terrible Noel【後編】





 重い気持ちを引きずったままアルバイトを終え、帰路についた。
 美由ちゃん…見違えるくらい可愛くなってた…。
 小学生の頃からおしとやかで儚げで。
 守ってあげたい女の子のお手本みたいって、思ってた。
 ふと、当時の記憶が甦る。

 ――みゆはちっちゃくてあぶなっかしいから、年上のオレがしっかりしないとな。

 当時、知り合ったばかりだった"大翔くん"が言ってたっけ。
 桐谷くんと美由ちゃんは、仲がいいというよりは兄と妹みたいな関係だったから。
 二人で会っていたって全然不思議じゃない。

 ……うん、絶対に浮気なんかじゃない。

 分かってるのに…。なんで涙が出てきちゃうかなぁ……。

 クリスマスソングで賑わう街中。
 立ち止まって視線を上げたら、真っ黒な夜空にたくさんの星が出ていた。
 それが何だか、聖夜を前に浮き足立つ恋人たちを祝福しているようで。
 私の気分とは正反対だなって、自嘲めいたことを考えつつ足を踏み出す、と。
 カバンの中の携帯電話が震えた。ディスプレイに表示された名前を確認し、ギクリとする。

「…はい」
『あ、今話して大丈夫か?』
「うん、大丈夫」
 泣いていたことを悟られないよう、努めて明るい調子で応えた。
 聞こえてくるのは大好きな声なのに…知らない人と話しているみたい。

『明日…さ、朝から会おうって言ってたけど、昼からになってもいい?』
「え…」
『急用ができたんだ。…悪い』
 桐谷くんが申し訳ないって思ってるのが、携帯越しに伝わってくる。
 嫌、なんて言えなかった。

「……うん、分かった」
『ごめんな、会うの久しぶりなのに』
「ううん、気にしないで。あ…電車来るから…」
『ああ、じゃあ明日』
「うん、また明日ね」

 通話を切るやいなや、深い溜め息が漏れた。
 幸せが逃げる、って考える余裕すらない。

 ……用って…何?気になるよ…。
 訊くべきだったのかな……だけど…。

 もし、美由ちゃんとどこかに出かけるのだとしたら。
 万一、浮気してるって…本当は彼女のことが好きなんだって言われたら。
 考え出すと怖くて堪らなくなって…とてもじゃないけどそんなこと、できなかったんだ。





「何か、元気なくない?」
「……う、ううん、そんなことないよ!」

 今日、十二月二十四日。約束通りお昼に、駅で待ち合わせた。
 予約してたちょっと高めのお店でランチを食べて。
 しかも、朝から会えなかったお詫びにと桐谷くんが私の分も払ってくれて。
 その後、前から気になっていた映画を観に行った。
 そして今、ちょっと散歩しようって彼の提案で、近くの公園まで歩いてきたところ。


「咲ってさ、嘘つくとき髪さわる癖あるの、気付いてた?」
「え!」
 突然指摘され、焦った。
 今まさに、私の手はセミロングの髪をいじっていたから。
 慌てて引っ込めたって、今さら誤魔化せない。

「……そんなの…全然気付いてなかった」
 素直に白状した私に対し、彼は一瞬、意地悪な笑みを見せた。

「嘘」
「え…?」
「髪さわる癖なんて出まかせだよ。で、何で元気ないの?」

 いつもの調子で冷静に訊いてくる。それが今は無性にじれったかった。
 取り乱しているところなんて数えるほどしか見たことがなくて、常に私の一歩先を歩いている恋人。
 その揺るぎない余裕を、奪ってみたかった。

「…いだよ」
「何?」
「桐谷くんのせいだよっ…昨日、美由ちゃんと一緒にいたでしょ?」
 気がつけば、勢いに任せてそんなことを口走ってた。
 こちらを見つめる漆黒の瞳が波立ったことに、してやったり、と心をくすぐられる。
「私…桐谷くんが他の女の子と楽しそうにしてるの、嫌だった」
「待て、昨日は…」
「だけど我慢する。私だってこれから、他の男の人と二人で出かけること、あるかもしれないし」

 いつまでも掌の上じゃ悔しいから。
 口をはさみかけた彼を遮って矢継ぎ早に言った。
 あんまり悠然と構えてると痛い目見るんだから、って。
 でも、最後の一言は…言い過ぎたかも…。ちょっと、後悔。


 と、次の瞬間、身体がよろけた。

「何、それ。浮気宣言?」

 目の前には苦々しげな顔があった。
 二人の間の距離がほとんどなくなってる。そこで初めて、腕を引っ張られたんだって気付いた。
 なによ。浮気を疑われるようなことしたのはそっちの方じゃない。

「桐谷くんがそう思うなら、そうなのかもね!」
「……!」

 彼の眉間の皺が深まる。掴まれている腕が痛い。
 離して!と、言いかけた口は、彼の唇によって塞がれた。
 噛み付くような荒々しいキス。息をつく暇も与えられない。
 必死で逃れようともがくけれど、腰に回された腕はびくともしなくて。

 苦しくなって唇を開くと、そこから強引に舌を入れられた。
 ざらりとした感触に、口内をかき回される。
 こんな彼は…知らない。

「…ん…は…ぁ」

 零れる吐息に戸惑っている余裕もなかった。
 身体中にゆるい痺れが走る。力が…入らない。

 髪に潜っていたゴツゴツした手が、頭から首へとゆっくり移動する。
 コートの合わせ目から直に肌に触れられて、ざらざらした掌の感触が伝わってくる。
 そのまま、貪るように首筋を食まれて…。


「だ…め…」
「……」

「…桐谷くん…っ」
 名を呼んだとたん、弾かれたように彼が顔を上げた。

「あ…ごめん…。俺…」
 桐谷くんは、そっと私から遠ざかった。
 綺麗な漆黒の瞳は濡れていて、どこか熱っぽい。
 なぜか、ゾクリと鳥肌が立って…吸い込まれそうになる。

「押さえ…られなかった…。咲が他の奴と…って思ったら」
 え…それって…。

「……もしかして…嫉妬?」

「…っ……そうだよ」

 くしゃりと乱暴に前髪をかきあげて、視線を逸らした彼は…悔しそうな顔をしてる。
 ほんのり顔が赤いの、気のせいじゃないよね?

「…嬉しい」
「は?」
「桐谷くんでもそんな風に思うんだ」
「…何言ってんだ。てかもうそのことには触れんな」
「やだ!」
 眉根を寄せ目をすがめた、仏頂面の彼は…正直怖い。
 けど、ここで引き下がるわけにはいかない。

「桐谷くんは、優しくて大人で、私のこと考えてくれてるんだって伝わってくる。そういうの…その…すっごく嬉しいけど…たまには今みたいに熱くなってほしいって…思うときも…あるよ……」

 恥ずかしさを追い払うためにきつく目を瞑ったけれど。
 彼がどんな顔をしているのか分からなくなって、かえって落ち着かない。

「…なんで?」
 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、いつも通りの低い声で疑問が返ってくる。

「だっていつも…私ばっかりドキドキしたり、浮かれたり…心細くなったりして…。そういうの、何か悔しいし…不安…だから」


 今度は、返事はなかった。
 人気のない小さな公園は既に闇に染まりつつある。

 向かい合った状態での沈黙に絶えられなくなったころ、不意に身体がすっぽりと包み込まれた。
 私の鼻先は、桐谷くんの肩に触れていて。
 長い腕が背中に回されている。

「俺だって不安だよ」
「え…」
「あと全然クールじゃないし、ドキドキもするし。昨日だって、今日が楽しみですげー浮かれてたし」
「……」
「美由とは偶然街で会ったんだ。冬休みだから…って、こっちに住んでる母方のばーちゃんに一人で会いに来ててさ。電車に乗るの初めてで不安だったけど、丁度俺に出くわして良かった、って駅までの付き添い頼まれたんだよ」
 断るのも薄情だと思ったから今朝送ってきた、って。
 桐谷くんは続けた。
「昔話で盛り上がって…寒かったから近くの店に入ったけど、やましいことは何もない」

 ……そういうことだったんだ…。
 浮気じゃなかった。
 私が勝手に想像して、落ち込んでただけで。
 ………よかった…。

「…っ……」
 安心したら、急に涙が零れた。
 拭っても拭っても、止まらない。
 よしよしって頭を撫でられたら、余計に溢れてきてしまう。

「咲」
「…う…っく……ん…」
「好きだ」
「…ひっ……うっ…」

 しゃくりあげる私をあやしつつ、桐谷くんが声を殺して笑う。
 背中に回されている腕に力がこもった。

「泣くなよ。望み通り、これからは冷静になりすぎないように気をつけるから」
「……え?」

 嫌な予感。
 恋人の、蕩けるような甘い声の中に、かすかな違和感があった。
 そう、まるで真水に墨を一滴落としたみたいに…。

「俺、本当はもっと咲としたい。キスも…それ以上も」

 他の子には絶対に見せない、砂糖菓子のような笑顔で、とんでもないことを言ってのける。
 涙なんて一瞬で引っ込んでしまった。

「もう我慢しないから、覚悟しとけよ」

 だけど、その危険な魅力に、心の奥深くがどうしようもなく締め付けられていることは。
 楽しそうに笑う彼には…秘密。

 私は、カバンの中からそっとプレゼントを取り出した。
 "とっくに覚悟できてるよ"って言ったら…桐谷くん、どんな顔するのかな。





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