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「嫌がってんだろ」
「これはお久しぶりですね、真崎さん」

 険悪な空気を隠そうとしない蒼に対し、陸はあくまでソフトな態度を崩さない。
 それどころか、この状況を面白がっているようにすら見える。

「手、離せよ」
「二股を掛けていた分際でよくそんなことが言えるな」
「ちょ…!桜井さん!そのことはもう…」

 とっくに終わったことだ、と言いかけた羽海を、強い声が遮る。


「婚約なら解消した」


「………え?」


 蒼は、とんでもないことをサラリと言ってのけた。

 婚約を断るのは不可能だと麗奈から聞いていた。
 蒼の実家が代々続けてきた金融業は、大方菅波の出資で成り立っているから、と。
 そういうことなら仕方ないって、やっと最近事実を受け入れられたところだったのに。

「まさか…菅波と手を切ったのか?」

 信じがたいと言わんばかりに陸が問う。
 蒼はいともあっさりと頷いた。

「ありえない。並大抵の損失では済まないぞ」
 
「菅波の代わりになる別の出資者につけばいいだけだ」
「簡単に言うが…そんな器、そう易々と見つけられるわけないだろ」

 陸は話を端から信用していないのか、小さく鼻で笑う。
 しかし、蒼の次の発言を聞いた瞬間、その表情が驚愕に変わった。

「出資者は俺の勤務先だよ」

「…え…?」


「日本リーディング銀行がうちの事業を正式に出資先として認めた」

 今度こそ、陸だけでなく羽海までもが絶句した。
 日本リーディング銀行の名前を知らない国民はまずいない。二十兆円あまりの資産を持つ、日本金融界の最大手だ。
 日本に留まらず、世界でも常にトップスリー内には名を連ねているのだから、その業績は群を抜いていると言える。

「まさか。若手一人の力で最大手の銀行を動かすなんて不可能だ」
「最初っから不可能なんて言ってたら可能なことも出来なくなる」
「それにしたって…」

 陸が不服を訴えるのも最もだった。
 日本リーディング銀行は他の大手銀行とは違い、各県都市部だけでなく地方にも支店を構えている。
 その経営規模はすさまじく、従業員数は膨大。二十代の若造が幹部に意見を申し述べ、ましてそれが通るなど前代未問なのだ。


「大学ん時から考えてた。家の事業を守るためとは言え、知りもしない女性(ひと)と結婚なんておかしいし、相手にも失礼だって。そうせずに済むには、今の出資先よりも強力なところを味方につけるしかなかった」

 凛として語る蒼の表情は、一年前よりもずっと洗練されている。

「リーデング銀行が一番条件にピッタリだったんだよ。だから、そこで俺の力を認めてもらえれば何とかなるかもって」

 二十二で就職したその年から、蒼は若手の中では抜きん出た営業成績で、幹部からも大きな期待を寄せられていた。
 彼の活躍は銀行の経営に多大な影響を与え、顧客満足度は右肩上がり。
 それゆえに、蒼が家の事業を継ぐからと辞表を提出した時は、誰もが寝耳に水だったのだ。

 過去に例を見ない逸材を手放したくない、と辞職を拒む銀行側に、蒼は提案を持ちかけた。


 ならば、自分が経営する金融事業をサポートしてくれないか、と―――

 そうすれば責任を持って事業を拡大し、利益を還元するから、と。


 長い交渉の末、リーディング銀行は蒼の可能性を買った。
 蒼への投資が将来的にメリットになると判断したのだ。


「なるほどね。君は最初から、親の決めた婚約に従うつもりなどなかったということか。二十歳そこそこの時からすべて事情を理解し、こうなるよう計算して動いていた。さすが、菅波に見込まれるだけはあるな」

 クスリと小さく笑みを零した陸は、羽海に意味ありげな目配せを残しさっさと背中を向けた。

「矢吹さん、彼の実力不足で婚約復帰なんてことになったらまた連絡して」
「ならねーし、しねえよ!」

 蒼に威嚇されつつも陸はやはり楽しそうで。くつくつと肩を揺らしながら去っていった。







「蒼さん…立派なところに勤めていらしたんですね…」
「あー…ごめんな。持ち上げられるの好きじゃないから、あんまり言いたくなかったんだ」

 少し眉尻を下げた苦笑いで蒼が答える。
 右目の横に軽く触れるのは、彼の照れた時の癖だ。

 しばらく離れて洗練されても、こういうところは変わっていない。

 羽海の心の中に、津波のように愛しさが込み上げた。
 一年もかけてやっと穏やかでいられるようになったのに。
 ただ姿を見ただけで…こんなにも簡単に気持ちを攫われてしまうなんて。


「ちょっと歩こうか」

 蒼の提案で、以前一緒に通った公園の並木道を歩いた。
 木々のさざめきに混じって、時々子どものはしゃぎ声が聞こえてくる。
 すぐ近くで、蒼のフワフワしたブラウンの髪が揺れているのが、まだ信じられない。


「久しぶり…ですよね、蒼さんと会うの。身体は大丈夫ですか?」
「ああ、うん。去年の冬は…仕事が立て込んでてさすがに限界かと思ったけど、最近は平気」

 懐かしい彼の笑顔は、確かに血色が良い。

「…病気では、なかったのですね」
「ん、病気って?何のこと?」

 あれほど心配していたことは、どうやら羽海の早とちりだったようだ。
 "思い出を作っておきたい"という発言は、じきに婚約の件で一緒にいられなくなることを思ってのものだったのかもしれない。

「婚約が解消されたって…蒼さんが麗奈さんに掛け合ったんですか?」
「掛け合ったって言うか、話し合った。お互い好きでもない人と結婚するのはやっぱり間違ってるって。向こうのご両親は怒って、うちとの契約は切られたけど、それで繋がりがなくなるようなら最初から実力を見込んでの取引じゃなかったってことだから」

 何年か前、出資元に依存するような経営はやめるべきだって親とも話したんだけど…分かってくれなくて、と蒼は渋い顔でこぼした。

「それで家を出てあのアパートに…」
「そう。俺が自力で証明するしかないと思ってさ」

 蒼は腕に抱いたマロの顎をそっと撫でた。

「あ、矢吹があそこに越してきたのは偶然だからな」
「あはは…分かってますよ」

 少しだけムキになる蒼が何だか可愛らしい。
 

「でもあの時は本当にビックリした。ずっと好きだった子が同じアパートに引っ越してくるとか…ドラマみたいな展開じゃんって」

 懐かしむように言われ、羽海は少しだけ下を向いた。
 過去のこととはいえ、好きな人から好きと告げられるのは何だかむず痒い。

「一年前…さ、本当は矢吹に言いたいこと、すげー沢山あったんだよ。だけど結局ちゃんと話せないまま別れて…ずっと後悔してた」

 並木道、ほころびかけた桜を見上げて、蒼は静かに話し始めた。






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