25
目覚めると、隣は空っぽだった。
昨夜、床に放りっぱなしにしていたはずの衣類が、きちんと畳まれて枕元に置いてある。嫌な予感しかしなかった。服を着るよりも先に名前を呼ぶ。が、返事はない。
下着とカットソー、スカートだけを身につけ、部屋のドアを片っ端から開けていく。そうでもしていないと、どうにかなってしまいそうだった。
声が湿り気を帯び、嗚咽が邪魔をする。それでも、探してさえいれば、少年がひょっこり姿を現すような気がした。
なに泣いてんの。目、腫れてもしらないよ?
そう言って茶化しつつも、きっと彼なら黙って胸を貸してくれる。
黙ったまま、少し温度の低いてのひらで、頭を撫でていてくれる。
奏斗くんはもう戻らない。勘付いてしまったその事実を打ち消したくて、ひたすら無人の部屋を探し続ける。
ぶるり、と悪寒が背筋を走り、大きなくしゃみがとびだした。真冬の朝、空調もなしに薄着でうろついたせいだ。
くしゃみを皮切りに沸々と怒りのボルテージが上がってくる。人を散々その気にさせておいて、後ろめたくなった途端あっさりさようならなんて。からかわれるよりからかう側だろうとは思っていたけれど、ちょっとやりすぎだ。私の気持ちはどうなる。
やり場のない憤りを持て余していると、ピンポーンと場違いな音が響いた。
「はい!?」
テレビインターフォンの画面を確認することもせずにドアを開け放ったのは、完全に勢いまかせだった。
「あれ、どうしたの?なんか怒ってる?」
目を丸くした拓海さんが、玄関先で一歩後ずさった。
「あ、もしかして奏斗かもって期待した?ごめんね」
「誰がですか。してません」
図星をつかれてそっけない口調になってから、拓海さんの気配が笑ったことに気付く。くそう。まんまと遊ばれた。
「その様子だと、もう全部ばれちゃったんだね」
はい、と素直に答えて良いものか。私が口ごもったことを、拓海さんはイエスと捉えたようだった。
「奏斗が今どうなってるか、知りたい?」
「知りたいと言ったら、教えてくれるんですか?」
「構わないよ。アイツはもう組織員じゃないからね」
「…どういうことですか」
含みをもたせた言い方は、嘘と本当、どちらを伝えようとしているのか。
「規則を破りすぎたんだよ、奏斗は。学校でだって、度を越した校則違反は退学をまねくでしょ。社会ではなおさらだ。いくら仕事ができてもこればっかりはダメ。気に入ってたし、できれば手放したくなかったんだけどね。贔屓すると他の社員に示しがつかないからさ」
「規則を破ったって、具体的に何をしたんですか」
「それ訊いて、真奈ちゃんは大丈夫?」
白々しい。わざと訊ねるようにもっていったくせに。
無言で先を促すと、拓海さんはもったいつけるように口を開いた。
「定款第五条一項、標的に本気にならないこと。第十二条一項、組織の存在、活動内容、その他一切の内部事情を外部の人間に知られないこと」
絶句した私には構わず、拓海さんは先を続ける。
「世間様に胸張れることしてるわけじゃないからね。任務を終えたら、社員は標的の前から完全に消えなきゃならない。もちろん、カラクリに勘付かれないようごく自然に。惚れることを禁止してるのは、それが姿をくらますときに障害にしかならないからだよ」
「……奏斗くんは、その規則に従って、いなくなったってわけですか」
「もう組織員じゃないから、従う義務はないけどね。そもそも、真奈ちゃんに惚れた時点でアイツの追放は決定事項なんだから」
追放。穏やかでない響きに、私は固唾を飲んだ。それはつまり、組織から追い払われるということ。
「俺にばれないよう注意はしてたみたいだけど、まだまだ青いよねえ。気持ち筒抜け。気付いた時点ですぐに手を下しても良かったんだけど、せめて後悔のないようにと思ってさ」
「それで、今まであえて泳がせてたんですか」
居場所だと言った。必要としてもらえるから、と。
憎まれ口をたたきつつも、奏斗くんはきっと拓海さんに感謝していたはずだ。それを、こんなに簡単に処分するのか。
組織にいるかぎり、奏斗くんの想いは叶わない。知っていながら、なぜあえて執行猶予を付すような真似を。
ともに過ごす時間が長引けば、それだけ別れが辛くなってしまう。私と遼介が別れた時点で、彼の任務は終わったはずではないか。
「なにか言いたげだね」
「…これだけ衝撃的な暴露話されて、なにも言いたいことがないなんて、そっちの方がどうかしてます。拓海さんは一体奏斗くんをどうしたいんですか?途中で放り出すなら、最初から拾わないでください。中途半端に懐かせて…信じさせたりしないでくださいよ!」
一度受け入れられてから掌を返される辛さは、身にしみている。
もういらない、と突き放されることの痛さ。なまじ幸せだった時間があるだけに、それは重い一撃となって心をえぐるのだ。
彼は、今、どんな思いで――。
「今度は絶対、別れませんから」
目の前の長身に精一杯の睨みをくれてやってから、部屋を飛び出した。
腹は決まった。
もちろん当てはない。けれど、動かないよりずっといい。
奏斗くんは、たとえ仕事だとしても、あんなことをしておいて臆面もなく彼氏の座に納まっていられるような人ではない。そんな人なら好きになっていない。
今度は私が行く。
なにに裏切られても、私だけは、絶対に奏斗くんを放り出さない。それだけは伝えたかった。
お願いだから、見つかって。
その祈りが通じたのか、必死の捜索は意外に早く収束した。
陽はすでに完全に傾いていたが、あの日のようにからりと晴れた空の下だった。
メルヘンな建物と、可愛らしいキャラクターたち、そして一時の夢の世界を買いにやってきた人の波。
出会った初日に二人で来たテーマパークで、見つけられたのは運がよかったのか、気合のなせる業か。
「真奈さん!なんで!?」
ファミリーやカップルに混じって、ひとりでキャラクターショーを眺めていた奏斗くんは、砂漠でペンギンを見つけたような顔をした。
はっきり言ってかなり目立っている。元々人目を引く容姿な上に、高校生男子のひとり遊園地は想像していたよりもすさまじい違和感だった。
「そっちこそ、なんで勝手にいなくなってるの!?」
有無を言わせず奏斗くんの腕をとり、場外に引きずり出す。
「すっごく心配したんだから!起きたら布団空っぽだし!何の連絡もないし!拓海さんはヘンなこと言うし!」
「拓海が来たのか!?」
「来たよ、すっごくいいタイミングで。組織の規則のこととか、追放とか、詳しく聞いた」
奏斗くんは思い切り苦虫を噛み潰した。
「それで、何しに来たの?」
静かだが、冷たく鋭い視線。今までに見たことのない拒絶の意志表示。危うく気持ちがしぼみそうになる。
「…迎えに来た」
「今さらだね。俺のしたこと理解できてるの?」
「できてる!」
「だったらなんでだよ!俺、真奈さんのこと弄んで、泣かせて、これ以上ないってくらい傷つけたんだよ!?」
「それが何よ!」
噛み付くような私の反撃は、一瞬だけ奏斗くんを怯ませた。他人の後をついていくばかりだった私が、こんなに大声を上げたのは、たぶん十年以上ぶりだ。
遼介とのケンカでも、こんなに必死になったことはない。
「そりゃすっごく傷ついたよ!泣いたよ!けど、奏斗くんといた時間はすっごく幸せだった。私にはそっちの方が大事なの!」
痛い過去をしつこく引きずってるなんてバカだ。どうせなら楽しい思い出を大切にもっていたい。
こんなところで痴話げんかかと、道行く人からの遠慮のない視線を浴びるが、今はなりふり構っていられなかった。
「遼介とのことは、終わったんだよ。気持ちの整理もついてる。奏斗くんは、過去のつまんない後悔をいつまでも背負い込んで、また私のこと泣かせるつもりなの?」
自惚れともとれる台詞だったが、少年は引っぱたかれたような顔をした。
「大好きだよ。私もう、奏斗くんがいてくれないとダメなの。…お願い、そばにいて?」
一番伝えたかったことは、すんなり口から零れ出た。
バカ正直で、真面目で、応用が利かない。コンプレックスだった性格も、こういう時には役に立つのかもしれない。
少年の頬に一刷け朱が混じった。
「…真奈さんがそんなだから、俺、規則守れないんだよ」
ポツリと拗ねたように零した横顔は、悔しいけれどめちゃくちゃ可愛かった。