モヤモヤした気持ちを抱えたまま、数日を過ごした。
宿題をしようと机に向かっても、ケータイが気になって集中できない。
あれ以来、杏奈からの連絡はなかった。
告白の返事、したのかな…。
きっと、断ったんだよ…ね…。
第一、杏奈には彼氏がいるのだ。
まさか、私に内緒で付き合い始めたとか…ないよね…。
うん、ないない。だって杏奈だよ?
そんな卑怯なこと…する性格じゃない。
悶々と渦を巻く思考は、次第にイライラを募らせていく。
「もーやだっ!」
制服に着替えて、軽く髪を整えた。
「ちょっと部活しに行ってくるね」
キッチンにいたお母さんにそれだけ告げて、じりじりと日差しの照りつけるアスファルトを歩いた。
絵を描けば、このモヤモヤも少しは紛れるかもしれない。
美術部の夏休みの活動は任意。
つまり、個人の自由。
お盆休み以外は、極端に早朝だったり、深夜だったりしなければ、いつでも美術室を使えることになっていた。
運動部の声が響く校庭の隅を通り、校舎の階段をあがる。
たった数日空いただけなのに、目の前の美術室が、ちょっと懐かしい。
カラカラって鳴る扉も、久しぶりだ。
中には先客がいた。
予想していなかったわけじゃないけど、まさか夏休みに遭遇するなんて。
「久しぶり」
穏やかなトーンの声と、涼しげな笑顔。
失恋相手だというのに、相変わらずその雰囲気には安心させられた。
「…お久しぶりです」
「絵を描きに来たの?」
「いえ、私物を持って帰るのを忘れちゃって」
最初から、先輩がいたらそう言って帰るつもりでいた。
今は、とてもじゃないけど一緒に絵なんて描けない。
窓から外を眺めていた先輩が、ゆっくりとこっちを向く。
「この間のカラオケで…俺と西野さんの話、聞いてたよね」
想像だにしなかった先輩のセリフに、手に持っていた絵の具の箱を床に落としてしまった。
先輩の笑顔には、確信の色が浮かんでいる。
「ど…して、それを…」
「あの日…咲ちゃん、彼女を残して先に帰ったでしょ?」
「……」
「西野さんが非常事態だったのに無事を確認せず先に帰るなんて、
普段の咲ちゃんなら…しないと思って」
何もかも…見透かされている。
こちらを射る強い視線に、そう感じた。
きっと…私の先輩への想いも、バレてる。
“西野さん”と杏奈のことを呼ぶ彼に、違和感を覚えた。
先輩が私といるときに、他の女の人の名前を出したことは、今までに一度もない。
そんな事実に、こうなって初めて…気がついた。
「ふられたよ」
「…!」
「他に好きな人がいるから…って」
窓に向き直り、先輩は静かなトーンで話す。
「それは…杏奈が…今、付き合ってる人のことですよね」
半ば祈るような気持ちで絞り出した言葉に、目の前の人はゆるゆると首を横に振った。
「叶わない恋だけど、どうしようもない。想いを伝えることもできないけど、他の人を好きになることもできない……って、彼女はそう言ってた」
嘘でしょう?
そんなこと、杏奈からは一言も聞いていない。
私には、片思いをしている素振りすら…見せなかった。
「叶わない恋…って……」
ショックで呆然とする脳を叱咤し、やっとそれだけ、訊いた。
「彼女が好きなのは、君だよ。咲ちゃん」
君だよ―――
硬い声に、頭をガツンって殴られたような気がした。
なに、それ……
どういう……こと……
先輩の目に、深い深い悲しみが宿る。
「俺がこんなことを言うのは、ルール違反だと思う。
……けど…こうでもしないと…君に、彼女の気持ちは一生届かないから…」
先輩は、辛そうに掌で顔を覆う。
「分かってたんだ。彼女が俺を見ていないことも…」
「……」
「彼女の視線が追ってるのはいつも…咲ちゃんで、それがどういう感情なのかも…」
「うそ…でしょ…。だって…杏奈には彼氏がいて…」
これから彼とデートなんだって、そう言った日はいつも、本当に嬉しそうだったのに。
「それは多分…気持ちをごまかすためだけの関係だよ」
彼女から直接聞いたわけじゃないから、本当のところは分からないけどねって。
先輩の悲しげに笑った目もとが、痛々しい。
「だから…彼女の…君への気持ちが嘘だなんて…冗談でも言わないでほしい」
はっきりと言い放つ先輩から、杏奈のことを本当に好きなんだって、伝わってくる。
先輩はいつも私のことを気に掛けてくれていた。
帰るのが遅くなれば、必ず家まで送ってくれて。
それは全部、杏奈のためだったんだ。
私に何かあれば、他の誰でもない杏奈が悲しむから。
先輩はいつだって杏奈だけを想っていたのに…。
私は、全然…気付けなかった。
それじゃ、気をつけて帰ってねって。
放心状態の私を残して、先輩は部屋を出て行った。
杏奈が私のことを好き。
それが友達としての“好き”ではないことくらい、さすがに理解している。
でも、そうだとすれば…杏奈は今まで…
どんな気持ちで私の恋を応援してくれてたんだろう。
何も知らない私は、杏奈に先輩のことを好きだと打ち明けて、浮かれていた。
きっと気付かない間に、杏奈のこと、すごく傷つけた。
大切な親友を…他でもない私が…。
「…っ…う…」
流れる涙を拭うこともせず、私は嗚咽まじりに泣いた。
昼下がりの明るい光が降り注いで、私を照らす。
いつだって杏奈は、私の味方だった。
4年前、この町に越してきて、椎名咲になって、初めてできた友達。
――アンタ、名前なんて言うの?
――椎名…咲……。
――サク…かあ!いい名前じゃん!もっと上向いて歩きなよ〜咲!ほらこっちちゃんと見て?あたし、西野杏奈っていうの。
人と関わることが怖くて、外に出られなかった。
初めて独りで外に出られるようになって、見つけたカフェ。
おそるおそる踏み入れた店内の、窓際の席に、目の醒めるような美少女がいた。
私がろくに話せないのもお構いなしに、杏奈はクルクルと表情を変え、遠慮も何もなしに接してきた。
咲は暗い!そんなんじゃ友達できないわよー?って。
裏表のない子だと思った。
面倒なことはキライで、面白いこと、楽しいことが大好き。
自分の感情に正直だけど、ちゃんと人のことも考えて行動できる。
――え?他人からどう見られているかが気になる?
――うん、どうしてもね。昔のトラウマかな…、少し怖いの。笑ってる人を見ても、本当はどうなのかなとか、無意識に考えちゃう…。
――……じゃ、こうしようよ。あたしは絶対、咲に嘘つかない!言いたいことは言う。ムカついたら、その場でケンカするから。それなら大丈夫でしょ?
仲良くなって、思い切って打ち明けた私に、杏奈は約束してくれた。
いつしか親にも言えないことを、彼女にだけは話せるようになっていた。
杏奈に言えないことなんて私にはない。
でも、杏奈は…そうじゃなかったんだ。