36
軽快なクリスマスソングが流れる街を、独り歩く。
十二月二十三日。婚約の話を聞いてから一週間。
あれからずっと抜け殻のような生活を送っている。
会うことを拒否し続ける羽海に、蒼はとうとう何かを感付いたようだ。
無機質な携帯の画面には、【落ち着いてからでいいから一度話したい】という彼からのメールが映し出されている。
ショッピングモールの入り口。大きな木に施された華やかなイルミネーション。
クリスマスは二人で過ごそう。そう蒼と約束していた。
少し前までは、思い切って新しい服を買ってみようかとワクワクしていたというのに――
仲良く手を繋いだカップルとすれ違い、思わず視線を逸らした。
胸の奥が、引き絞られるように痛かった。
けれど、このまま蒼を避け続けているわけにもいかない。
羽海は、何度も押すのをためらった携帯の送信ボタンの上に親指をのせた。
【明日の夜、蒼さんの部屋に伺います。】
*
その日は、雪だった。
一日中穏やかに降り続いた白い塊は、仕事が終わるころには辺りを銀色に染めていた。
久しぶりに目にする彼の部屋のドアの前に立った。
速まる鼓動。付き合う前、マフィンを渡しにここまで来た時のことを思い出す。
羽海は一つ深呼吸をしてからベルを押した。
「お疲れ」
蒼は二週間前より、また少しやつれたように見えた。
「どうぞ」
「お邪魔します」
いつもの定位置に正座した羽海に、蒼が紅茶を淹れてくれる。
温かい液体を一口喉に流し込むと、いくらか緊張がほぐれた。
「仕事、忙しいのですね」
「ああ…年末だしな」
当たり障りのない会話を試みるが、二人の間にある気まずい空気はそれを許さなかった。
蒼と一度も目が合わない。
爽やかで人懐っこい、大好きな笑顔もない。
「何で、避けてたの?」
核心を突く問いに、ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
「この間…街のホテルで麗奈さんを見かけたんです」
「……」
蒼はやっとこちらに視線を向けた。
「雨宿りをしているときに偶然見かけて、そしたら…蒼さんが来て…」
不意に、喉に熱いものが込み上げ、羽海はきつく唇を噛み締めた。
しかし、以前実家でしたように、蒼がそこに触れることはなかった。
我慢するな、と優しい声で言ってくれることも。
「…麗奈さんに、聞きました。婚約…してるって、……本当なんですか…?」
蒼は苦しげに眉間に皺をよせた。
コチ…コチ…と時を刻む秒針の音が、やけに耳につく。
「……本当だ」
本当だ。
彼の声が何度も頭の中でリフレインする。
底知れない絶望感に、呑み込まれてしまいそうだった。
「私のことは…本気じゃなかったってことですか…?」
「そんなわけない!」
「だったら…婚約はどうするんですか!?」
「…!」
知らず、大きな声が出た。
誰かにこれほど感情を剥き出しにしたのは、記憶にある限り初めての経験だった。
「蒼さんの家の事業が続いていくためには、婚約は断れないのだと聞きました…。つまりは…どうしようもないってことなんですよね?」
「……」
「私たち…いつかは別れなくちゃならないんですよね?」
「……」
悲痛な面持ちで押し黙る蒼。
その沈黙が、何よりの答えだった。
涙腺は、とっくに限界を超えていた。
「私…っ…蒼さんのこと…大好きです……。大好きだから、ずっと……苦しくて…」
ポタポタと零れた涙がジーンズに染みを作る。
嗚咽を抑えられず、まともに話すことも叶わない。
「ごめ…なさ……わたし…、これ以上蒼さんとは…っ…一緒にいられません……」
心から愛しているからこそ、離れるのを前提で付き合うことなんてできなかった。
捨てられると分かっていて恋人同士でいる。そんなこと、いくら蒼の気持ちが本気でも無理だ。
しゃくり上げる羽海に手を伸ばそうとした蒼は、一瞬だけためらい、力なく腕を下ろした。
「婚約のこと、黙ってたのは本当にごめん。俺の気持ちだけで告白して…傷つけたことも」
蒼は一度ぎゅ、と目を瞑り、開く。
深い色をしたブラウンの瞳に、迷いはなかった。
「だけど、これだけは忘れないでほしい。俺は今までも、これからもずっと…矢吹だけを愛してる」
*
気がついたら、自室にいた。
温かな体温が膝の上に乗っている。マロだ。
部屋の中は真っ暗で、窓からはチラチラと舞う雪が見える。
本当なら今頃は、蒼とディナーを楽しんでいるはずだった。
なんて、呆気ない。
恋人同士なんて肩書きは、一瞬にして赤の他人に変わってしまうのだ。
ずっと一緒にいたいと想っていたのに。
今でもこんなに、好きなのに。
「どうして…叶わないのかなぁ……」
悪戯っぽくからかわれることも、一緒にジョギングすることも、もうない。
辛いときに抱き締めてくれる温かい手にも、触れられない。
あんなに楽しかった日々が、思い出になってしまう。
「結局…一度もつけられなかったな…」
初めて彼の車の助手席に乗って、連れて行ってもらった雑貨屋。
可愛いと思って眺めていた花のヘアアクセサリー。
それが、蒼からもらった初めてのプレゼントだった。
勇気がなくてクローゼットに入れっぱなしだったけれど、一度くらいつければ良かった。
きっと蒼なら、少し照れた笑顔で、"似合う"と言ってくれただろう。
「さよならなんて…嫌だよ…っ……」
羽海は、幼い子どもに戻ったように声を上げて泣きじゃくった。
涙と一緒に、蒼を好きな気持ちも全部流れていけばいいのに。
そうだ。いっそ大嫌いになってしまえばいい。
この身を引き裂かれるような痛みは、蒼を愛しているがゆえのものなのだから。
雪の舞い落ちる聖夜、羽海は独り、静かに涙を零し続けた。