08
遼介が帰ってきたのは昼前だった。
特にすることもなく暇を持て余していた私は、玄関の鍵の音を聞くやいなや立ち上がった。
一晩会っていないだけなのに随分懐かしく思える。
「おかえり」
「ん、ただいま。疲れたー」
「一晩中仕事してたんだもんねえ。お疲れさま。少し寝たら?」
「んー」
徹夜明けの遼介のスーツはよれきっていて、ワックスで丁寧にセットしていったはずの髪もボサボサになっている。
目の下には濃い隈。いつもはしっかり者の彼が、今に限ってはボーっとしてる。
それでも顔が見られて少し気分が上がった私は、やんわりと提案を持ちかけた。
「お昼、遅くなってもいいから外に食べに行かない?昨日優実と会ったんだけどね、いい感じのお店、教えてもらったんだ」
「外かあ…いちいち着替えるの面倒だしなー。出前とかにしない?」
「…あー…、疲れてるもんね。じゃあ夜は?」
「今日サークルのヤツらと飲みに行くから無理」
「え……」
またか、と私は内心溜め息をついた。
面倒見が良くて頼りになって、おまけに盛り上げ上手の遼介は、当然後輩に人気がある。
社会人になってからも毎週のようにサークルに顔を出し、飲み会やプライベートな遊びにも誘われて参加していた。
先週末は友達と近場の観光スポットに遊びに行き、先々週末は休日出勤、その前は会社の飲み会。
遼介がそんな調子だから、二人でデートしたのなんて何ヶ月前のことか、思い出せないくらいで。
一緒に住んでいるのにたまにしか顔を合わせない。
まるで離婚寸前の夫婦みたいだ。
「そ、か…分かった……」
「お前も来れば?」
「ううん、私はいい」
「あ、そう」
あっさり会話を切り上げ、さっさと寝る準備を始める遼介を見ていると、暗い感情がフツフツと沸き上がってくる。
私と出かけるのは面倒なのに、皆とは遊ぶんだ。
いっつもそう。遼介は私より友達や後輩といる方が楽しいんだよね。
徹夜したのだって、飲み会に参加するために無理して仕事詰め込んだからでしょ。
今にも口を突いて出てきそうになる厭味の数々を、なんとか飲み込んだ。
こんなこと言ったって、遼介の私への気持ちが冷めるだけだから。
「二次会は宅飲みだし、今日は適当な奴の家泊まるから」
「…そう」
「あ、そんで明日は久しぶりに後輩誘って飯行こうと思って。この間、真島に会ってちょっと話してたら誘われてさー。そのあと適当に遊ぶかもだし、帰るの夜になるわ」
「……ふーん、いいね。楽しんできてね」
嬉々として語る遼介に、心にもない相槌を返す。
棘々しさはないか、本心が顔に出ていないか。自信は全くなかったけれど、遼介は言葉の裏を読むなんていう面倒なことはしないから、たぶん大丈夫。
だけど、必死で本心を隠している私の気持ちなんておかまいなしに、彼は話し続けた。
「お前もたまには俺以外の奴と関われよー。積極的に飲み会参加するとかさ。俺が誘っても全然来ねえし、そんなんじゃ友達いなくなるぞー」
冗談ぽく笑って言われた言葉。
それでも、刃物で突き刺されたみたいに、心が痛かった。
「…遼介みたいに社交的で人気者で…いっつも人に囲まれてるような人と一緒にしないで」
「はあ?」
「私は面白いことも、気の利いたことも言えない。内気だし、いてもいなくても誰も気に留めない存在なの。遼介みたいにはできないよ…!」
「…んだよそれ。ホント前から言ってるけど、お前ネガティブすぎ。できないできないばっかじゃなくてちょっとは努力しろよ」
今度こそ本当にカチンときた。
その言い方、まるで私が何も努力してないみたいじゃない。
努力でどうにかなるなら、今こんな風になってない。
私だって、最初は頑張ったよ。
遼介と一緒に皆の集まりに参加すれば寂しくないかもしれない…って。
だけど、駄目だった。
ムードメーカーの彼はどこに行っても重宝される。特に女子は露骨で、風香のように恋愛感情ではないにしても、遼介のことを気に入っている子は多くて。
何だか彼が遠い存在に思えて、同じ空間にいても寂しさが和らぐどころか、かえって逆効果。
私がサークルの皆と遊ばなくなった理由は。
他の女の子と一緒に笑う遼介が、私といる時よりも楽しそうに見えるから。
"彼女"という空っぽの肩書きだけを大事に抱えた私が、一人ぼっちで取り残されているみたいだから。
ぎゅっと唇を噛み締めて下を向いた。
泣いたらまたうっとうしがられる。それだけは嫌だ。
「怒ってんの?俺がお前のこと放っといて遊びに行くから?」
遼介は、あからさまに溜め息を吐いた。
「怒ってるんじゃなくて…寂しい。最近一緒に遊びに行ってないし…」
「それは悪いと思ってるよ。けど、誘われて断るのも悪いし、仕事も忙しいしさ」
「………」
そうやって、何だかんだ私を後回しにするあたり、付き合いたての頃との差を感じてすっごく傷つくんですけど。
率先してデートプランを考えてくれていた、付き合い始めた頃の彼を思い出すと、本気で泣きそうになる。
ますます目線を下げる私に、遼介はついに痺れを切らした。
「あーもう!そんなんなるならもう行かねーよ!」
「な…にそれ、やだ…!行きたいんでしょ?」
「俺が一緒にいれば、お前は満足なんだろーが」
「そういうんじゃなくて…遼介が私といたいって思ってくれるんじゃなきゃ…」
ご機嫌取りのために無理やり一緒にいる、なんておかしい。そんなの余計惨めになるだけだ。
「あー…もう、めんどくせえな。いてほしいのか行ってほしいのか、どっちだよ?」
眉間に皺を寄せた遼介は、寝不足なのもあってか、かなりイラついている。
早く面倒な話を終わらせて寝たいって、顔に書いてあるよ。
こうなるって分かってたから、我慢して不満を言わないようにしてたのに。
なんで毎回、同じことでケンカしちゃうんだろ……。
「……行って」
「あそ。後から寂しいって言ってごねんなよ」
意を決して呟いた言葉にいともあっさりとした返事を返され、しかもしっかり釘まで刺されて。
遼介の背中は寝室に消えた。
私にもっと魅力があればこんなことにはならなかったんだろうか。
それとも、私が遼介のことをそこまで好きじゃなければ、苦しまずにすんだ?
分からない。
そもそもこうして悩むのは不毛ではないだろうか。
遼介はもう、私のことなんてとっくに好きじゃないかもしれないんだから。
気がつけば、この数ヶ月で何度も考えたことを反芻していた。
その度に、どこからこんなに出てくるんだろうってくらい、涙が止まらなくなる。
遼介とさよならする場面を想像する。
別々のアパートに住んだら、会社は近くなるかもしれない。
だけど、一緒にご飯を作ったり、同じテレビ番組を見て笑ったり、並んで眠ったりすることは……もう絶対にない。
洟がつまって息苦しくて、喉が壊れてしまったみたいに嗚咽が止まらないのに。
この程度の苦しさ、別れることに比べたら何でもない。そんな風に思ってしまう私は、きっとまだ彼のことが好きで仕方ないんだろう。