた、って。
桐谷くんは続けた。
「昔話で盛り上がって…寒かったから近くの店に入ったけど、やましいことは何もない」
……そういうことだったんだ…。
浮気じゃなかった。
私が勝手に想像して、落ち込んでただけで。
………よかった…。
「…っ……」
安心したら、急に涙が零れた。
拭っても拭っても、止まらない。
よしよしって頭を撫でられたら、余計に溢れてきてしまう。
「咲」
「…う…っく……ん…」
「好きだ」
「…ひっ……うっ…」
しゃくりあげる私をあやしつつ、桐谷くんが声を殺して笑う。
背中に回されている腕に力がこもった。
「泣くなよ。望み通り、これからは冷静になりすぎないように気をつけるから」
「……え?」
嫌な予感。
恋人の、蕩けるような甘い声の中に、かすかな違和感があった。
そう、まるで真水に墨を一滴落としたみたいに…。
「俺、本当はもっと咲としたい。キスも…それ以上も」
他の子には絶対に見せない、砂糖菓子のような笑顔で、とんでもないことを言ってのける。
涙なんて一瞬で引っ込んでしまった。
「もう我慢しないから、覚悟しとけよ」
だけど、その危険な魅力に、心の奥深くがどうしようもなく締め付けられていることは。
楽しそうに笑う彼には…秘密。
私は、カバンの中からそっとプレゼントを取り出した。
"とっくに覚悟できてるよ"って言ったら…桐谷くん、どんな顔するのかな。
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